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Lumiel Princess〜精霊姫と暁炎の王子〜  作者: 香百杏
第三章 木枯らし

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第四十二話 消えた王太子【後編】

 


 毎朝、教室へ入ったルルシルが自分の机につくと、そこには一通の手紙が入っていた。


 最初にそれを見つけた時、ルルシルは不思議に思った。


 差出人の名前はない。


 けれど、中には自分へ向けた想いが綴られていた。


 誰が書いたものなのか分からない。


 ルルシルは困り、イザベルへ相談した。


「そのうち相手が名乗り出るのではありませんこと?」


 イザベルはそう言った。


 けれど、次の日も。


 その次の日も。


 毎朝、同じように手紙が入っていた。


 最初は淡い恋心を綴っただけのものだった。


 けれど、日を追うごとに内容は変わっていった。


 カインとエミリーのこと。


 なぜ婚約を破棄しないのか。


 自分はルルシルを愛している。


 いつもあなたを見ている。


 どうして自分を見てくれないのか。


 次第に、その内容はルルシルを不安にさせるものになっていった。


 ある朝。


 ルルシルが手紙を手にしているところを、カインに見つかった。


「なんだ、それ?」


「これは……」


 ルルシルが答えるより早く、カインは手紙を奪い取った。


 そして――。


 ビリッ。


 手紙を細かく破いた。


「こんな手紙をもらって喜んでるのか、お前は?」


「……」


「気持ち悪い」


 その言葉に、ルルシルは何も言えなかった。


 ◇◇◇


「どうして……」


 ナイルが苦しそうに呟く。


「どうして、あいつはいつも僕の邪魔をするんだ!」


「……あいつ?」


「カインです!」


 ナイルの声が森に響く。


「この合宿だってそうだ! あなたと二人でいることを嫌がるくせに、あいつはエミリーさんと一緒にいた!」


「ナイルさん……」


「あなたは傷ついているのに!」


「そんな……」


 ルルシルの表情が曇る。


 ナイルはそれを見て、さらに声を荒らげた。


「だから……取引したんだ」


「取引……?」


「そうさ!」


 ナイルは笑った。


「図書室で、ある本にメモが挟まっていたんです」


「メモ……?」


「僕のこの気持ちを叶えてくれるって書いてあった」


 ルルシルの顔から血の気が引いていく。


「お金を払えば……」


 ナイルが囁く。


「殿下を消してくれるって!」


「……」


 ルルシルの瞳に、悲しみが浮かんだ。


 それを見たナイルが目を見開く。


「……どうして?」


「……」


「どうして悲しそうな顔をするんですか?」


 ナイルの声が震える。


「僕は、あなたのためにしたのに……」


 その瞬間。


「炎よ!」


 鋭い声が森に響いた。


 轟音とともに炎が走り、ナイルの身体を包み込む。


「うわぁっ!」


 ナイルの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。


 ルルシルが目を見開く。


 炎の向こうから、一匹の狼狐が姿を現した。


「レグロナグラ……!」


 その後ろから、深紅の髪を持つ少年が歩いてくる。


「大丈夫か?」


 アルクスレイブンだった。


「ゼイン様!」


 アルクスレイブンはすぐにルルシルのもとへ駆け寄る。


「怪我はないか?」


「私は大丈夫です」


 ルルシルは答えると、地面に落ちた杖を拾い上げる。


 そして、倒れているナイルへ近づいた。


 杖を構え、浄化魔法をかける。


 穢れに侵されていたナイルの身体から、黒い靄がゆっくりと抜けていく。


 しばらくすると、ナイルは意識を失ったまま静かになった。


「……どうして、ここに?」


 ルルシルが尋ねる。


「レグロナグラが、ヴェリテ嬢が森へ向かう気配を感じたんだ」


 アルクスレイブンがレグロナグラを見る。


 レグロナグラは金色の瞳を細めた。


「そうだったのですね」


 ルルシルはレグロナグラへ向き直る。


「ありがとうございます」


 レグロナグラは小さく鼻を鳴らした。


「それから、ゼイン様もありがとうございます」


「礼はいい。それより、本当に怪我はないんだな?」


「はい」


 ルルシルは頷いた。


「ですが……ここは昼間よりも、ずっと穢れが充満しています」


 周囲を見渡す。


「危険です。お二人とも、戻ってください」


 すると、アルクスレイブンが小さく笑った。


「危険なのは、お互い様だろう」


「……ですが」


「それに、あなたがここへ来た理由もまだ聞いていない」


 アルクスレイブンはルルシルを見る。


「ここで何をしていたんだ?」


「カイン殿下を探していました」


 ルルシルはこれまでのことを説明した。


 カインとはぐれたこと。


 その後、ナイルと出会ったこと。


 そして、ナイルがカインを消すために誰かと取引をしたこと。


「……協力者がいるということか」


 アルクスレイブンの表情が険しくなる。


 その時。


 レグロナグラが倒れているナイルへ顔を向けた。


『おい』


 低い声が響く。


『こいつの服から、妙な気配がするぞ』


「服から……?」


 アルクスレイブンがナイルへ近づく。


 胸元を探ると、何か硬いものに触れた。


「これは……」


 取り出したものを見て、ルルシルの表情が変わる。


「……穢れ石」


 封印の魔法陣の中にあったものと同じ。


 濁った色をした石が、夜の闇の中で不気味な光を放っている。


『ひどい匂いだ』


 レグロナグラが顔をしかめる。


 アルクスレイブンも石を見つめ、険しい表情を浮かべた。


「こんなものを……なぜ持っているんだ?」


「これも浄化できるはずです」


 ルルシルが手を伸ばす。


「待て」


 アルクスレイブンが制した。


「証拠になるはずだ。浄化するより、封印しておいた方がいい」


「……確かに、そうですね」


 アルクスレイブンはレグロナグラへ視線を向ける。


「頼めるか?」


『任せろ』


 レグロナグラが穢れ石へ顔を近づける。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。


 黒い炎が石を包み込む。


 しばらくすると、穢れ石は炎の中へ完全に覆われた。


「これでいいだろう」


 アルクスレイブンが確認する。


「はい」


 ルルシルも頷いた。


 アルクスレイブンは倒れているナイルを見る。


「彼には悪いが、今はカイン殿下が危ない」


「……はい」


「ここへ残していこう。狼煙を上げれば、誰かが見つけるだろう」


 アルクスレイブンが空を見上げる。


「俺たちは先へ進む」


 ルルシルも頷いた。


 二人は森の奥へ視線を向ける。


 カインが消えた先には、まだ何かが潜んでいる。


 ルルシルは杖を握り直した。


「……行きましょう」


「ああ」


 アルクスレイブンとルルシルは、カインを探すため、さらに深い森の中へと進んでいった。


 ◇◇◇


 カインとはぐれた場所を目指し、木々の間を一歩ずつ進んでいく。


 夜の森は、昼間とはまるで別の場所のようだった。


 月明かりは高く伸びた木々に遮られ、地面まで届く光はわずかしかない。


 湿った土を踏むたび、靴の裏から小さな音が返ってくる。


 風が吹くと、頭上で葉が擦れ合った。


 ざわ……ざわ……。


 その音に混じるように、森の奥から何かが動く気配がする。


 けれど、姿は見えない。


 暗闇の向こうに何が潜んでいるのかも分からない。


 そして――。


『痛い……』


『助けて……』


『苦しい……』


『怖い……』


 無数の声が、ルルシルの頭の中へ流れ込んできた。


「……っ」


 ルルシルは思わず足を止め、両手で頭を抱えた。


 ズキン、と頭の奥を鋭い痛みが走る。


 声は一つではない。


 いくつもの声が重なり合い、途切れることなく頭の奥へ響いてくる。


 苦しんでいる精霊。


 怯えている精霊。


 逃げようとしている精霊。


 そして、すでに魔物へと変わりかけている精霊。


 そのすべての声が、ルルシルには聞こえていた。


 息が苦しい。


 頭が割れそうに痛い。


 それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


 ルルシルはその場にしゃがみ込み、強く目を閉じた。


 もう嫌だ。


 頭が痛すぎる。


 どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 カインを探しに来ただけなのに。


 どうして、こんなにもたくさんの精霊が苦しんでいるのだろう。


 どうして――。


 そこまで考えて、ルルシルは唇を噛んだ。


 弱音を吐いている場合ではない。


 カインが、この森のどこかにいる。


 それなら、自分が探さなければならない。


 そう思っても、頭の痛みは引いてくれない。


 むしろ、次々と流れ込んでくる声が、痛みをさらに強くしていく。


 森に漂う穢れは、昼間よりも濃くなっていた。


 木々の間に淀む空気まで、重く感じられる。


 森そのものが、何かに侵食されているようだった。


「ヴェリテ嬢!」


 突然、すぐ近くから声が響いた。


「……え?」


 ルルシルが顔を上げる。


 アルクスレイブンが、心配そうにこちらを見下ろしていた。


 その声を聞いた瞬間、ルルシルははっとした。


 自分が森の中でしゃがみ込んでいることに気づく。


「……ゼイン様」


「さっきから何度も呼んでいる」


「……申し訳ありません」


 ルルシルはゆっくりと立ち上がった。


「大丈夫です」


 そう答えたものの、額には薄く汗が滲んでいた。


 アルクスレイブンは、そんなルルシルをじっと見つめる。


「本当に大丈夫なのか?」


「はい」


 ルルシルは小さく息を吐いた。


 けれど、アルクスレイブンは納得していないようだった。


「……さっきから、何か聞こえているのか?」


「え?」


「あなたは、何もない場所を見ていることがある」


 アルクスレイブンが森の奥へ視線を向ける。


「それに、ずっと苦しそうだ」


 ルルシルは少しだけ迷った。


 けれど、ここで隠し続けても意味はない。


「……はい」


 静かに答える。


「私は、精霊の声を聞くことができます」


「精霊の声を?」


「厳密に言えば、下級精霊の声です」


 ルルシルは目を伏せる。


「それから……魔物になった精霊の声も」


 アルクスレイブンの表情がわずかに変わった。


「……それは、今もか?」


「はい」


「この森にいる精霊たちの声が?」


「そうです」


 ルルシルは小さく頷いた。


「苦しんでいる声も、怯えている声も……すべて聞こえてきます」


 アルクスレイブンは黙り込んだ。


 彼には、何も聞こえていない。


 ただ、深い闇に包まれた森と、時折揺れる木々が見えているだけだった。


 けれど、ルルシルには違う。


 この森にいる精霊たちの苦しみが、声となって届いている。


「……だから、あんなに苦しそうだったのか」


「……はい」


 ルルシルは小さく答えた。


「この場所は、あまりにも多くの声が聞こえます」


 アルクスレイブンの眉が寄る。


「なら、いったん拠点へ戻った方がいい」


「……いいえ」


 ルルシルは首を横に振る。


「カイン殿下が、この先にいるかもしれません」


「しかし――」


「大丈夫です」


 ルルシルはそう言って、腰へ手を伸ばした。


 収めていた杖を取り出し、しっかりと握る。


「少しだけ、時間をください」


 アルクスレイブンが見守る中、ルルシルは杖を胸元へ引き寄せた。


 ゆっくりと目を閉じる。


 身体の内側へ魔力を巡らせると、杖の先から淡い光が零れた。


 光は薄い膜のように広がり、ルルシルの身体を包み込んでいく。


 それと同時に――。


『痛い……』


『助けて……』


『怖い……』


 先ほどまで頭のすぐそばで叫ばれているようだった声が、少しずつ遠ざかっていった。


 いくつもの声が重なり合っていたはずなのに、一つ一つの声が静かになっていく。


 完全に消えたわけではない。


 必要な声だけが、ルルシルのもとへ届いている。


 エーテルヴェール。


 ルルシルが自ら開発した独自魔法。


 無数の精霊の声を遮断し、自身の精神的な負荷を軽減するための魔法だ。


 必要な声だけを通し、それ以外を遮る。


 いわば、精霊の声に対する「遮音」のようなものだった。


 やがて、頭の中を埋め尽くしていた声が静かになる。


 ルルシルはゆっくりと目を開けた。


「……行きましょう」


 先ほどまで苦しそうにしていた姿が嘘のように、いつもの落ち着いた表情へ戻っている。


 アルクスレイブンは、そんなルルシルを見つめていた。


「……それで、声を抑えたのか?」


「はい」


 ルルシルは杖を握ったまま、森の奥へ視線を向ける。


「必要な声まで聞こえなくなると困りますから」


「……なるほどな」


 アルクスレイブンは短く答えた。


 けれど、その視線はどこか複雑だった。


 今まで彼が知らなかったルルシルの一面。


 精霊の声を聞くという力が、彼女にとって特別な才能であるだけではない。


 時には、こうして苦痛になるほどのものなのだ。


 それを理解したアルクスレイブンは、何も言わずにルルシルの隣へ並んだ。


「行こう」


「……はい」


 二人は再び、森の奥へと歩き始めた。


 エーテルヴェールによって、頭の中はずいぶん静かになっていた。


 それでも、完全に何も聞こえなくなったわけではない。


 遠くから届く精霊たちの声。


 その中に、ひときわ弱い声が混じっていた。


『……苦しい……』


 ルルシルが足を止める。


「……こちらです」


「何か聞こえたのか?」


「はい」


 ルルシルは森の奥を見つめる。


 声は、さらに奥から聞こえている。


「行きましょう」


 ルルシルが先に歩き出す。


 アルクスレイブンも後を追った。


 二人は声のする方へ向かって、木々の間を抜けていく。


 湿った枝が衣服に触れ、葉に溜まった雫が肩へ落ちた。


 やがて、二人の前に一本の木が現れた。


 太い幹に、いくつもの傷が残されている。


 根元には折れた枝や湿った落ち葉が散らばっていた。


 そして――。


「……!」


 ルルシルの表情が変わった。


 木の幹に、小さなうさぎの姿をした精霊がナイフで刺されていた。


 白かったはずの毛並みは泥で汚れ、ところどころが黒く染まっている。


 長い耳は力なく垂れ、小さな身体はかすかに震えていた。


『……痛い……』


「なんてことを……!」


 ルルシルは駆け寄った。


 両手でナイフの柄を握る。


 精霊を傷つけないよう、慎重に刃を引き抜いた。


 ナイフが抜けた瞬間、うさぎの精霊の身体がぐらりと傾く。


「……!」


 ルルシルは慌てて両手で受け止めた。


「大丈夫です」


 腕の中の小さな身体をそっと抱きしめる。


「今、助けますから」


『……こわい……』


「もう大丈夫ですよ」


 ルルシルは腰から杖を取り出し、精霊へ向けた。


 杖先に淡い光が集まっていく。


 傷口へ魔力を流すと、裂けた部分がゆっくりと塞がっていった。


 けれど――。


「……っ」


 ルルシルの表情が曇る。


 傷が治っているにもかかわらず、精霊の身体から黒い靄が滲み出していた。


 身体の奥から、まるで染み出してくるように広がっている。


「穢れが……」


 ルルシルは息を呑んだ。


 すでに穢れが身体の奥深くまで入り込んでいる。


「お願い……」


 ルルシルはさらに魔力を強めた。


「もう少しだけ、頑張ってください」


 けれど、うさぎの精霊はかすかに身体を震わせただけだった。


『……ルルシル……』


「はい」


『……もう……だめ……』


「そんなことありません」


 ルルシルは必死に魔力を送り続ける。


「まだ……助けられます」


 淡い光が、うさぎの精霊を包み込む。


 けれど、黒い靄は消えなかった。


 むしろ、さらに濃くなっていく。


「……お願い……」


 ルルシルの声が震える。


 その時だった。


 うさぎの身体が、大きく震えた。


「……!」


 黒い靄が一気に溢れ出す。


 淡かった光がかき消され、精霊の身体が闇に包まれていく。


 柔らかな毛並みが黒く染まる。


 小さな身体から、禍々しい魔力が噴き出した。


『……くるしい……』


「……」


 ルルシルは唇を噛んだ。


 目の前の精霊が、もう精霊ではなくなっていく。


「……魔物化してしまった」


 穢れに呑まれた精霊を、元へ戻すことはできない。


 ルルシルは静かに杖を構えた。


「……ごめんなさい」


 魔物となったうさぎが、低く唸る。


 その瞳からは、先ほどまでの怯えた光が消えていた。


 ルルシルは目を伏せる。


「もう、苦しまなくていいです」


 杖先に魔力が集まった。


「……眠ってください」


 浄化の魔法が放たれる。


 淡い光が魔物の身体を包み込み、黒い靄を少しずつ消していく。


 魔物の身体が、光の中でゆっくりと崩れていった。


 最後に残ったのは、ほんの僅かな光。


 それも静かに灰へと変わり、夜の地面へ落ちていった。


 ルルシルは、その灰を見つめたまま動かなかった。


「……間に合わなかった」


 小さく呟く。


 その声は、静かな夜の森へ消えていった。


 ◇◇◇


 しばらくの間、ルルシルは動かなかった。


 指先には、先ほどまで抱いていた小さな身体の感触が残っている。


 助けられなかった。


 その事実が、胸の奥に重く沈んでいく。


 アルクスレイブンも、何も言わなかった。


 ただ、ルルシルの隣に立ち、地面に残された灰を見つめていた。


 夜の森には、再び静けさが戻っている。


 聞こえるのは、木々の葉が擦れる音と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。


 その時――。


「あー……もう祓ってしまったのか」


 背後から、男の声が聞こえた。


 ルルシルが顔を上げる。


 アルクスレイブンもすぐに振り返った。


 二人の視線の先。


 木々の間に、一人の男が立っていた。


 黒いローブを身に纏い、深くフードを被っている。


 顔は影に隠れていて、表情までは見えない。


 ただ、その姿にはどこか不自然な気配があった。


 そして――。


 男の肩には、誰かが担がれていた。


「……あれは」


 ルルシルの目が大きく見開かれる。


 見間違えるはずがない。


「殿下!」


 男の肩に担がれているのは、行方が分からなくなっていたカインだった。


 身体から力が抜け、頭を垂れている。


「カイン殿下……!」


 ルルシルが一歩踏み出す。


 その瞬間、アルクスレイブンが腕を伸ばして制した。


「待て」


「ですが……!」


「相手が何者か分からない」


 アルクスレイブンは男から視線を逸らさない。


 レグロナグラもいつの間にかアルクスレイブンの隣へ現れ、低く唸っていた。


『気をつけろ』


 ルルシルは足を止めた。


 男はそんな二人を見つめたまま、肩に担いでいたカインへ視線を落とす。


「返すよ」


 男は淡々と言った。


 そして――。


 ドサッ。


 肩に担いでいたカインを、その場へ落とした。


「……う……」


 地面に身体を打ち付けたカインが、小さく呻く。


「殿下!」


 ルルシルはすぐに駆け寄った。


 アルクスレイブンも警戒しながら、その後を追う。


「殿下、大丈夫ですか?」


 ルルシルはカインの身体を起こし、顔を覗き込む。


 意識はある。


 けれど、顔色が悪く、呼吸も弱い。


「……ルル……シル……?」


「はい。私です」


 かすかな声に、ルルシルは安堵した。


「よかった……」


 その時、背後から男の声がした。


「そんなに心配しなくても死んではいない」


 ルルシルが振り返る。


「あなたが……ナイルさんの協力者ですね」


 男は答えない。


「ナイルさんは、殿下を消すために誰かと取引をしたと言っていました」


 ルルシルは男をまっすぐ見つめる。


「あなたが、その相手なのですか?」


 男はしばらく黙っていた。


 木々の隙間から差し込む月明かりが、ローブの端を照らしている。


 やがて、男の口元がわずかに動いた。


「……さあな」


 それだけだった。


 アルクスレイブンが一歩前へ出る。


「お前は何者だ?」


 男はアルクスレイブンを見る。


 アルクスレイブンの表情がわずかに険しくなる。


 けれど、男は何も言わなかった。


 次の瞬間――。


 男の身体が闇に包まれていく。


「待て!」


 アルクスレイブンが駆け出す。


 しかし、男が闇に呑まれると、あっという間に姿を消した。


「……逃げられましたね」


 ルルシルが呟く。


「ああ」


 アルクスレイブンは森の奥を睨みながら答えた。


 レグロナグラが鼻を鳴らす。


『妙な奴だ』


「……はい」


 ルルシルも頷いた。


 ナイルが持っていた穢れ石。


 カインを連れ去った謎の男。


 そして、傷つけられていた精霊。


 すべてが偶然とは思えない。


 ルルシルは、地面に横たわるカインを見つめた。


 今回の野外合宿で起きていることは、ただの事故ではない。


 誰かが意図的に、この森で何かを起こしている。


 その事実だけが、はっきりと胸に残っていた。

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