EP 12
今さら泣きついても、もう遅い
ポポロ村役場の執務室に、心地よい午後の風が吹き抜けていた。
窓からは、青々と茂る『陽薬草』の畑と、活気あふれる村人たちの笑顔が見える。
デスクの上には、ジルヴェスター様から提示された『ルナミス帝国筆頭公爵領・ポポロ村包括通商協定書』の最終草案が綺麗に整理されていた。
「うん……税率の設定も、流通ルートの確保も、ポポロ村にこれ以上ないほど有利な条件ね」
私はペンを置き、満足気な溜息をついた。
ジルヴェスター様が『我がヴァルハイト公爵家の名においてポポロ村を正式な保護・優先貿易地域とする』と宣言してくださったおかげで、村の将来は約束されたようなものだった。
私の作った帳簿や流通システムは、公爵家の優秀な文官たちからも「奇跡のような完成度」と絶賛され、いまやポポロ村は周辺地域の中でも群を抜く発展を遂げようとしている。
「ふふ、ナツコちゃん! 今日もルナキンの新作スイーツが届いてるよー!」
キャルルちゃんが、ドリンクバーの特製レモネードと苺のタルトをお盆に乗せて楽しそうにやってくる。
誰かに手柄を横取りされることもなく、努力がまっすぐに評価される日々。
前世の社畜時代にも、ロマン伯爵家にいた頃にもなかった、温かく穏やかな幸せがここにはあった。
――だが。
その穏やかな静寂を切り裂くように、村の入口の方角からけたたましい怒鳴り声と騒動の音が響き渡った。
「どけッ! どかないか田舎者ども! 私はロマン伯爵家嫡男、エドワード・フォン・ロマンだぞッ! ナツコを出せ! ナツコ・クラウディアはどこだぁぁぁッ!!」
思わず、私とキャルルちゃんは顔を見合わせる。
「……エドワード?」
キャルルちゃんのウサギ耳が、不機嫌そうにピクピクと跳ねた。
「あの金ピカ生ゴミ野郎、ついに自分から乗り込んできたわけ? バートンたちが戻らないから焦ったかしら。ナツコちゃん、私が一億ボルトの流星脚で大空の彼方へお掃除してこようか?」
「待って、キャルルちゃん。私が行くわ」
私は静かに立ち上がった。
胸の奥に、不思議なほど冷酷な静けさが広がっていた。
逃げる必要も、怯える必要も、もうどこにもない。
過去の自分と、そして自分を虐げてきた愚者と……正々堂々と決着をつける時が来たのだ。
◇
ポポロ村の広場へ出ると、そこには見苦しいまでの醜態を晒す男の姿があった。
かつて王都の社交界で「若き才能」と持て囃されていたエドワード・フォン・ロマン。
だが、今の彼に当時の面影は微塵もなかった。
金髪は油でボサボサに乱れ、高級だったはずのジャケットは皺だらけ。目の下には酷い隈が落ち、血走った目で周囲の村人たちを睨みつけ、取り乱している。
後ろに控える数人の護衛兵たちも、連日の混乱で疲れ果てた様子で下を向いていた。
「おい、ナツコはどこだ! あの女、私をこんな目に遭わせておいて、この田舎村で呑気に暮らしているのかッ!?」
「――何のご用でしょうか、エドワード様」
凛とした声とともに、私が人群れから進み出出た。
エドワードが弾かれたように振り返る。
「ナ、ナツコ……ッ!?」
彼の目が、私をとらえた。
泥一つついていない清潔なブラウスに、ポポロ村の風になびく美しい髪。何より、かつて屋敷で怯えるように俯いていた時とはまるで違う、自信と知性に満ちちあふれた私の姿に、エドワードは一瞬言葉を失った。
だが、すぐにその醜い顔を怒りと焦燥で歪ませた。
「ナツコ! 探したぞ、この恩知らずめが! お前が引き継ぎもせずに勝手に屋敷を逃げ出したせいで、我がロマン伯爵領がどれほど混乱しているか分かっているのかッ!?」
エドワードは、大股で私に歩み寄ろうとした。
だがその瞬間、キャルルちゃんがシュバッ!と大気を切り裂く速度で間に割り込み、特注の安全靴をドカンと地面に踏み鳴らした。
「一歩でもナツコちゃんに近づいたら、その薄い頭蓋骨を破砕するわよ?」
「ひっ……! な、なんだこの獣人は! 無礼者め、退がれ!」
キャルルちゃんの放つ密度の濃い闘気に青ざめながらも、エドワードは必死に胸を張り、私に向かって上から目線で叫んだ。
「ナツコ! いいか、よく聞け! お前のしでかした悪戯のせいで、ロマン伯爵領の関税計算と書類仕事が滞っている! だが……私は寛大だ! 今日ここでお前が不始末を詫び、今すぐ私と一緒に屋敷へ戻って書類を全て片付けるなら――先日の婚約破棄を撤回してやってもいい!」
「……は?」
あまりの言い草に、傍らで聞いていた農家のゴードンさんやネギオ先生が呆れ果てて開いた口が塞がらない様子だった。
エドワードは、私が喜んで飛びついてくるとでも思っているのか、勝ち誇ったような醜いニヤけ顔を浮かべた。
「感謝しろ、ナツコ! お前のような地味で、実家からも捨てられた売れ残りの無能を引き取ってやる男など、世界中で私くらいなのだからな! さあ、来い! 今すぐ馬車に乗れ!」
横暴で、身勝手で、どこまでも愚かな言葉。
かつての私なら、周囲の目や家族の圧力を恐れ、言われるがままに下を向いていたかもしれない。
前世の社畜時代もそうだった。『君を引き取ってやってるんだから感謝しろ』『代わりはいくらでもいる』という吉岡課長の洗脳に縛られ、自分を惨めだと思い込んでいた。
けれど――。
今の私には、はっきりと分かる。
愚かで、惨めで、無能なのは……私ではなく、目の前のあなただということが。
「――お断りいたします」
静かな、けれどはっきりと通る声で、私は吐き捨てた。
「な……何だと……?」
エドワードが耳を疑ったように目を見開く。
「聞き取れませんでしたか? お断りいたします、と言ったのです。エドワード様」
私は一歩踏み出し、背筋を真っ直ぐに伸ばして彼を冷ややかに見下ろした。
「先日の夜会で、大勢の面前で私を『無能』と呼び、婚約を破棄して屋敷から追い出したのは、他ならぬエドワード様ご自身ではありませんか。ご自身の吐いた唾を、今さら飲もうというのですか?」
「な、なにを生意気な! あれはお前が反省するか試してやっただけだ! 現に、お前が裏でやっていた計算がないと書類が回らんのだ! だから戻って仕事をしろと言っている!」
「あら、おかしいですね」
私は首をかしげ、くすりと小さく微笑んだ。
「あの新関税システムも、街道の整備計画も、すべて『エドワード様の卓越した手腕による英断』だったはずでしょう? 社交界でもそう自慢しておられましたよね? 『ナツコは何の成果も出せない木偶の坊だ』と。……ご自身の素晴らしい手腕があるのですから、私のような無能の手など借りずとも、お一人で簡単に解決できるはずではありませんか?」
「っ……! う、ぐ……っ!!」
自分の過去の暴言をそのまま突き返され、エドワードの顔が赤から紫へと目まぐるしく変わっていく。
「それとも……本当は、ご自身では計算式一つ解けず、現場の交渉一つできず、すべて私に丸投げしていただけだと……ご自分の無能さを認めるのですか?」
「黙れぇぇぇッ!!」
図星を突かれたエドワードが狂乱し、なりふり構わず私に掴みかかろうと手を伸ばした。
「調子に乗るなよ無能女ッ! お前は私の所有物だ! 私の言う通りに書類を書けばいいんだよッ!!」
「ナツコちゃんに触るなッ――」
キャルルちゃんが跳びかかろうとした、まさにその時。
――ズシン。
地響きのような、圧倒的な圧力が空間全体を叩き潰した。
「――我が大切な客人に、その薄汚い手を向けようとは……良い度胸だな、ロマン伯爵嫡男」
低く、地鳴りのように冷徹な声。
一瞬にして、広場の空気が凍りついた。
エドワードの手が、恐怖でピタリと空間で止まる。
人群れが割れ、そこから静かに姿を現したのは――。
深黒の軍服に金糸の飾緒を揺らし、流れるような銀髪と、死を予感させるほど冷酷な蒼眸を持つ男。
ルナミス帝国筆頭公爵にして全軍総司令官――ジルヴェスター・フォン・ヴァルハイト様だった。
「ヴ……ヴァ……ッ!?」
エドワードの顔から、すべての血の気が引いた。
膝が笑い、ガタガタと全身を激しく震わせる。
帝国最高の権力者にして、圧倒的武力と知性を兼ね備えた「氷の司令官」。
社交界の頂点に君臨する雲上の存在が、なぜこんな田舎村にいるのか、エドワードの処理能力を超えていた。
「ジ……ジルヴェスター公爵閣下……!? な、なぜこのような場所に……っ!?」
「私は、我がヴァルハイト公爵家の『最重要貿易パートナー』であるナツコ・クラウディア殿との通商協定のためにここへ来ている」
ジルヴェスター様は静かに歩み寄ると、エドワードをゴミ屑でも見るような冷徹な眼光で見下ろした。
「そして、先ほどお前が吐き捨てた数々の暴言……ならびに、我が公爵家に提出された『ロマン伯爵家によるポポロ村への武力脅迫と恐喝の証拠』……すべて、しっかりと検分させてもらった」
「え……っ? こ、恐喝……っ!?」
ジルヴェスター様の手には、先日バートンが自筆で署名したあの複写契約書と、ICレコーダーの写しが握られていた。
「ナツコ殿を『無能』と貶め、手柄を奪い、捨て去り……あげく、自らの無能で生じた破綻を隠すために国際緩衝地帯を武力で脅迫するとはな。……『孫子』に言う『暗主は国を滅ぼす』。お前のような愚者が歴史を汚すのを見るのは、実に不愉快だ」
「ひっ……! あ、あああ……っ!」
エドワードはついに耐え切れず、その場にドスンと尻餅をついた。
私が冷ややかな瞳で彼を見下ろすと、エドワードは惨めに這いつくばりながら、私に向かって手を伸ばしてきた。
「ナ、ナツコ……! 頼む、助けてくれ! 私が悪かった! お前が優秀だったと認める! だから公爵閣下に執り成してくれ! 元婚約者の情だろッ!?」
自分の保身のためだけに、掌を返して縋り付いてくる醜悪な姿。
私は、一度だけ深く溜息をつくと、冷ややかに背を向けた。
「さようなら、エドワード様。……今さら泣きついても、もう全て遅いのです」
「ナツコぉぉぉぉッ!!」
惨めな叫び声が響く中、私のV字回復の物語は、いよいよ完全なる『自滅の裁き』へと向かって動き出そうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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