第百四話 譲れない線
あああああああぁぁぁー、仕事が繁忙期で執筆が追いつかず申し訳ないです。。。
がんばって更新します!
遅くなりましたガ第三章、第百四話お楽しみ下さい!
第百四話 譲れない線
春が終わり、学院の空気に少しずつ夏の気配が混ざり始めた。
リリィ・レグナードが編入してきてから、もうしばらく経つ。
最初は目立つ編入生だった。
他国の学院から来た平民出身の少女。
世界を一つにする王になると、教室で堂々と宣言した変わり者。
けれど今では、リリィの笑い声は学院の日常の一部になっていた。
「はっはっは! その荷物は一人で持つ量ではないわ!」
「リリィさん、またですか?」
「またとは何よ。困っている人を見つけたなら、手を伸ばすのが当然でしょう!」
廊下の向こうで、リリィが誰かの荷物を半分抱えて笑っている。
その光景にも、もう誰も大きく驚かない。
リリィはそういう人間なのだと、学院の多くが知り始めていた。
二年生の授業は、一年生の頃よりも実践寄りになった。
契約悪魔の顕現訓練。
魔力圧の制御。
複数人での連携。
状況判断。
年度末に行われる学院序列戦の噂も、少しずつ生徒たちの間に広がっている。
ただ、それはまだ先の話だ。
今はまだ、目の前の訓練だけで十分に忙しい。
セシリアは、シルの糸を指先に宿せる時間が少し伸びた。
白銀の糸は細く、弱く見えるのに、張られる位置次第で相手の足運びを狂わせる。
ローゼリアは、ブライアの荊を以前より細く、速く出せるようになった。
足元を走る黒い影は、ただ相手を縛るためだけでなく、逃げ道そのものを狭めるものになりつつある。
ニカは、バンデットの衝撃をただ外へ弾くだけではなく、どこへ逃がすか、どこへ返すかを少しずつ選び始めていた。
「うわ、今のいい感じじゃない?」
「感覚で喜ぶな。再現しろ」
「はーい」
イザベラにそう言われながらも、ニカは楽しそうだった。
リリィは、さらに分かりやすく前へ進んでいた。
ソードオブクラウン。
その名を呼ぶと、リリィの背後に白金の騎士王の影が立つことがある。
まだ完全な顕現ではない。
けれど、軽い魔法なら行使できるようになっていた。
木剣に白金の光をまとわせ、振るわれる剣筋を重く、真っ直ぐにする。
受ける側の身体へ、まるで「下がれ」と命じるような圧が乗る。
一方で、俺は何も出せなかった。
いや、正確には、出さなかった。
右肩に意識を向ければ、ラグナは反応する。
熱が走る。
赤黒い魔力圧が皮膚の下で泡立つ。
耳の奥で、あの声がする。
――壊せ。
呼んでいる感覚ではない。
扉を開けるのではなく、檻の鍵を壊す感覚に近い。
だから俺は止めた。
何度も。
何度も。
ルナは沈黙したままだった。
熱もない。
冷たさもない。
声もない。
名前だけが、深い水底に沈んでいる。
悪魔を出せないなら、出せないまま戦うしかない。
魔法を使えないなら、剣を振るしかない。
壊す力に頼れないなら、壊さずに届く方法を探すしかない。
だから俺は、剣を振った。
体術を磨いた。
魔力圧を足裏に定着させ、踏み込みの瞬間だけ密度を変えた。
剣の表面に薄く魔力圧を這わせ、受けるのではなく滑らせる感覚を何度も試した。
イザベラはある日の訓練後、木剣を肩に担ぎながら言った。
「剣と身体、魔力圧操作だけなら、お前はこの学年でも上の方にいる」
「珍しく褒めますね」
「事実を言っただけだ。調子に乗るな」
イザベラは俺の足元を見る。
「特に魔力圧の密度と定着精度は、以前とは違う。雑に垂れ流すだけだった頃と比べれば、別物だ」
そう言われると、少しだけ胸が熱くなった。
けれどイザベラはすぐに続ける。
「だが、それでもレグナードには足りない」
分かっている。
リリィは強い。
それは近くで見れば見るほど分かることだった。
別の日、訓練場の端で一人剣を振っていたレオスにも、似たようなことを言われた。
「お前の魔力圧は、以前よりずっと静かだ」
「静か?」
「強いのに、散っていない」
レオスは淡々と言う。
「俺が知っている契約者の中で、そこまで身体に馴染ませた奴は少ない」
「ありがと」
「フンッ」
その言い方は、どこまでもレオスらしかった。
けれど、レオスはそこで視線をリリィへ向ける。
リリィは離れた場所で、木剣に白金の光をまとわせていた。踏み込みと同時に、空気が重く沈む。
「だが、リリィ・レグナードは強い」
「……うん」
「あの剣は、真っ直ぐすぎる」
レオスがそう言った意味は、俺にも少し分かる。
リリィの剣は、道を作る剣だ。
迷わず進む。
正面から切り開く。
周りに、ついてこいと言うような剣。
俺の剣は、たぶん違う。
道を作るほど強くはない。
だから探す。
隙間を探し、角度を探し、壊さずに通れる場所を探す。
その違いが、少しずつ俺とリリィの間に形を持ち始めていた。
そして夏の気配がはっきりし始めた頃、その違いは言葉になった。
きっかけは、一人の女子生徒だった。
名前はミリア。
同じ二年生だが、別の組の生徒で、契約悪魔との相性が悪く、顕現訓練でも失敗が続いているらしい。
貴族の分家出身で、家からは成績を理由に学院を辞め、縁談を受けるよう手紙が来ていた。
昼休みの中庭で、ミリアはその手紙を握りしめていた。指先は白くなり、俯いた顔は青ざめている。
その前に、リリィが立っていた。
「嫌なら、嫌と言いなさい!」
リリィの声は明るい。
けれど、いつものように笑い飛ばすだけの声ではなかった。
ミリアは唇を震わせる。
「……言ったら、家に迷惑がかかります」
「あなたが潰れても、家に迷惑はかからないの?」
リリィが真っ直ぐに返す。
ミリアの肩がびくりと揺れた。
「それは……でも、私が弱いから。学院に入ったのに、悪魔もまともに呼べなくて。家からすれば、私にはもう別の役目が……」
「あなたはどうしたいの?」
俺が聞いた。
ミリアは俺を見て、それからすぐ目を伏せた。
「……分かりません」
その声は小さかった。
「残りたい気もします。でも、怖いんです。訓練も、家からの手紙も、先生に相談することも。縁談が嫌なのか、逃げたいだけなのかも分からなくて……」
分からない。
その言葉は、本心に聞こえた。
ミリアは誰かに代わりに決めてほしいようにも見えた。
でも、誰かに決められるのを怖がっているようにも見えた。
リリィは一歩前に出た。
「今は、私が前に立つわ」
「リリィが?」
「ええ。ミリアが言えないなら、私が言う。選べないほど追い詰められているなら、まず引き上げるべきよ」
その言葉は、間違っていない。
ミリアは確かに追い詰められていた。
今すぐ誰かが手を伸ばさなければ、潰れてしまうかもしれない。
でも。
「助けるのは分かる」
俺はリリィを見た。
「でも、リリィが言ってしまったら、それはミリアの選択じゃなくなる」
リリィの眉が少しだけ動いた。
「その子が、自分で言える形を作るべきだよ」
「それを待っている間に、潰れたらどうするの?」
リリィの声が、少し低くなった。
「まず生きていなければ、選ぶこともできないわ」
「生かすために全部決めるなら、それは檻と何が違うの」
空気が止まった。
ミリアが小さく息を呑む。
その反応を見て、胸が痛んだ。
俺たちは今、ミリアの話をしている。
なのに、いつの間にか俺とリリィの言葉が前に出すぎていた。
ミリア本人が、また一歩後ろに下がりかけている。
「ごめん」
俺はミリアに向き直った。
「ミリアを置いて話してた」
リリィも、はっとしたようにミリアを見る。
「……私もだわ。ごめんなさい」
「い、いえ……」
ミリアは困ったように首を振る。
リリィは少し膝を曲げ、ミリアと視線を合わせた。
「私は、あなたを今すぐ助けたい。あなたが言えないなら、代わりに言うつもりだったわ」
それから、俺の方を見る。
「でも、アイリスはあなた自身が言える形を作るべきだと言っている」
リリィは再びミリアを見る。
「ミリア。あなたは、今、どちらが怖い?」
ミリアはすぐには答えなかった。
手紙を握った指が震える。
「……どちらも、怖いです」
「うん」
俺は頷いた。
「そうだよね」
「誰かに言ってもらえたら、楽だと思います。でも、それで本当に残れるのか分からなくて。私が自分で言わなかったら、また次も誰かに言ってもらわないといけなくなる気がして……でも、自分で言うのは怖くて……」
ミリアの声がかすれる。
「どうしたらいいのか、本当に分からないんです」
その言葉で、場の重さが少し変わった。
ミリアは何も考えていないわけじゃない。
選べないのではなく、選ぶための足場が崩れているのだ。
「今回は、リリィの方が現実的だと思うわ」
ローゼリアが静かに言った。
俺は少し驚いて振り返る。
ローゼリアは腕を組んだまま、ミリアを見ていた。
「選べる状態にない者に、選べと言うのは酷な時もある。まず引き剥がす。話はそれからでも遅くない」
「ローゼリア……」
「アイリスの言っていることが間違っているとは言わないわ。でも、今回は遅い」
ニカも少し困ったように言う。
「あの子、もう選べる感じじゃなかったよ。誰かが前に立たないと、潰れると思う」
二人の言葉は胸に刺さった。
俺も、ミリアが危ないことは分かっている。
それでも、代わりに選んでしまうことが怖かった。
「私は、アイリスの言い分も分かるわ」
セシリアが口を開いた。
その声は静かだった。
「善意で決められた道でも、歩かされる側にとっては命令になることがあるもの」
セシリアは王族だ。
王族として、善意や責任の名の下で誰かの道を決めることの重さを知っている。
だから、俺の言葉を否定しなかった。
リリィは、俺たちを順に見た。
それから、大きく息を吐く。
「あなたたちの言うことは分かるわ」
リリィは言った。
「でも、私も譲れない」
「私もだよ」
言葉はそこで止まった。
どちらも間違っていない。
だからこそ、進めない。
ミリアは手紙を胸元に抱えたまま、俺たちを見ていた。
不安そうで、苦しそうで、でも少しだけ目を逸らさなくなっていた。
リリィはしばらく俺を見つめていた。
そして、いつものように白い歯を見せて笑った。
「なら、決闘で確かめましょう!」
「……なんでそうなるの?」
思わずそう返すと、リリィは胸を張った。
「あなたも私も、本気で言っているからよ!」
「本気なら決闘になるの?」
「言葉だけでは届かないなら、剣で確かめるしかないわ!」
強引だ。
相変わらず、ものすごく強引だ。
でも、不思議と嫌ではなかった。
リリィの剣は、相手を黙らせるためのものではない。
相手を知るために、真正面からぶつかる剣だ。
それが、少しだけ分かってしまった。
「勝った方が正しい、って話にはしないよ」
「もちろんよ」
リリィは即答した。
「勝った方が、相手の言葉を一つ聞く。それでどう?」
「言葉を一つ?」
「ええ。私が勝てば、あなたは私のやり方を一つ認める。あなたが勝てば、私はあなたのやり方を一つ認める」
勝ち負けで正しさを決めるのではない。
ただ、譲れない線の向こう側にあるものを、少しだけ近づけるための決闘。
俺はリリィを見た。
「……分かった」
俺は頷いた。
「それなら、乗る」
リリィの笑顔が、ぱっと明るくなった。
「はっはっは! そうこなくては!」
「軽い決闘にしてよ」
「もちろんよ!」
その返事が少しも信用できないと思ったのは、たぶん俺だけではなかった。
ニカが苦笑し、ローゼリアが肩をすくめ、セシリアが小さくため息をつく。
ミリアは、少しだけ戸惑った顔をしていた。
「あの……私のことで、そこまで……」
「違うよ」
俺は首を振った。
「ミリアのことをきっかけに、私たちが勝手にぶつかってるだけ」
リリィも頷く。
「だから、あなたはあなたで決闘を見ていて。私たちの勝ち負けで、あなたの道を決める必要はないけども、私たちが何を思っているのかはわかるはずだわ!」
その言葉に、ミリアはゆっくり頷いた。
イザベラに話を通すと、彼女はしばらく俺たちを見ていた。
「教師としては、くだらんと言いたいところだが」
イザベラは低く言った。
「お前たちが何を確かめたいのかは分かる」
そして、条件を付けた。
場所は訓練場。
監督はイザベラ。
殺傷目的の魔法は禁止。
過度な顕現は禁止。
アイリスはラグナを出さないこと。
危険と判断すれば即時中断。
「これは決闘であって、潰し合いではない」
イザベラの視線が、俺とリリィを射抜く。
「そこを間違えるな」
「はい」
「もちろんよ!」
リリィは笑った。
その笑顔を見ながら、俺は自分の双剣の柄に触れる。
リリィは強い。
ソードオブクラウンを軽く顕現し、魔法も使える。
正面から戦えば、たぶん俺よりずっと上だ。
でも、俺にも積み上げてきたものがある。
ラグナに頼らないために。
ルナに届かないままでも立つために。
剣と身体と魔力圧だけで進むために。
夏の風が、訓練場へ続く廊下を抜けた。
譲れないものを、言葉だけでは確かめきれなかった。
だから俺たちは、剣を取ることになった。




