EP 4
深夜の差し入れと、氷の公爵の甘い休息
しんと静まり返った旧館の執務室に、振り子時計の刻む規則正しい音だけが響いていた。
時刻は午前二時を回ったところだ。
昼間の「黒豚商会」による不当占拠騒動をマンミアさんが鮮やかに解決してくれたおかげで、前線基地の安全性は完璧に保たれている。
フェイトは「う~ん……満腹満腹」と寝言を言いながらエアベッドで爆睡しており、マンミアさんも見張りを交代した後は「ナツコ様、何かあればすぐにお呼びください」と部屋へ戻っていった。
私は一人、ランプのあたたかな光の下で、羊皮紙の上に定規を当ててペンを走らせていた。
「よし……これで『第一期・区画整理およびインフラ敷設計画図』の修正は完了ね」
凝り固まった肩を回し、小さく息を吐き出す。
前世の限界社畜時代、深夜二時といえば、疲れ切った頭でエラーの出続けるエクセル画面と格闘し、明日への絶望に打ちひしがれていた時間だ。
けれど、今の私は違う。
自分の引いた一本の線が、自分の組み立てた一つの工程が、この国境の荒廃地を「人が豊かに暮らせる街」へと変えていく。
誰かに手柄を横取りされる恐怖も、理不尽に怒鳴られる怯えもない。自分の仕事が誰かの役に立つという実感は、こんなにも私を前向きにしてくれていた。
(……でも、ちょっとだけ喉が渇いたわね)
私が通販画面を開こうとした、まさにその時だった。
カサリ……と、窓の外、月明かりが差し込むバルコニーから、かすかな衣擦れの音が聞こえた。
「っ……誰!?」
とっさに警戒し、トランクの陰に忍ばせていた【防犯用高圧催涙スプレー】へ手を伸ばす。
だが、バルコニーのガラス扉が静かに開かれ、室内に滑り込んできた影を見て、私は目を見開いた。
「——私だ、ナツコ殿。驚かせてしまったかな」
夜風とともに滑り込んできたのは、漆黒の極厚マントを羽織った男。
流れるような銀髪を月光に濡らし、深く澄んだ蒼い瞳を持つその人は——ルナミス帝国筆頭公爵にして全軍総司令官、ジルヴェスター・フォン・ヴァルハイト様その人だった。
「じ……ジルヴェスター様……!? こんな深夜に、お一人で……っ!?」
私は驚きのあまり、手に持っていたスプレーを落としそうになった。
驚く私を制するように、ジルヴェスター様は人差し指を唇に当て、ふっと柔らかく微笑まれた。
「近衛の者たちには外で待機するよう言っている。……ポポロ村からの報告で、昼間に悪徳商人がこの拠点を脅かそうとしたと聞きな。居ても立ってもいられず、王都での軍務を片付けてそのまま馬を走らせてきてしまった」
「私のために……そんな遠路を……っ!?」
王都からこの国境の拠点までは、最速の魔導馬車を使っても半日はかかる距離だ。それを一軍の総司令官であるお方が、お忍びで夜を徹して駆けつけてくださったというのか。
見れば、ジルヴェスター様の深黒の軍服にはうっすらと夜露が立ち込め、その美しいお顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
だが、部屋の中を一巡りした彼の蒼い瞳が、驚愕で見開かれる。
「……む。これは一体……?」
そこにあるのは、旧館のボロボロな外観からは想像もつかないほど、清潔で温かな空間。
爽やかなシトラスの香りが漂い、四隅ではアロマ結界器の幻想的な光が揺れ、テーブルの上には最新の魔導具と綺麗な書類が整然と並んでいる。
「昼間にならず者どもを撃退した後、私が『通販』の力で部屋を整えましたの。……公爵様、どうぞこちらへ。お疲れでしょう?」
私は慌てて椅子を引き、彼を暖炉の前のソファーへとお通しした。
「……なるほど。君のその不思議で素晴らしい『知恵』は、どこへ行っても人々を救うのだな」
ジルヴェスター様は深くソファーに身体を預けると、はぁ……と重い溜息を吐き出された。
社交界や戦場で見せる「完璧な氷の司令官」の鎧が解け、一人の疲れ切った男性としての無防備な素顔が覗く。
(すごく……お疲れなんだわ。何時間も馬を飛ばして、私の心配をしてくださって……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
前世の自分を思い出す。
深夜のオフィスで一人、限界まで追い詰められていた時。
誰かが温かい缶コーヒーを一本置いてくれただけで、涙が出るほど救われたあの日々。
(私にできることで……このお方を癒して差し上げたい!)
私はそっとジルヴェスター様から少し離れ、視界の右隅で光る【善行ポイント通販】の画面を素早く開いた。
【現在の総所持ポイント:1,760 pt】
(深夜の疲れを癒す、最高のお夜食と温かい飲み物……! これしかないわ!)
【現代のハンドドリップ・高級フレンチロースト珈琲豆(手挽きミル&ペーパーフィルター付き):50 pt】
【厚切りローストビーフ&濃厚たまごサンドイッチ(特製プレミアムボックス):80 pt】
【合計:130 pt を消費します。購入しますか?】
(即座に購入!!)
パッと手元に出現した小さな段ボール箱から、私はアイテムを取り出した。
手挽きのミルに黒々とした珈琲豆を投入し、ゴリゴリと心地よい音を立てて豆を挽く。香ばしい、深いコクのある珈琲の香りが室内に充満していく。
サーバーにお湯を注ぐと、とろんとした漆黒の液体がぽたぽたと落ち、極上の湯気を立ち上げた。
「……良い香りだ」
目を閉じていたジルヴェスター様が、ゆっくりと目を開けられた。
「お待たせいたしました、ジルヴェスター様。私特製の『深夜のドリップコーヒー』と、手軽に食べられるサンドイッチですわ。どうぞ召し上がってください」
私は木製のお盆に、淹れたてのコーヒーカップと、分厚いローストビーフが挟まれたサンドイッチを乗せてお出しした。
「これは……見たこともないパン料理だな」
ジルヴェスター様は興味深そうにサンドイッチを手に取ると、一口かじられた。
――その瞬間。
彼の美貌が、驚きで見開かれた。
「……美味しい。柔らかい肉の旨味と、香ばしいソース、そして卵のまろやかさが口の中で見事に調和している。……それに、この黒い茶は……」
コーヒーを一口含んだジルヴェスター様は、うっとりと息を漏らされた。
「深い苦味の奥に、芳醇な甘みと香りが広がる。身に溜まっていた重い疲労が、スーッとけていくようだ……」
「ふふ、お口に合って良かったですわ」
私は微笑み、自分の分のカップを手にして彼の向かいに腰掛けた。
「私、前世で……いえ、昔、夜遅くまで仕事をしていた頃、こうして温かい飲み物と美味しい食べ物に何度も救われたんです。……だから、ジルヴェスター様にも、少しでもホッとしていただきたくて」
「ナツコ殿……」
ジルヴェスター様はカップを置くと、深く、愛おしそうな目で私を見つめられた。
「帝国軍総司令官という立場になってから、私の周りには常に『要求』と『警戒』しかなかった。権力を求める者、私を倒そうとする者、あるいは怯えて遠巻きに見る者……。誰一人として、私自身の疲労や心に寄り添おうとする者などいなかったのだ」
彼の低い声に、ふっと切ない色が混ざる。
「だが……君は違う。君はいつだって、私の立場や身分ではなく、私という一人の人間の『苦しみ』や『疲れ』を目ざとく見つけ出し、こうして温かな手を差し述べてくれる」
「公爵様……」
「君の淹れてくれたこの一杯と……君が作ってくれたこの温かな空間だけが、私が唯一『ただの男』として呼吸のできる、心安らぐ場所なのだよ」
ジルヴェスター様はゆっくりと手を伸ばすと、テーブルの上に置かれていた私の手を、そっと両手で包み込まれた。
彼の手は、馬を飛ばしてきたせいか少し冷たかったけれど、そこから伝わってくる熱気と情愛は、私の身体を芯から溶かしてしまうほど熱かった。
「……ジ、ジルヴェスター様……っ」
「ナツコ殿。私は、君のその素晴らしい『知恵』と『成果』を心から尊敬している。だが……それ以上に」
ジルヴェスター様の蒼い瞳が、逃がさないような強い熱を帯びて、私の目をまっすぐに射抜く。
「君という一人の女性を……愛おしく思っているのだ」
「ッ……!?――――」
心臓が、跳ね上がった。
ドクン! ドクン! と、耳の奥で自分の激しい鼓動が鳴り響く。顔が一瞬で火が出るほど赤くなるのが分かった。
前世の社畜時代、私は誰からも「愛おしい」なんて言われたことがなかった。
今世でも、エドワード様からは「無能な道具」としてしか見られていなかった。
けれど――目の前にいる、帝国最高の英雄であるこのお方は。
私の知識や成果だけでなく、「ナツコ」という存在そのものを、一人の女性として熱く、尊く、愛してくれている。
(ああ……私……)
胸の奥で、カチリと音がした。
ただの「尊敬する公爵様」でも、「恩人」でもない。
私を守り、優しく包み込んでくれるこのお方を……私は一人の魅力的な男性として、心から愛おしく思っているのだと。
二度目の人生で、初めて芽生えた、本物の『恋心(好意)』の自覚。
「……あ……ありがとう、ございます……ジルヴェスター様」
私は赤くなった顔を隠すように俯きながらも、握られた手をしっかりと握り返した。
「私にとっても……ジルヴェスター様と過ごすこの時間が……一番、大切で……幸せですわ」
私が小さな声でそう紡ぐと、ジルヴェスター様の綺麗な顔に、眩しいほどの極上の笑みが弾けた。
「……そうか。それだけで、今夜ここへ駆けつけた甲斐があったというものだ」
彼は愛おしそうに、私の手の甲に優しく唇を寄せた。
ちゅ……と、小さな音とともに唇が触れた場所から、痺れるような甘い熱が全身へ駆け巡る。
ピンポンパンポーン――♪
【条件達成:『相思相愛の芽生えおよび絶対的愛着の獲得』】
【深く尊い絆の波動を受信しました:300 pt を獲得!】
【現在の総所持ポイント:1,930 pt】
脳内に響く優しいチャイム音すら、今の二人を祝福してくれているようだった。
暖炉の火が静かに揺れる中、私たちは深夜の静寂の中で、どこまでも甘く温かな時間を分け合った。
社畜令嬢ナツコの第二章は、新しい絆と確かな恋心とともに、より一層輝かしい未来へと向かって動き出そうとしていた。
——だが、この時の私たちは、まだ知らなかったのだ。
ポポロ村とこの特区の目覚ましい発展に嫉妬し、ナツコを「生意気な落ちぶれ令嬢」と見下す、王都からの『新たな悪意の影』が、すぐ近くまで忍び寄ってきていることを。




