第五話 王妃との午後
休日の朝。
ヴェリテ公爵家の屋敷には、いつもとは少し違う空気が流れていた。
「本日は王城へ向かわれる日ですね、お嬢様」
サラがルルシルの髪を整えながら声をかける。
「えぇ、そうね」
鏡の中の少女は、いつものように穏やかな表情を浮かべていた。
「本日は王妃殿下とのお茶会ですので、少し柔らかい印象のものがよろしいかと」
サラはそう言いながら、いくつかのドレスを並べて見せる。
「こちらの淡い水色のドレスはいかがでしょう。清らかで、お嬢様によくお似合いになります」
ルルシルは軽く頷いた。
「それでお願い」
「かしこまりました」
サラは満足そうに微笑み、手際よく支度を進めていく。
今日のルルシルは、王妃に会うために選ばれた可愛らしいドレスを身にまとっている。
淡い水色の生地は、光を受けるたびにやわらかく揺れ、清らかな印象を与えていた。胸元から裾にかけて控えめにあしらわれたレースは繊細で、ところどころに結ばれた小さなリボンが、上品な愛らしさを添えている。華美すぎることはなく、それでいて少女らしい柔らかさを失わない、落ち着いたデザインだった。
髪には、その色合いに似合うように選ばれた細身のカチューシャが飾られている。飾りは控えめだが、ルルシルの整った髪をよりすっきりと見せていた。
そして首元には、細い鎖に下げられた懐中時計が静かに揺れている。
銀の蓋には、ヴェリテ公爵家の家紋――蔦と葉に囲まれた伝説のペガサスが精緻に彫られていた。その中央には、小さな紫の魔法石が埋め込まれており、光を受けるたびに淡く輝く。
幼い頃から大切にしている品だった。
「お嬢様なら、もう教わることなどほとんどないでしょうね」
サラが微笑む。
「そんなことないわ。まだまだ教えてもらうことばかりよ」
ルルシルは肩をすくめるように笑った。
王族の婚約者に終わりはない。
知識も、礼儀も、人との関わり方も。
常に磨き続けるものだと、ルルシルは教えられてきた。
◇◇◇
王城。
フィオレイン王家の庭園は、色とりどりの花々に囲まれていた。
その一角に用意された小さな茶会の席。
そこには、王妃マクベリア・フィオレインの姿があった。
彼女は深みのある赤色のドレスをまとっている。
艶やかな紅の布地は、王妃にふさわしい気品を漂わせながらも、重すぎる印象はない。胸元には繊細な刺繍が施され、袖口と裾には金糸の縁取りが控えめに輝いていた。広がりすぎない上品なシルエットは、華やかさと落ち着きを両立させている。
そして、そのドレスに映えるように、王妃の髪は陽光を受けて輝く金色だった。柔らかく波打つ長い金髪は背に流れ、ところどころを上品にまとめられている。光を含んだその色はまるで陽だまりのように温かく、彼女の穏やかな微笑みと相まって、見る者に安心感を与えていた。
「いらっしゃい、ルルシル」
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。王妃殿下」
マクベリア・フィオレイン王妃は、優雅に微笑んだ。
王妃としての気品を持ちながらも、その表情はどこか柔らかい。
「今日は堅苦しい勉強は必要ありませんよ」
「はい、承知いたしました」
「ただのお茶会です」
ルルシルは静かに微笑む。
幼い頃から何度も訪れているこの時間。
それは妃教育というより、母娘に近い穏やかな時間だった。
「学園生活はいかがですか?」
マクベリアが尋ねる。
「はい、新しい環境で学ぶことも多く、充実した日々を過ごしております」
「そうですか」
「ルルシルなら、周囲の方々とも良い関係を築けているのでしょうね」
ルルシルは少し考える。
「皆さまそれぞれに素晴らしいところがあり、ご一緒していると学ぶことばかりです」
その答えに、マクベリアは優しく笑った。
「あなたらしい答えですね」
話題は自然と学園から、各国の文化へ移っていく。
アッシェン王国の風習。
ミルベラ王国の歴史。
ルルシルは言葉を選びながら、丁寧に会話を続ける。
マクベリアはそんな姿を眺め、感心したように頷いた。
「本当に、よく努力していますね」
「お言葉、光栄に存じます」
ルルシルは静かに微笑んだ。
マクベリアは紅茶を一口含むと、ふと柔らかな笑みを浮かべた。
「そういえば、アッシェン王国では今年の春祭りも盛大だったそうですね」
不意にアッシェン王国の言葉へと変わる。
あまりにも自然な切り替わりだった。
けれど、ルルシルは一瞬たりとも戸惑うことなく、同じ言葉で穏やかに返した。
「ええ。今年も精霊への感謝を捧げる祭りとして、多くの方々が参加されたそうです。私も父から話を聞いております」
マクベリアは嬉しそうに微笑む。
二人の会話は、そのまま自然にアッシェン王国の言葉で続いていった。
春祭りの風習。
民族衣装の違い。
精霊信仰が人々の暮らしにどのように根付いているのか。
話題は尽きることがない。
やがてマクベリアは、何気ない様子で他国の交易で用いられる言葉へと切り替えた。
「近年は港も以前より賑わっているようですね」
「はい。交易品の種類も増え、港町も大変活気づいていると伺っております」
会話は途切れることなく続き、やがて自然とフィオレイン王国の共通語へ戻っていく。
まるで最初から一つの言葉で話していたかのような、滑らかなやり取りだった。
マクベリアはカップを静かに置き、優しく目を細める。
「やはり、あなたとの会話は心地よいですね」
「言葉が変わっても、迷うことなく相手に寄り添って話せる。その柔軟さは、外交の場で何より大切な資質です」
ルルシルは静かに頭を下げた。
「まだまだ未熟ではございますが、お役に立てるよう、これからも学び続けてまいります」
その答えに、マクベリアは満足そうに頷く。
「知識だけではなく、その謙虚さもあなたの美徳ですね」
◇◇◇
しばらくして。
マクベリアがふと紅茶へ視線を落とした。
「そういえば」
「カインも誘ったのですよ」
ルルシルの手がわずかに止まる。
「殿下も?」
「ええ。たまには婚約者であるあなたと、ゆっくり話す時間も必要だと思ったのですが」
マクベリアは小さく苦笑した。
「断られてしまいました」
静かな沈黙が流れる。
ルルシルはカップをそっと置いた。
「殿下も、ご多忙でいらっしゃるのだと思います。王太子としてのお務めもございますし」
マクベリアはルルシルを見つめる。
「あなたは、いつもあの子を庇いますね」
ルルシルは控えめに微笑んだ。
「カイン殿下は、幼い頃より努力を重ねてこられたお方ですから」
「昔は、仲が良かったのに」
マクベリアの言葉に、ルルシルは目を伏せる。
「覚えていますか? 幼い頃、あなたたちはよく庭園で遊んでいました」
ルルシルの脳裏に、遠い記憶が蘇る。
『ルルシル、こっちだ!』
『殿下、お待ちください』
まだ王太子としてではなく、ただの少年と少女だった頃。
「カインは、あなたのことをよく話していました」
マクベリアは懐かしそうに微笑む。
「いつからでしょうね。二人の間に、少し距離ができてしまったのは」
ルルシルは答えなかった。
理由を知らないわけではない。
けれど、それを口にすることはしなかった。
「殿下は、殿下なりにお考えがあるのだと思います」
それだけを告げる。
マクベリアは静かにルルシルを見つめた。
「……あなたは優しい子ですね」
◇◇◇
帰り際。
「ルルシル」
マクベリアが呼び止める。
「はい、王妃殿下」
「あなたは、未来の王妃になるために十分すぎるほど努力しています」
ルルシルは黙って聞く。
「ですが」
王妃は優しく続けた。
「自分の気持ちまで置き去りにしてはいけませんよ」
ルルシルは少し驚いたように目を瞬く。
「あなたは誰かを支えることばかり考えています」
「時には、自分が何を望んでいるのかも考えてください」
ルルシルはすぐには答えられなかった。
ただ、深く頭を下げる。
「ありがたいお言葉、心に留めさせていただきます」
◇◇◇
王城を出る馬車の中。
ルルシルは窓の外を眺めていた。
淡い水色のドレスの裾が、揺れるたびに静かな波のように見える。
胸元で揺れる懐中時計の音は、ほとんど聞こえないほど小さい。
それでも、その規則正しい重みだけが、今の自分を現実へとつなぎとめていた。
幼い頃の記憶。
優しく笑っていたカイン。
今のカイン。
変わってしまったのは、いつからだったのだろう。
それでも。
ルルシルはまだ、彼を責めることができなかった。
彼もまた、何かを抱えているのだと思っていたから。
夕暮れの街並みを眺めながら、少女は静かに目を閉じた。




