EP 9
見掛け倒しの手柄より、泥だらけの確かな成果を
「――ほんっとうに本物の、ヴァルハイト公爵様だったのぉぉぉ!?」
翌朝、ルナキン・ポポロ支店の個室ボックス席にて。
キャルルちゃんが可憐なウサギ耳をバタバタと激しく揺らしながら、テーブルに身を乗り出していた。
「うん……昨日いただいたこのカード、やっぱり本物みたい」
私はテーブルの上に、昨日ジルヴェスター様から手渡された漆黒のカードをそっと置いた。
金箔押しで刻まれたヴァルハイト公爵家の紋章――二振りの剣と天秤の意匠が、朝の光を受けて静かに眩い光を放っている。
「帝国軍総司令官にして、若くして筆頭公爵の座につく冷徹なキレ者……! 噂には聞いてたけど、まさかこんなポポロ村に一人でお忍び視察に来るなんて! ナツコちゃん、怪しいことされなかった!? 変な魔法で魅了されたりしてない!?」
「してないわよ! すごく紳士的で、私の仕事の組み方を褒めてくださっただけだもの」
「むぅ……でもあの人、心拍数がまったく乱れないのよ。まるで研ぎ澄まされた名刀みたいに静かで……絶対にタダモノじゃないわ」
キャルルちゃんは苺パフェの生クリームをスプーンですくいながら、うーんと唸った。
心音が乱れない男、ジルヴェスター・フォン・ヴァルハイト様。
確かに、彼の眼光は吸い込まれそうなほど鋭く、圧倒的な存在感があった。
けれど、昨日の彼の言葉が、今も私の胸の奥で心地よい余韻となって温かく残っている。
『表面的な身分や装飾に惑わされず、現場の人間を生かし、最大の成果を出す。……君のような者を、世では「至宝」と呼ぶのだろうな』
(至宝、だなんて……)
前世の社畜時代、私は吉岡課長から「代わりはいくらでもいる使い捨ての駒」として扱われた。
今世でも、エドワード様から「無能の足引っ張り」と蔑まれ続けた。
自分の仕事が正当に評価されることなんて、一生ないのだと諦めていた。
なのに、あの方は私の泥だらけの作業着姿を見て、一瞬で私の「仕事の狙い」を理解し、まっすぐに称賛してくれたのだ。
その時だった。
コンコン、と個室の扉が軽く叩かれた。
「村長、並びにナツコ殿。――お約束通り、お邪魔してもよろしいだろうか?」
低く、地鳴りのように静かで美しい声。
扉が開くと、そこに立っていたのは――昨日のラフな旅装から一変し、深く濃い藍色の正装軍服を隙なく纏った、ジルヴェスター様その人だった。
「ひゃいっ!?」
キャルルちゃんが跳ね起きる。
後ろには、少数の精鋭と思われる近衛騎士が二名控えているが、威圧感を与えないよう静かに頭を下げている。
「ヴァルハイト公爵様……! あ、あの、このようなファミレスでお出迎えすることになってしまって……」
「構わない。むしろ、この『ルナキン』という店舗の合理性と居心地の良さには興味があったのだ。……座っても?」
「あ、はい! どうぞ!」
ジルヴェスター様は私とキャルルちゃんの向かいの席へ、流れるような優雅な所動作で腰を下ろした。
長い脚をすっきりと収め、蒼い瞳をまっすぐに私へと向ける。
「昨日渡したカードで、私の身元は理解していただけただろうか、ナツコ殿」
「はい。まさか帝国軍総司令官であられるヴァルハイト公爵様だとは存じ上げず、大変失礼いたしました……」
「礼など不要だ。私はただの視察官としてここへ来ている。……さて、村長」
ジルヴェスター様はキャルルちゃんへと視線を移した。
「本日ここへ伺ったのは、他でもない。ポポロ村の急速な発展と、その核となっている『帳簿』および『事業計画』を、公爵家の視察官として正式に閲覧させていただきたいためだ。もちろん、村の秘密を暴くような真似はしない。対等な通商条約の検討のための調査だ」
「ポポロ村の帳簿ですか……?」
キャルルちゃんが私を振り返る。
「私からお見せします。隠すような不備は一切ありませんから」
私は足元の鞄から、ここ数日で私が一から整理し直した【ポポロ村事業・農業総括帳簿】のファイルを取り出し、テーブルの上へ静かに提出した。
通販から取り寄せたノック式ボールペンと複写式伝票ノートを駆使し、前世の表計算ソフトの概念をそのまま手書きで再現した、自信作のファイルだ。
ジルヴェスター様は細く美しい指でファイルを手に取ると、一ページ目をめくった。
――その瞬間。
彼の蒼い瞳が、かすかに見開かれた。
「……これは」
静寂が個室を包み込む。
ジルヴェスター様は、吸い込まれるように一枚、また一枚とページをめくっていく。
収入と支出の明確なカテゴリー分け。
将来的な農具の減価償却の試算。
収穫作業員の稼働率と、時間あたりの生産性のグラフ化。
すべての項目の隅には、誰が見ても一目で意図がわかる、細やかで緻密な注釈が添えられていた。
「……見事だ」
ジルヴェスター様の口から、ため息のような呟きが漏れた。
「数字の並びが一つの無駄もなく整列されている。まるで熟練の戦術家が描いた完璧な陣形図だ。……これほどの帳簿、帝国の財務省にも存在せんぞ」
「そんな、恐縮です……。前世……いえ、以前から独学で学んでいた整理法を当てはめただけですので」
「独学でこれができるはずがない。……何より」
ジルヴェスター様は懐から、一通の古びた羊皮紙の書簡を取り出した。
それは、ロマン伯爵領から出され、巡り巡って帝国の軍需監察官の手元に届いていた、かつての「新税制改革案」の副本だった。
ジルヴェスター様はその書簡と、私の作った帳簿を並べて置いた。
「この書簡は、ロマン伯爵嫡男エドワードが『己の英断による素晴らしい成果』として社交界で提出していたものだ。……だが、今ならはっきりと分かる」
ジルヴェスター様の指先が、二つの書類の特定の注釈部分を指し示した。
「数字の丸め方、注釈に用いられる独自の記号、そして何より『現場の人間を疲弊させず、最大の利益を出す』という設計思想の根底が……この二つ、寸分違わず一致している」
「ッ……!」
私は息をのんだ。
エドワード様へ提出していた書類。
彼は最後の署名だけをして自分の手柄として触れ回っていたが、その原本を徹夜で書き上げたのは私だ。
面識もなかったはずのこのお方が、たった数分間書類を見ただけで、二つの仕事の『真の作者』が同一人物であることを見抜いたのだ。
「エドワード・フォン・ロマンが誇っていたあの成果……。すべて、君が裏で書き上げたものだな? ナツコ殿」
ジルヴェスター様の蒼い瞳が、深く、優しく、私を射抜く。
「……はい」
私は静かに頷いた。隠す意味など、もうどこにもなかった。
「あの方が『自らの手腕』と称していた書類は、すべて私がローソクの明かりの下で計算し、書き上げたものです。……けれど、あの方は私を『何の成果も出せない無能』と呼び、公衆の面前で婚約を破棄して追放いたしました」
語りながら、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
前世でもそうだった。
手柄を横取りした吉岡課長は「佐藤さんが勝手にやったこと」と私を使い捨てた。
誰も私の努力に気づいてくれなかった。私の徹夜の苦労も、すり減らした心も、全部最初から存在しなかったかのように消し去られた。
なのに――。
目の前にいるこのお方は、私が泥に塗れて、ローソクの光の下で積み重ねてきた努力の足跡を、完璧に拾い上げてくれたのだ。
「……愚かな男だ」
ジルヴェスター様は低く、酷く冷徹な声で吐き捨てた。その声には、エドワードに対する明確な軽蔑が込められていた。
「目に見える見掛け倒しの手柄に目を奪われ、その成果を生み出していた本物の宝を捨て去るとはな。……『孫子』に言う『知らざる者は敗れ、知る者は勝つ』。自らの無知ゆえに宝を失い、自滅に向かうのは当然の報いだ」
そして、ジルヴェスター様は私へと向き直ると、その大きな手で私の両手を優しく包み込んだ。
「ナツコ殿。君がこれまで受けてきた理不尽な扱いに、私は強い憤りを覚える。だが同時に……君という類まれなる知恵者と出会えた幸運に、心から感謝したい」
「あ……公爵様……」
「君のその知恵と人柄は、決して『無能』などという言葉で片付けてよいものではない。……君は、泥の中に咲いた本物の至宝だ」
まっすぐな、一切の偽りもない賞賛。
手のひらから伝わってくる温かさに、私の視界が涙で滲んだ。
(ああ……報われた……。私の努力は、無駄じゃなかったんだ……!)
前世からの長い長い暗闇が、あたたかい光によって溶かされていくようだった。
その時である。
「ちょっとぉぉぉぉッ!!」
ドガーンッ!とテーブルを叩く音が響いた。
間に割り込んできたのは、ウサギ耳を限界まで逆立てたキャルルちゃんだった。特注の安全靴をコンコンと鳴らし、ジルヴェスター様の手を私から引き離す。
「さっきから聞いていれば! 公爵様、ナツコちゃんの手を握りすぎです! どさくさに紛れて口説かないでください! ナツコちゃんはポポロ村の大事な宝物なんですから、王都へ連れ去ろうとしても絶対に渡しませんからね!一億ボルトの流星脚を食らいたくなければ、そこから三歩下がってください!」
キャルルちゃんがガッツポーズで威嚇する。
だが、ジルヴェスター様は一切動じることなく、ふっと柔らかく微笑んだ。
「連れ去るつもりなどないさ、村長。私はただ、正当な評価を受けずに打ち捨てられていた知恵者に、相応しい敬意と評価を払いたいだけだ。……君のような最高の親友がいるこの村は、彼女にとって誠に素晴らしい場所だな」
「む……っ!?」
キャルルちゃんは毒気を抜かれたように目を丸くした。
「な、なんかすごく大人の余裕で返された……! 一理あること言われて反論できない……っ! 悔しい……!」
私とジルヴェスター様は、顔を見合わせてクスッと笑い合った。
「ナツコ殿。もしよろしければ、ポポロ村の発展のため、そして君のその素晴らしい知恵をさらに生かすため、私と通商協定の準備を進めてはくれないだろうか? 君となら、素晴らしい未来が描ける気がするのだ」
「はい……! 喜んで、お供させていただきます!」
公爵様からの確かな信頼と、親友の温かい眼差し。
私のV字回復の物語は、いま、確かな絆とともに新たなステージへと歩み出していた。




