EP 8
黒き軍服の公爵様は、ポポロ村の噂を聞きつける
ルナミス帝国首都、その一角に威容を誇るヴァルハイト公爵邸。
黒漆喰の壁と重厚なオーク材で造られた総司令官執務室にて、一人の男が静かに羊皮紙の報告書に目を走らせていた。
ジルヴェスター・フォン・ヴァルハイト。二十六歳。
ルナミス帝国筆頭公爵にして、帝国軍全軍を統率する最高司令官。
金糸の飾緒が映える深黒の軍服を隙なく纏い、流れるような銀髪に、夜の海のように深く冷徹な蒼眸を持つ男だ。
古代の思想家たちが記した『君主論』や『孫子』を精読し、建国者・佐藤太郎が残した近代化政策を冷徹かつ合理的な実務で支える彼は、社交界において「氷の司令官」「情容赦なき統治者」と恐れられていた。
「……面白いな」
静寂に包まれた室内に、ジルヴェスターの低い、低音の効いた声が響いた。
彼が手にしていたのは、帝国情報部から上がってきた緩衝地帯『ポポロ村』に関する密偵の報告書だ。
「ポポロ村の農地改革……。長年、過剰な化成肥料と単作で疲弊していた土壌が、わずか一日で再生しただと? さらに、村役場の滞納書類が数日で完全に整理され、物流と農業の工程管理が劇的に最適化されている……」
ジルヴェスターは長い指で顎を支え、蒼い瞳を細めた。
緩衝地帯ポポロ村は、ルナミス、アバロン、レオンハートの三カ国が接する重要拠点だ。
そこが突如として驚異的な生産性と秩序を獲得し始めている。
しかも報告によれば、隣接するロマン伯爵領が先日の「税制計算の破綻」と「物流停止」で大混乱に陥っている時期と、完全に符合していた。
「閣下。ロマン伯爵嫡男エドワードは、自らの『英断』で税制を改革したと吹聴しておりましたが……実態は、追放した元婚約者にすべての実務を丸投げしていたようです」
控えていた副官が、苦笑混じりに告げる。
「追放された令嬢の名は、ナツコ・クラウディア。伯爵家では『無能で地味』と冷遇されていたようですが……彼女がロマン伯爵領を去った直後から、同領の経営は完全に崩壊。そしてほぼ同時期に、ポポロ村に『奇跡の知恵を授ける謎の令嬢』が現れたと」
「無能、か」
ジルヴェスターは冷ややかに唇を吊り上げた。
「真の無能ほど、裏で自分を支える有能な者の価値に気づけぬものだ。『孫子』に言う『敵を知り己を知れば百戦危うからず』の逆を地で行く愚者だな。……自らの不徳で宝をドブに捨て、自滅したか」
ジルヴェスターは立ち上がり、黒い外套を羽織った。
「閣下、どちらへ?」
「ポポロ村だ。近衛の護衛は三名のみ、視察の衣服に着替える。自分の目で確かめねば気が済まん」
「は……? しかし閣下、あそこは三カ国の緩衝地帯ですぞ!」
「だからこそだ」
ジルヴェスターの蒼眸に、珍しく知的な好奇心の火が灯っていた。
「その『ナツコ』という令嬢が、単なる幸運の持ち主か、あるいは国家の根幹を揺るがすほどの本物の知恵者か……この目で見極めてくるとしよう」
◇
ぽかぽかと温かい春の陽気が降り注ぐ、ポポロ村の広場。
「はいっ! A班の皆さん、月見大根の収穫工程表できました! B班は太陽芋の選別ラインに回ってください! 無理して腰を痛めないよう、十五分ごとに必ず日陰で水分補給をしてくださいね!」
「「「はーい! ナツコ様ぁぁ!」」」
元気いっぱいの声が響き渡る。
私は今、ポポロ村の大規模収穫イベントの真っ最中にいた。
着ているのは、タローマンで購入した耐久性の高い作業用オーバーオールに、袖を捲り上げたブラウス。頭には手ぬぐいを巻き、頬にはちょっぴり黒い泥がついている。
貴族の令嬢としての身だしなみからは程遠い姿だ。
けれど、今の私にはそんな飾り気などどうでもよかった。
作業効率を考え、前世の現場管理のノウハウを応用して作った『作業工程板』と『作業員動線図』。
それを見た村人たちが、「わかりやすい!」「体がすごく楽だ!」と笑顔でテキパキと動いてくれる。
自分の組み立てた『段取り』が、現場の笑顔と確かな成果に繋がっていく。
前世では吉岡課長に手柄を横取りされ、エドワード様には「無能」と蔑まれた私の知識が、ここではみんなを幸せにする宝物として輝いていた。
「ふぅ……! これで午前中の工程は完璧ね!」
額の汗を拭い、満足気に微笑んだ、その時だった。
「――見事な動線計画だな。資材の停滞が一切なく、作業員の疲労度まで計算されている」
低く、地鳴りのように心地よい男の声が、頭上から降ってきた。
「え……?」
振り返った私は、思わず息をのんだ。
そこに立っていたのは、目を見張るほどの男だった。
シンプルな旅行用の黒革の外套を羽織っているが、仕立ての良さと、仕込み刀を思わせる隙のない立ち振る舞いが、只者ではないオーラを放っている。
流れるような銀髪の下から私を見つめるのは、吸い込まれそうなほど深く、鋭い蒼色の瞳。
身長は一メートル八十センチを遥かに超えているだろう。見上げるような威圧感があるのに、その眼光には冷徹なまでに澄み切った知性が宿っていた。
(この人……すごく格の高い人だわ。ただの旅人や商人じゃない……!)
前世で数々の大企業の役員や交渉人と接してきた私の『社畜の勘』が、激しく警鐘を鳴らしていた。
「あ、あの……何かご用でしょうか? ここは今、ポポロ村の収穫作業中でして……」
「失礼した。あまりに完璧な現場指揮だったものでな、つい見惚れてしまった」
男――ジルヴェスターは、静かに私の足元から顔まで視線を走らせた。
泥のついたオーバーオール、汗ばんだ額、手ぬぐい姿。
普通の大貴族なら「見苦しい」「下品だ」と鼻を鳴らすような格好だ。
だが、彼の蒼い瞳には、一切の蔑みも嘲笑もなかった。
むしろ、そこに映っていたのは――深い感銘と、敬意だった。
「作業員を無理に追い立てず、十五分ごとの休息を組み込むことで、後半の集中力低下による事故と歩留まりの悪化を防いでいる。さらに、資材の配置が作業員の最短動線上に配置されているな。……君が、この工程を組み上げたのか?」
「え……ええ。前世……じゃなくて、以前、個人的に研究していた管理方法を応用しただけですが……」
私は驚きを隠せなかった。
この人は、私が何気なく組んだ工程の『真の狙い』を一目で見抜いている!
エドワード様は、私が提出した完璧な書類を見ても「数字が並んでいるだけだ」と内容すら理解しようとしなかった。
なのに、この初対面の男性は、私の仕事の本質をたった数秒で理解してみせたのだ。
「研究、か。素晴らしい知恵だ」
ジルヴェスターはすっと目を細め、口元に微かな、けれど酷く魅力的な笑みを浮かべた。
「表面的な身分や装飾に惑わされず、現場の人間を生かし、最大の成果を出す。……君のような者を、世では『至宝』と呼ぶのだろうな」
「し、至宝……!? そんな、私はただのしがない居候で……!」
真っ直ぐに褒められ、顔がカッと熱くなるのが分かった。
前世も含めて、自分の仕事をこんなにも正面から、完璧な理解をもって称賛されたことなんて、一度もなかったからだ。
その時だ。
「――ナツコちゃぁぁぁん! ルナキンから冷たいポポロ・コーヒー買ってきたよー!!」
ドバババババッ……!!
地響きのような足音とともに、マッハの速度でキャルルちゃんが駆けつけてきた。
特注の安全靴でピタリとブレーキをかけると、私とジルヴェスターの間に割り込み、ウサギ耳を激しくピンと立てて威嚇のポーズをとる。
「ちょっと! あんた誰!? うちのナツコちゃんに何の用!? 怪しい奴なら一億ボルトの流星脚でお空の星にしてあげるわよ!?」
「キャルルちゃん、待って! 怪しい人じゃないから!」
「……ほう。レオンハートの第三姫君、キャルル・ムーンハートか」
ジルヴェスターはキャルルちゃんの凄まじい威圧感にも一切動じることなく、優雅に片手を胸に当てて一礼してみせた。
「怪しい者ではない。私はルナミス首都から来た旅の者だ。ポポロ村の素晴らしい繁栄の噂を聞き、見学に立ち寄らせてもらった」
「ふーん……? 旅人ねぇ……」
キャルルちゃんは目を細め、持ち前の心音透過能力でジルヴェスターの心拍を聞き取ろうとした。
だが――。
(……ッ!? 何この人……! 心音がまったく乱れない……! 完璧な静寂の中に、冷たくて強靭な意思の音が響いてる……! タダモノじゃないわ!)
キャルルちゃんの額に、一筋の汗が流れる。
ジルヴェスターは静かに私へと視線を戻すと、外套のポケットから一枚の上質な羊皮紙のカードを取り出し、私に手渡した。
「失礼、名乗りが遅れたな。私はジルヴェスター。……君の名を聞かせてもらってもいいだろうか?」
渡されたカードには、美しい漆黒のインクで『ジルヴェスター・フォン・ヴァルハイト』の名と、公爵家の紋章が刻まれていた。
(ヴ……ヴァルハイト公爵様……!? 帝国軍総司令官の……!?)
私が驚きで固まっていると、彼は優しく、けれど逃がさないような強い力で私の泥のついた手をそっと包み込んだ。
「ナツコ・クラウディア……と、おっしゃるのですね」
「あ、はい……っ」
「良い名だ。……ナツコ殿、近いうちに、正式に貴女を訪ねさせていただきたい。君のその素晴らしい知恵と人柄について、もっと詳しくお話を聞かせてほしいのだ」
その蒼い瞳に宿る熱っぽさに、私の胸がドクンと大きく高鳴った。
私を見下し、捨て去った元婚約者とは違う。
私の本当の価値を、ただ一人で見抜き、まっすぐに見つめてくれる男――。
帝国筆頭公爵との運命の出会いが、ポポロ村の心地よい風の中で、静かに、けれど確実に花開こうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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