EP 7
社畜のいない執務室は地獄の始まり
――ガシャアンッ!!
ルナミス帝国、ロマン伯爵領の本邸。
かつてナツコが夜遅くまでローソクの明かりの下でペンを走らせていた一等地の執務室に、磁器のティーカップが砕け散る乾いた音が響き渡った。
「ふざけるな! どいつもこいつも、私を誰だと思っているのだッ! 私はロマン伯爵家の嫡男、次期当主のエドワードだぞ!?」
豪奢なマホガニーの机の向こうで、金髪を乱したエドワードが顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
その机の上には、天井に届きそうなほどの羊皮紙の山が、まるで崩壊寸前の未開の塔のようにうずたかく積まれている。
「エ、エドワード様ぁ……そんなに怒らないでくださいな。せっかく王都から話題の高級紅茶を取り寄せましたのに……」
ソファーに腰かけ、フリルのついた扇子をパタパタと仰いでいるのは、夜会でエドワードの腕にすがりついていた男爵令嬢シーラだ。
だが、今のエドワードには、彼女の媚びを含んだ甘い声すら苛立ちの種でしかなかった。
「黙っていろシーラ! 今それどころではないのだ!」
「ひっ……!」
エドワードは青ざめた手で、目の前の書類をひったくった。
そこには、領内の税務を統括する老役人と、先日の夜会でナツコを追い出した老執事が、今にも卒倒しそうな顔で立ち尽くしていた。
「おい、役人! この『アバロン国境関税免税計算書』とは何だ!? なぜ私に判を押せと持ってくる! 免税率の数値が白紙ではないか!」
「は、はい……っ! それが、昨年度から導入された新関税システムは、通過する商隊の馬車数、積載魔導物資の種別、そして季節による価格変動率を組み合わせた、極めて高度な連動計算式によって算出されることになっております!」
役人は震える声で汗を拭った。
「本日正午までにこの計算書を提出し、ゴルド商会のオロチ会長に認可を受けねば、我が領を通る全物流が停止いたします! エドワード様は昨年、『私が独力で考案した画期的な節税システムだ!』と社交界でお誇りになられておられましたゆえ、当然、計算の根拠となる数式をお持ちかと……!」
「な……ッ!?」
エドワードの顔から、サーッと血の気が引いていく。
新関税システム。
確かに、昨年その成果を社交界で自慢しまくり、大貴族たちから「若き天才実務家」と持て囃された記憶はある。
だが――その計算式を実際に弾き出し、複雑な帳簿を処理していたのが誰だったかなど、エドワードが知るはずもなかった。
『エドワード様、こちらが今月の関税計算書です。あなたは最後の確認印を押すだけで構いませんから』
夜遅く、疲れ果てた顔でそう言って書類を提出してきた、あの地味で無能だと思っていた元婚約者――ナツコ・クラウディアの顔が、脳裏をよぎる。
「ば、ばかな……! あの計算は、私が指示した通りにナツコが清書していただけだ! あいつは言われた通りにペンを動かすだけの木偶の坊だったはずだぞ!?」
「ではエドワード様、その計算の『元となる原本ノート』はどこにございますか!? それさえあれば、私どもでも計算し直せます!」
「そ、そんなものは……ナツコの部屋を探せばいくらでもある! おい執事! 今すぐあの女の部屋からノートを持ってこい!」
エドワードが怒鳴りつけると、老執事は蚊の泣くような声で、ガタガタと膝を震わせた。
「そ、それが……エドワード様……。ナツコ様の自室には、紙切れ一枚残されておらず……」
「何だとッ!?」
「エドワード様が『着の身着のままで追い出せ』とお命じになられたため……ナツコ様はご自身の私物と一緒に、すべての書類を持って夜逃げのように姿を消されました……。引き継ぎ書も、マニュアルも、計算式の控えも……何一つ、残されておりません……!」
「な……なぜ引き継ぎをさせなかった!! 追い出す前に、なぜ書類を出させなかったのだッ!?」
「ええっ!?? だってエドワード様が『無能の残した紙くずなど不要だ! あいつの仕事など私がいつでも代われる!』とおっしゃったからではございませんかぁぁぁ!?」
「ひ、ひえぇぇぇっ……!」
執務室に、地獄のような静寂が訪れた。
エドワードが「無能」と見下し、手柄を奪い尽くした上でゴミのように捨て去った令嬢。
彼女こそが、このロマン伯爵領という巨大な組織を裏でたった一人で回していた『絶対的な要』だったのだ。
ナツコという歯車を失った今、領地の経営は、まるで支柱を抜かれた巨大な城のようにガラガラと音を立てて崩れ始めていた。
「え、エドワード様ぁ……! 大変です! 新街道の建設現場から、資材が届かないと作業員たちが暴動を起こしかけております!」
「東区画の商人たちから『ナツコ様と結んだ減税の契約書はどうなった』と大押し寄せが……!」
「ゴルド商会から『約束の正午を過ぎたので、ロマン伯爵領を通るすべての物流網を全停止する』と通告が入りましたぁぁぁっ!」
「あ……あああ……っ!!」
次々と飛び込んでくる絶望的な報告。
積みに積まれた書類の山がガラガラと崩れ落ち、エドワードの頭の上に容赦なく降り注ぐ。
「ナツコ……ッ! ナツコめぇぇぇぇッ!! 私をハメたな動きおってぇぇぇっ!!」
自らの身勝手さと愚かさが招いた自滅であることにも気づかず、エドワードは誰もいない空に向かって、惨めに叫び声を上げるのだった。
◇
――同じ頃。
ぽかぽかとした心地よい太陽の光が降り注ぐ、ポポロ村の村役場。
「ふぅ……これで、ポポロ村の今期の農業予算と、タローソン・タローマートとの取引帳簿の整理は完了ね!」
パタン、と綺麗な音を立てて帳簿を閉じた私は、満足気な溜息をついた。
目の前の木製デスクの上には、綺麗にカテゴリー分けされ、一目で見やすく整理された書類のファイルが整然と並んでいる。
「ナ、ナツコちゃん……神様……ううん、事務の女神様ぁぁぁ!!」
隣の椅子で、冷たいメロロンジュースを飲みながらイチゴパフェをつついていたキャルルちゃんが、可憐なウサギ耳を大きく揺らして私の手にすがりついてきた。
「前村長が駆け落ちしてから、半年分も溜まってカビが生えかけてた村の帳簿が……たった三日で全部綺麗になっちゃった……! 私、数字を見るだけで頭がウニになりそうだったのに……っ!」
「ふふ、これくらい大したことないわよ。前世の決算期に比べたら、ポポロ村の帳簿はとっても素直で分かりやすいもの」
私はニコリと微笑んだ。
前世のブラック企業では、吉岡課長が適当に誤魔化した使途不明金の穴埋めや、複数店舗の複雑な在庫処理を徹夜でやらされていた。
それに比べれば、ポポロ村の書類はみんなが誠実に提出してくれたものばかりだ。前世で培った表計算の段取りを適用すれば、整理するのも楽しかった。
「はい、キャルルちゃん。これ、新しく取り寄せた文房具よ。使いやすいと思うわ」
私は視界の【善行ポイント通販】から取り寄せたアイテムをデスクの上に並べた。
【複写式伝票ノート(カーボンレスタイプ)×5:30 pt】
【ノック式・消せる高級ボールペン(黒・赤・青3色セット)×3:40 pt】
「なにこれぇぇぇ!? インクをつけなくても字が書けるの!? しかも、上のゴムで擦ったら字が消えちゃったよ!? 魔法のペンだぁぁぁ!」
キャルルちゃんが目を丸くしてボールペンをカチカチとノックし、感動の声を上げている。
「村の役場の人たちや、学校のネギオ先生にも配ってあげてね。書類仕事の効率が格段に上がるはずだから」
「うん! みんな絶対大喜びするよ! ナツコちゃん、本当にありがとう!」
ピンポンパンポーン――♪
【条件達成:『自治体業務の劇的効率化および魔法文具の寄贈』】
【村人たちからの感謝を受信しました:100 pt を獲得!】
【現在の所持ポイント:700 pt】
(順調にポイントも溜まってきているわね……!)
ポポロ村の農地改革を成功させてからというもの、村人たちは私を「親切で賢いお嬢様」と心から慕ってくれている。
朝、外を歩けば農家の人から「ナツコ様、出来立ての太陽芋を食べてくれ!」と差し入れをもらい、自警団の人たちからは「何か困ったことがあればいつでも言ってください!」と笑顔で声をかけられる。
誰かに手柄を奪われることもない。
理不尽に怒鳴られることもない。
自分の仕事が、そのままみんなの笑顔と感謝になって自分に返ってくる。
(こんなに穏やかで幸せな日々……前世も含めて、初めてかもしれないわ)
窓枠に手をかけ、ポポロ村の賑やかな景色を眺める。
ふと、遠くの王都の方角へと思いを馳せた。
(エドワード様は……今頃どうされているかしら)
私が残していった書類も、計算式もない執務室で、きっと今頃パニックになっているかもしれない。
けれど、私にはもう関係のないことだ。
あの方たちが私を「無能」と見下し、追い出したのだ。
ならば、無能な私が残していった成果など、一切頼りにせず、ご自慢の「英断」で乗り切ってみせればいい。
「ナツコちゃん! 書類仕事も一段落したし、今日はルナキンで新作の『苺づくし特大パフェ』を食べに行こうよ! 私の奢り!」
「ふふ、いいわね! キャルルちゃん、一緒に行きましょう!」
過去の呪縛は、もう完全に断ち切られた。
私はポポロ村の風に包まれながら、大好きな親友とともに、新しい一歩を伸び伸びと踏み出していた。
読んでいただきありがとうございます。
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