EP 2
二度目の過労死はお断りです。社畜令嬢の静かなる決意
『ナツコ君、この資料の修正、明日朝一番の会議までに完璧にしておいてね。君ならできるでしょ?』
――あの日、毎度のように笑いながら深夜残業を押し付けてきた吉岡課長のニヤけた顔が、大広間で私を指さして嘲笑っていたエドワード様の傲慢な顔と、恐ろしいほどぴったり重なる。
夜会が開かれていた王都の別邸から、あてがわれたロマン伯爵家の離れへと戻る馬車の中。
ガタガタと揺れる暗闇の中で、私は膝の上に置いた自分の両手を見つめていた。
爪は少し丸く切り揃えられ、華やかなマニキュアも塗られていない。
他家の令嬢ならば、夜会の後は豪華なドレスに身を包んだまま、夜会での評判や舞踏会の思い出に胸を躍らせている時間だ。
だが私に与えられていたのは、使い古された薄いドレスと、誰も寄り付かない湿っぽい離れの自室だけだった。
「お帰りなさいませ、ナツコ様」
部屋に戻ると、ロマン家からあてがわれた老執事が、心底底意地の悪い笑みを浮かべて待っていた。
彼の手に握られているのは、羊皮紙で出来た一通の書簡だ。
そこにはエドワード様特有の、やたらと跳ねの多い横柄な筆跡で、こう記されていた。
『ナツコ・クラウディアへ。
大広間での宣言通り、貴様との婚約は無効とし、明日早朝をもって我がロマン伯爵家の屋敷から即刻立ち退くことを命じる。
なお、貴様は我が家の資産を何一つ生み出さなかった無能であるゆえ、持ち出せるのは着てきた最低限の私物のみとする。屋敷の品を一つでも持ち出せば、盗賊として衛兵に通報するゆえ心得よ』
「……とのことです、ナツコ様」
老執事は私をまるで泥棒か害虫でも見るような目で見下し、パンパンと手袋を叩いた。
「エドワード様のご慈悲により、明日の朝一番まではこの部屋でお休みになることを許されております。まあ、荷物など大してなさることもないでしょうが……手ぶらでお出かけになる準備をお勧めいたしますよ」
「……ええ、わかりました。ありがとうございます」
私が取り乱しもせず、あっさりと一礼してみせると、老執事はつまらなさそうに鼻を鳴らして部屋を出て行った。
ガチャリと外から鍵がかけられる音が響く。事実上の監禁だが、今の私にはむしろ好都合だった。
(さあ……忙しくなるわね)
私は大きく息を吐き出すと、部屋の真ん中にたたずみ、ぐるりと周囲を見渡した。
ここでの暮らしは、思い返せば前世の社畜時代そのものだった。
クラウディア伯爵家から「役立たず」と捨てられるようにロマン家へ差し出されてからの二年間。
私に与えられた役割は、エドワード様の手伝い――という名の、膨大な領地経営の実務作業すべてだった。
ロマン伯爵領は、もともと交通の要所にありながら、前代からのズサンな管理のせいで慢性的な赤字に苦しんでいた。
関税の計算はガタガタ、商人たちからの徴収漏れは日常茶飯事、街道の修繕費は中間業者に抜かれ放題。
そこへ「自分は天才だ」と勘違いしたエドワード様が乗り込み、さらに収脈を混乱させていたのだ。
それらを裏で黙々と整理し、直したのは誰か。
私だ。前世の知識と段取り力を総動員して、過剰な無駄を削り、帳簿を一から付け直し、商人たちが気持ちよくお金を落としていく仕組みを作った。
エドワード様が夜会で「私の英断による税制改革だ!」と誇らしげに語っていた書類の、注釈の一行に至るまで、すべて私がローソクの明かりの下で書き上げたものだ。
前世でもそうだった。
『君が裏で頑張ってくれれば、チーム全体が助かるからさ』
そう言って仕事を押し付け、出来上がった成果だけを自分の手柄にして昇進していった吉岡課長。
『ナツコ! こんな単純な帳簿つけすら遅いのか! お前は私の足引っ張りだな!』
そう怒鳴り散らしながら、私が仕上げた完璧な予算案をひったくっていったエドワード様。
私はずっと、「いつか報われる」「真面目にやっていれば誰かが分かってくれる」と思って耐えていた。
耐えて、耐えて、耐え抜いた結果が――あの誰もいない深夜のオフィスでの過労死であり、今夜の大広間での追放宣言だ。
(……本当に、馬鹿みたい)
私は自嘲気味に口元を緩めた。
『自省録』の著者、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは言った。
『他人の過ちに心を乱されるな。他人がどうであるかはその者の問題であり、自分がどうあるべきかこそが己の問題である』――と。
エドワード様が愚かで傲慢なのも、私を無能と嘲笑うのも、彼の問題だ。
問題なのは、そんな理不尽な評価を真に受け、自分自身を惨めだと卑下していた『私自身』の心だったのだ。
「悲観は感情。楽観は意志……だったかしら」
フランスの哲学者アランの言葉を呟きながら、私はクローゼットから古びた小さな革のトランクを取り出した。
メソメソ泣いて、哀れな被害者ぶるのはもう終わり。
前世の私は、自分の人生を誰かに預けて、他人の評価に依存して死んでしまった。
けれど、二度目の人生まで同じ失敗で終わらせるつもりは、毛頭ない。
私は机の引き出しを開け、荷造りを始めた。
着替えの衣服は数着。洗面道具。
そして――棚の奥に隠しておいた、私自身の『宝物』。
それは、前世の知恵を駆使して私が個人的に書き溜めていた【私的帳簿ノート】と【実務マニュアル】の控えだった。
エドワード様へ提出していた公式の書類は、彼が理解できるレベルまで専門用語を噛み砕き、極めて簡略化した「結果だけ」の羊皮紙だ。
なぜその計算になるのか、どの業者とどういう条件で裏交渉したのか、トラブルが起きた時にどう対処すべきかという『根本の根拠と手順』は、すべてこの私のノートにしか書かれていない。
エドワード様はきっと、明日から困ることは何もないと思っているのだろう。
自分自身が優秀で、ナツコという無能な重りを外したのだから、ロマン伯爵領はますます繁栄するのだと信じ切っているはずだ。
(……どうぞ、ご勝手に)
引き継ぎ書? そんなもの、作る義理など微塵もない。
手柄をすべて奪っておきながら、ゴミのように私を捨てたのだ。ならば、私が築き上げた『頭脳とノブレス(ノウハウ)』も、すべて私と一緒にこの屋敷を出て行くのが当然の道理というものだ。
ノートをトランクの底に仕舞い込み、しっかりと鍵をかける。
ふと、卓上に置かれたもう一通の手紙が目に留まった。
実家であるクラウディア伯爵家からのものだ。
『ロマン伯爵家より婚約破棄の報を受けた。我が家の名を泥で塗った恥晒しめ。二度とクラウディアの門をくぐることは許さん。どこへでも消えるがいい』
実の父親からの、完全なる絶縁状。
けれど、不思議と胸は痛まなかった。
幼い頃から私を愛さず、ただの便利な道具としてしか扱わなかった家族だ。縁が切れるなら、むしろ清々しいくらいだった。
「これで、本当に天涯孤独ね……」
トランクの金属性の留め具をカチリと閉める。
持ち物は、古びた服と、私の頭脳が詰まったノート、そして……。
私は視界の右隅に、今も静かに浮かび続けている半透明の画面を見つめた。
【現在の善行ポイント:0 pt】
【ポイント通販ショップ:未解放】
これが何なのか、まだ正確には分からない。
けれど、どん底の私のもとに現れたこの不思議な現象は、前世の社畜生活にも、今世の冷遇生活にもなかった『新しい可能性』の匂いがした。
時計の針が、午前四時を回る。
東の空が、かすかに薄紫色に染まり始めていた。
老執事やエドワード様は、朝になれば私を押しのけ、惨めな姿で追放してやろうと楽しみにしているのかもしれない。
だが、彼らの思い通りになってやるつもりなど、さらさらなかった。
私はトランクを手に取り、部屋の小さな窓枠に手をかけた。
ここは二階だが、すぐ下に頑丈な雨樋と納屋の屋根があることを、私は日頃の観察で知っている。
前世で培った『事前の段取り』は、こういう時にこそ役に立つのだ。
ドレスの裾を少し持ち上げ、静かに窓枠を越える。
冷たい夜風が私の頬を撫で、髪を揺らした。
屋根を滑り降り、庭の草むらに着地する。
足を痛めることもなく、私は完璧にロマン伯爵家の別邸の敷地へと降り立った。
見上げる屋敷は、まだ深い眠りの中にある。
エドワード様も、あの老執事も、私という『一番の功労者』を失ったことにまだ気づいていない。
屋敷の小さな裏門の押し棒を静かに外し、私は外の街道へと足を踏み出した。
『置かれた場所で咲きなさい』と言うけれど。
土が腐っているなら、咲く場所くらい自分の足で選べばいい。
二度目の過労死なんて、絶対にお断りだ。
私は私のために、私を正しく評価してくれる場所へ行く。
目指すは、ルナミス、アバロン、レオンハートの3大国が交差する緩衝地帯――噂に聞く、自由と冒険の村『ポポロ村』。
夜明け前の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、私は一度も振り返ることなく、まっすぐに歩き出した。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




