第百三話 笑う太陽
第百三話 笑う太陽
リリィ・レグナードがアークレスト学院に編入してきて、数日が経った。
最初の一日は、ただの噂だった。
他国の学院から来た編入生。
平民出身。
剣の悪魔、ソードオブクラウンの契約者。
世界を一つにする王になると、教室で堂々と宣言した少女。
けれど、数日が経つと、その名前はただの噂ではなくなっていた。
「リリィさんなら、さっき廊下にいたよ」
「また誰かの荷物持ってたぞ」
「あの人、王になるって本気で言ってるのかな」
「でも、笑ってるとなんか本気に見えるんだよな」
「平民なのに?」
「平民なのに」
廊下を歩くだけで、そんな声が耳に入る。
リリィ・レグナードという名前は、数日で学院の空気に混ざった。
ただ混ざっただけではない。
少し、温度を上げるみたいに。
「はっはっは! そこは東棟ではないわ!」
前方から、やたらよく通る声がした。
見ると、リリィが地図を片手に困っている下級生たちの前で胸を張っていた。
「リ、リリィさん。東棟はどちらですか?」
「私も最初は迷ったわ!」
「えっ」
「だから大丈夫よ! 迷う者の気持ちは分かる!」
それ、道案内としては少し不安じゃないだろうか。
だが、下級生たちは緊張を解いたように笑った。
リリィは地図を覗き込み、しばらく真剣な顔をした後、力強く指を差す。
「こっちよ!」
「本当に合ってます?」
「たぶん!」
「たぶんなんですか!?」
「はっはっは! 間違っていたら、もう一度戻ればいいわ!」
下級生たちは結局、笑いながらリリィについていった。
その少し後、教材を山のように抱えた生徒が階段前で立ち往生していた。リリィはそれを見るなり、迷わず近づいて半分を抱える。
「あ、ありがとうございます、レグナードさん」
「王になる女は、荷物運びもできるのよ!」
「王って、そういうものなんですか?」
「少なくとも、荷物を持てない王よりは頼りになるわ!」
また誰かが笑う。
さらに別の日には、訓練場の入り口で、非契約者の生徒が遠慮がちに隅へ寄っているのを見た。
契約者たちが広い場所を使い、非契約者が空いた端を使う。
それ自体は、この学院では珍しい光景ではない。
けれどリリィは、そこにも普通に踏み込んだ。
「そこでは狭いでしょう!」
「え、でも……」
「訓練場は、強い者だけの場所じゃないわ。強くなりたい者の場所よ!」
言葉は明るい。
けれど、軽くはなかった。
リリィは木剣を肩に担ぎ、当然のようにその生徒の隣へ立つ。
「見ていてあげるわ。振ってみなさい!」
「いや、俺、契約者じゃないですし……」
「剣を振るのに、悪魔の許可がいるの?」
それを聞いた生徒が、目を丸くした。
少し離れた場所で、レオスがその光景を見ていた。
レオスは何も言わない。
表情もほとんど変わらない。
ただ、その灰緑色の目は、しばらくリリィの背中を追っていた。
リリィは誰にでも同じだった。
王女であるセシリアにも、大貴族令嬢であるローゼリアにも、獣人であるニカにも、非契約者であるレオスにも、そして王国騎士を殺しかけた危険人物として噂される俺にも。
距離の詰め方がうまい、というより強い。
壁を壊すのではなく、笑いながらまたいでくる。
しかも、それが無理をしているようには見えない。
あれは、昨日今日で作った振る舞いじゃない。
たぶん、ずっとそうしてきた人間の動きだ。
昼休み。
俺はニカ、セシリア、ローゼリアと席を囲んでいた。
話題は、当然のようにリリィのことになる。
「悪い匂いはしないよ」
ニカがパンをかじりながら言った。
「でも、眩しい。太陽見てるみたいで、ちょっと目が疲れる」
「太陽か」
確かに、リリィは眩しい。
ただ明るいだけじゃない。
周りにいる人間の顔を上げさせる明るさだ。
セシリアは腕を組み、少しだけ難しい顔をしていた。
「世界を一つにする王になる、なんて軽々しく口にする言葉ではないわ」
「王女としては、やっぱり気になる?」
「当然でしょう。王という言葉は、願望だけで背負えるものではないもの」
そう言いながらも、セシリアの声に強い嫌悪はなかった。
「でも……困っている人に迷わず手を伸ばすところは、嫌いじゃないわ」
「認めてるんだ」
「認めたわけじゃないわ。見たままを言っただけよ」
セシリアはぷいと顔を背けた。
相変わらず、分かりやすい。
ローゼリアは静かにリリィのいる方を見る。
リリィは別の席で、何人かの生徒に囲まれていた。何を話しているのかまでは聞こえないが、リリィが笑うたびに、その周辺の空気が軽くなるのが分かる。
「あの子、人を惹きつけるわね」
ローゼリアが言った。
「善人で、強くて、前に立つことを恐れない。ああいう人間には、自然と人が集まるものよ」
「ローゼリアは、リリィのことどう思う?」
「嫌いじゃないわ」
少し意外な返事だった。
ローゼリアは続ける。
「ただ、眩しい人間ほど、自分の影を見落とすことがある」
「影?」
「光が強ければ強いほど、見えにくくなるものもあるでしょう」
ローゼリアらしい言い方だった。
でも、その言葉は胸のどこかに残った。
「はっはっは! 私の話なら、本人も混ぜなさい!」
噂の本人が、遠慮という言葉をどこかに置き忘れたような足取りで近づいてきた。
セシリアが眉を寄せる。
「普通は少し遠慮するものよ」
「遠慮して誤解されるより、笑って話した方が早いわ!」
「あなたの中で、笑えばだいたい解決することになってない?」
「解決しないこともあるわ!」
「分かっているなら、もう少し慎重になりなさい」
「慎重に笑うわ!」
「そういう問題ではないわよ」
セシリアが頭を押さえた。
ニカは横で楽しそうに笑っている。
リリィは空いている椅子を引き寄せ、当然のように座った。
「あなた、本当に王になるつもりなのね」
セシリアが改めて問う。
「もちろんよ!」
リリィは迷いなく答えた。
「平民のあなたが?」
その言葉に悪意はない。
セシリアは王族だ。
王という言葉の重さを知っている。
だからこそ、問わずにはいられないのだろう。
リリィも、それを分かっているようだった。
「ええ。血で王になるんじゃないわ」
リリィは笑う。
「私が前に立つ。私が背負う。私がみんなを笑わせる。だから私は王になるのよ!」
眩しい言葉だった。
きっと、励まされる人もいる。
けれど、俺は少し引っかかった。
「背負われたくない人もいるかもしれないよ」
リリィが俺を見る。
周囲の空気がわずかに止まった。
けれどリリィは怒らない。
「なら、その人とはちゃんと話すわ」
「話しても、譲れなかったら?」
「その時は、真正面からぶつかるしかないわね!」
迷いのない返事だった。
「はっはっは! いいわ、アイリス。あなたは私の言葉を、ちゃんと剣みたいに受け止めてくれる!」
「褒められてるのかな」
「もちろんよ!」
否定されても、壊れない。
拒まれても、笑って向き合う。
その姿を見て、少しだけルシェルのことを思い出した。
同じように強い言葉を持っていても、リリィは違う。
自分の理想を差し出す。
ぶつけられれば、ぶつかり返す。
でも、相手の口を塞ごうとはしない。
そこが、決定的に違っていた。
放課後。
中庭を通りかかった時、リリィの周りにまた人が集まっているのが見えた。
「リリィさん、この前はありがとうございました」
「剣の振り方、少し見てもらってもいいですか?」
「レグナードさん、東棟ってこっちで合ってます?」
「それはまた迷っているわね! はっはっは!」
昨日来たばかりのようなものなのに、もうリリィに声をかける生徒が増えている。
それは、彼女が無理に集めたものではない。
リリィが笑い、動き、手を伸ばし続けた結果、自然と人が寄っていったのだ。
その時だった。
「あなたが、世界を一つにする王になると言った編入生?」
少し離れた場所から、静かな声が落ちた。
声の主は、上級生らしき女子生徒だった。
身なりは整っている。
口調も荒くはない。
けれど、その言葉には明らかに温度がなかった。
周囲の生徒たちが、少しだけ黙る。
リリィは振り返り、いつものように笑った。
「ええ! リリィ・レグナードよ!」
「平民だと聞いたけれど」
「その通りよ!」
「夢を見るのは自由だけれど、王冠という言葉は少し重いわよ」
リリィの周りにいた生徒たちが、気まずそうに視線を揺らした。
セシリアもローゼリアも近くにいたが、すぐには口を挟まなかった。
たぶん、分かっていたのだ。
これは、リリィ自身の夢に向けられた言葉だと。
「ええ、重いわ!」
リリィは笑って答えた。
「だから背負う価値があるのよ!」
上級生はわずかに目を細める。
「重さも知らない人ほど、そう言うものよ」
その言葉が、空気を刺した。
リリィの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に、一瞬だった。
他の生徒は気づかなかったかもしれない。
けれど俺には、その一瞬が見えた。
笑顔の奥で、何かが小さく沈むような表情。
それでも次の瞬間、リリィはまた笑った。
「そうかもしれないわね」
明るい声だった。
けれど、さっきまでより少しだけ深い。
「だから私は、これから知りに行くのよ」
上級生が黙る。
リリィは一歩前に出た。
「私はまだ王じゃない。王冠も持っていない。国もないし、血筋もないわ」
白い歯を見せる。
けれど、その目は真っ直ぐだった。
「でも、王になりたいと言うことまで誰かに許されなければならないのなら、きっと私は一生何にもなれないわ」
その場にいる誰もが、リリィを見ていた。
笑われるための夢。
馬鹿にされるための宣言。
それでもリリィは、胸を張る。
「だから言うわ」
リリィの声が、中庭に響いた。
「私はリリィ・レグナード!」
数日前、教室で聞いたのと同じ宣言。
けれど、今は意味が違って聞こえた。
「世界を一つにする王になる女よ!」
誰もすぐには笑わなかった。
上級生も、それ以上は何も言わない。
しばらくリリィを見つめた後、静かに踵を返して去っていった。
勝ったとか、負けたとか。
そういう話ではない。
ただ、リリィは引かなかった。
笑われても、折れなかった。
怒りで殴り返すのでもなく、卑屈に俯くのでもなく、もう一度名乗った。
笑われることに慣れている声だった。
けれど、諦めた声ではなかった。
何度笑われても、そのたびに前を向いてきた人間の声だった。
少しして、人が散り始めた。
リリィはいつものように周囲の生徒に声をかけ、笑っていた。
けれど、俺はなんとなくその場を離れられなかった。
するとリリィがこちらに気づく。
「見ていたのね、アイリス」
「……うん。ごめん。助けに入るべきだった?」
「いいえ」
リリィは即答した。
「あれは私の夢だから、私の口で言うべきことよ」
その言葉に、少し胸を突かれた。
リリィは誰かの前に立つ。
誰かを背負おうとする。
道を示そうとする。
でも、自分の夢まで誰かに持たせるつもりはないらしい。
「笑われるの、平気なの?」
俺が聞くと、リリィは驚いたように目を丸くした。
そして、白い歯を見せて笑う。
「平気ではないわ!」
「即答なんだ」
「ええ! 笑われれば痛いし、馬鹿にされれば悔しいわ!」
リリィはあっけらかんと言った。
「でも、笑われるたびにやめていたら、夢なんて一つも残らないもの」
何でもないことのように。
けれど、たぶん何でもなくなんかない。
俺は「シエーレ」という名を自分で選んだ。
家も、血筋も、後ろ盾もない名前。
その名前で立つと決めた時から、誰かに許されて立っているわけではない。
だから、少しだけ分かる気がした。
名前も、夢も、誰かに許可されてから持つものではない。
「リリィは、強いね」
「はっはっは! もっと褒めてもいいわ!」
「でも、無理してない?」
その瞬間、リリィの笑顔がまた少しだけ止まった。
すぐに戻ったけれど。
「無理くらいするわ」
リリィは空を見上げる。
「誰かが泣きそうなら、私が笑う。誰かが立てないなら、私が手を伸ばす。誰かが迷うなら、私が道を示す。そう決めたのだから」
「ずっと?」
「必要なら、ずっとよ」
その返事は、やっぱり眩しかった。
でも同時に、少し怖かった。
「リリィさん!」
遠くから誰かが呼ぶ。
リリィはすぐに振り返り、いつもの笑顔を浮かべた。
「はっはっは! どうしたの?」
さっきまでの会話などなかったかのように、リリィは駆けていく。
その背中を見ながら、俺は思った。
リリィは太陽みたいだった。
誰かが不安なら笑い、誰かが困れば手を伸ばし、誰かが俯けば前に立つ。
みんなが、その光に顔を上げる。
みんなが、その光を頼り始める。
それは、きっとすごいことだ。
正しいことでもあるのだと思う。
けれど。
太陽は、眩しいだけではない。
燃えているのだ。
自分を削るみたいに。
俺は太陽にはなれない。
誰かを強く照らし続けるなんて、きっとできない。
でも、疲れた誰かが夜空を見上げた時。
そこに、ただ勝手に浮かんでいる月くらいにはなれるのだろうか。
まだ、分からなかった。




