第四十二話 消えた王太子【前編】
第三拠点へ到着した直後、四人は教員用のテントへ案内された。
布地の内側は外の霧よりもさらに重く、湿った空気が沈殿しているようだった。
テントの中には、ノアやドミニクをはじめとした教師たちと、ローガン、ガルシアが集まっていた。
中央の机には、演習地の地図が広げられている。
その周りを囲むように椅子が並べられ、ルルシルたち四人も席についた。
エミリーは椅子に腰を下ろしたまま、指先を膝の上で強く握りしめている。白くなるほど力が入っているのに、時折その指が小さく震え、握りがほどけそうになるたびに、また慌てて結び直すように力を込めた。
視線は地図に向いているはずなのに、焦点はどこにも合っていない。瞬きをするたびに涙が溜まり、落ちる前に袖で乱暴に拭う仕草を繰り返していた。
キリカは背筋を伸ばしたまま、地図の一点を見つめている。だがその視線は動かないのではなく、わずかに揺れていた。何度か喉元が上下し、言葉を飲み込むように唇が開きかけては閉じる。
机の縁に置かれた手は、指先だけが微かに浮いていて、今にも何かを掴みそうで掴めないまま宙を彷徨っていた。
ナイルは椅子の背に浅くもたれ、落ち着きなく視線を左右へ滑らせている。誰かの顔を見てはすぐに逸らし、次の瞬間にはまた別の方向へ目を向ける。その動きが一定のリズムを持たず、思考が追いついていないことだけがはっきりと伝わっていた。
時折、喉を鳴らすように小さく息を飲み込み、そのたびに肩がわずかに跳ねる。
そしてルルシルは、地図の上に視線を落としていた。
視線は動かないのに、指先だけが無意識に机の縁をなぞっている。一定の間隔で止まり、また動き出すその癖が、思考の途切れと再開を繰り返していることを示していた。
「まず、カイン殿下と最後に一緒にいた場所を確認しましょう」
ノアが地図を指差す。
「第二拠点を出発したのは、朝食を終えてからすぐです」
ルルシルが答える。
声は落ち着いているが、言葉を発する直前に一瞬だけ呼吸が浅くなる。
「第二拠点を出てから、どのくらい歩いたところで霧が濃くなりましたか?」
「それほど時間は経っていませんでした」
ルルシルは記憶を辿る間、視線を一度だけ地図から外し、空中の一点を見つめたまま数秒止まる。
「霧が濃くなってからは、歩く速度もかなり落ちました。私たちはロープで繋がって進んでいました」
「その時点では、五人全員が一緒だったんだな?」
ドミニクが確認する。
「はい」
ルルシルは頷くが、その動きはわずかに遅れた。
頷いた直後、エミリーの方へ一瞬だけ視線が流れ、すぐに地図へ戻る。
「カイン殿下がいなくなったことに気づいたのは、第三拠点が近くなってからです」
ルルシルは地図へ手を伸ばした。
指先が触れる直前、一瞬だけ迷うように止まり、それからようやく一点を示す。
「霧の濃さと、途中から歩く速度がかなり落ちたことを考えると……おそらく、この辺りだと思います」
指先が、第二拠点と第三拠点の中間より少し第三拠点寄りの場所を示す。
「この辺りで、殿下がいなくなったのか?」
ローガンが尋ねる。
「はい。キリカさんが全員いるか確認して、エミリーさんとナイルさんが返事をしました。そのあと、エミリーさんが殿下を呼んだのですが……」
ルルシルは一度言葉を切った。
その間、エミリーの肩が小さく跳ねる。呼吸が一瞬止まり、次の瞬間に浅く速い息が漏れた。
「返事がありませんでした」
エミリーの目から、ぽろりと涙が落ちる。
落ちた瞬間、彼女はそれに気づくより早く袖を動かし、拭うというより押し潰すように顔を覆った。
「カイン様……」
声は喉の奥で途切れ、最後は息に溶けるように消えた。
隣では、ナイルが椅子の縁を握りしめている。指が白くなり、関節が浮き上がるほどの力が入っているのに、その手は落ち着かず小刻みに震えていた。
視線は一度も定まらず、地図と床と天井の間を行き来している。
キリカは黙ったまま、ルルシルの言葉が終わる瞬間を待っていた。その目だけが、わずかに細くなり、何かを計算するように動いている。
「その時、魔法を使って殿下の位置を確認しようとしました」
ルルシルが続ける。
言葉を発する直前、彼女の指先が一度だけ机を強く押し、そのまま離れた。
「ですが、魔石に魔力を流した瞬間、魔力が弾かれました」
「全員ですか?」
ノアが尋ねた。
「はい。私だけではありません。キリカさんも、エミリーさんも、ナイルさんも試しましたが、誰も魔法を使うことができませんでした」
「……なるほど」
ノアは少し考え込む。
その間、エミリーは袖の中で指を絡めるように握り直し続けている。止まらない動作だけが、彼女の不安を外へ漏らしていた。
「ヴェリテ嬢。君の杖を少し借りてもいいですか?」
「はい」
ルルシルは杖をノアへ渡した。
その瞬間、彼女の手は一瞬だけ空中に残り、すぐに膝の上へ戻る。
ノアは杖を手にすると、魔力を流す。
すると、杖の先に淡い光が灯った。
「……使えますね」
「え……?」
エミリーが顔を上げる。
涙の跡が残ったまま、視線だけが鋭く跳ね上がる。
「どうして……?」
キリカも驚いたようにノアの手元を見る。
その視線は一瞬で固定され、次の瞬間にはわずかに揺れた。
「私たちは、あの時に使えなかったのに……」
ナイルも戸惑った表情を浮かべたまま、言葉の途中で口を閉じる。喉が動くが、続きが出てこない。
ルルシルも、じっと杖を見つめている。
その視線は動かないのに、まばたきだけがやけに遅い。
「原因は分かりません」
ノアが静かに杖を返す。
「少なくとも、魔石に不具合はなさそうです」
「では……あの時、私たちの魔法だけが使えなかったということですか?」
ルルシルが尋ねる。
その声は平静を保っているが、最後の語尾だけがわずかに揺れた。
「今のところは、そう考えるしかないでしょう」
ノアが答えた。
テントの中に、不安そうなざわめきが広がる。
エミリーはその音に反応するように肩を震わせ、視線を再び外へ向ける。布の隙間から見える霧の向こうを、何度も何度も確かめるように。
「とにかく」
ローガンが低い声で言った。
「原因の調査は後だ。今はカイン殿下の捜索を優先する」
「はい」
ドミニクも頷く。
「俺たち大人で探す。生徒のお前たちはここで待っていろ」
「でも……」
エミリーが不安そうに口を開く。
言葉が出るまでに一拍の間があり、その間に喉が何度も上下する。
「カイン様を私も――」
「駄目だ」
ドミニクがはっきりと言った。
その瞬間、エミリーの肩がびくりと跳ね、言葉が途中で途切れる。
「今の状況では、君たちまで危険な場所へ行かせるわけにはいかない」
「……はい」
エミリーは俯いた。
視線が膝へ落ちたまま、そこから動かない。
指先だけが、まだ小さく震えていた。
「ランゲスも、昨日から体調が良くないんだろう?」
「はい……」
ナイルは返事をするまでに一瞬遅れ、その間に一度だけ唇を噛んだ。
「なら、なおさらだ。今日はもう休め」
ドミニクが大きく頷く。
ノアが四人を見渡し、優しく微笑んだ。
「カイン殿下のことは、こちらに任せてください」
ルルシルは静かに頷いた。
「……分かりました」
キリカも頷く。
その動きは小さいが、迷いはなかった。
「私たちは、ここで待ちます」
ナイルも小さく頷いた。
「はい」
エミリーだけは、何度もテントの外へ視線を向けている。
そのたびに、視線が戻るまでの間が少しずつ長くなっていく。
「カイン様……」
その声を聞きながら、ルルシルは黙って地図を見つめていた。
カインがいなくなった場所。
魔法が使えなかったこと。
そして、第二拠点から感じていた、あの張り詰めた空気。
すべてが偶然なのだろうか。
ルルシルの胸の奥に、言葉にできない不安が残っていた。
◇◇◇
四人は教員用のテントを出ると、自分たちのテントへ戻った。
けれど、すぐに眠りにつくことはできなかった。
ルルシルはベッドに横たわり、静かに目を閉じている。
頭の中には、先ほどの出来事が何度も浮かんでいた。
霧の中で突然いなくなったカイン。
使えなくなった魔法。
そして、第二拠点から感じていた、あの張り詰めた気配。
――やはり、何かがおかしい。
その時。
ギシッ……。
隣のベッドから、軋む音が聞こえた。
ルルシルはそちらへ目を向ける。
キリカもエミリーも眠っている。
どうやら、寝返りを打ったらしい。
ルルシルが再び目を閉じると、髪の中から小さな声がした。
『ルルシル……大丈夫?』
ルルシルは僅かに目を開けた。
「……大丈夫ですよ」
小さな声で答える。
すると、髪の隙間から花の精霊がそっと顔を出した。
『あのね……』
「はい?」
『霧の中に、変な気配があったの』
「変な気配……ですか?」
ルルシルが眉を寄せる。
花の精霊は小さく頷いた。
『うん。なんだか、精霊とは違うの』
「……」
ルルシルは黙って精霊を見つめる。
『ルルシルも感じてたでしょう?』
「……そうですね」
確かに感じていた。
第一拠点を出てから、精霊たちの様子がおかしかった。
怯えているような気配。
そして、何かを警戒しているような張り詰めた空気。
「やはり……何かいたのですね」
ルルシルは小さく呟いた。
『うん。でも、魔物とも違うの』
「魔物とは違う……」
その言葉に、ルルシルは考え込む。
何かがいる。
けれど、それは魔物ではない。
なら、一体何なのだろう。
ルルシルはゆっくりと身体を起こした。
ベッドが小さく軋む。
向かいのベッドでは、キリカもエミリーも眠っている。
起こしてはいけない。
けれど――このまま何もせずにいることもできなかった。
「……ごめんなさい」
ルルシルは眠っている二人へ、小さな声で謝った。
そして、ベッドから降りる。
足元に置いていたブーツを履き、杖を手に取った。
花の精霊が不安そうにルルシルを見上げる。
「……ついてきてくれますか?」
ルルシルが静かに尋ねる。
花の精霊は少しだけ震えながら、それでもこくんと頷いた。
『もちろん』
小さな声だったが、その言葉には迷いがなかった。
ルルシルは優しく微笑む。
「ありがとうございます」
そして、テントの外へ出る。
辺りは静まり返っていた。
他の生徒たちのテントも明かりは消えている。
誰も起きていないようだった。
夜の森は暗く、遠くから風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。
ルルシルは一度だけ後ろを振り返った。
それから、カインとはぐれた道へ視線を向ける。
杖を手に、ルルシルは森の奥へ足を踏み出した。
花の精霊を連れ、静かな夜の森へと消えていった。
◇◇◇
ルルシルは、カインとはぐれた道を目指して森の中を進んでいた。
夜の森は深い闇に包まれている。
昼間とはまるで違う空気だった。
木々の向こうから、何かが蠢くような気配がする。
姿は見えない。
けれど――聞こえる。
『苦しい』
『嫌だ』
『怖い』
『近づくな』
精霊たちの声が、頭の中へ次々と流れ込んでくる。
「……っ」
ルルシルは眉間に皺を寄せた。
頭の奥がずきずきと痛む。
それほどまでに、この場所には穢れが満ちているのだ。
それでも、ルルシルは足を止めなかった。
カインがこの先にいるかもしれない。
そして、何が起きているのか確かめなければならない。
その時だった。
背後から、枝を踏む音が聞こえた。
「……誰ですか?」
ルルシルが振り返る。
「ルルシル様!」
暗闇の向こうから、ナイルが姿を現した。
「ナイルさん……?」
「よかった……追いつけました」
ナイルは息を切らしながら、ルルシルのところまで歩いてくる。
「どうしてここに?」
「眠れなくて……少し植物を探していたんです」
ナイルは苦笑した。
「そうしたら、ルルシル様が森へ入っていくのが見えて……」
「私を追ってきたのですか?」
「はい」
ナイルは頷いた。
「殿下を探しているんですよね?」
「……はい」
「それなら、僕も一緒に探します」
そう言って、ナイルはルルシルの隣に並んだ。
「一人より、二人の方がいいですから」
「……ありがとうございます」
二人は並んで森の奥へ進んでいった。
しばらく歩いたところで、ルルシルはふと足を止めた。
「……ナイルさん?」
「はい?」
返事はあった。
けれど、その声には先ほどまでの穏やかさがなかった。
ナイルは俯いている。
「どうかしましたか?」
「……ルルシル様」
「はい」
「どうして……」
ナイルがゆっくり顔を上げる。
その瞳は、どこか濁っていた。
「どうして僕の気持ちに気づいてくれないんですか?」
「……え?」
次の瞬間。
ナイルがルルシルへ飛びかかった。
「きゃっ……!」
両手を掴まれ、そのまま木の幹へ身体を打ち付けられる。
背中に強い衝撃が走った。
その拍子に、腰に下げていた杖が外れ、地面へ落ちる。
カラン、と乾いた音が夜の森に響いた。
「ナイルさん!」
ルルシルが身をよじる。
「離してください!」
「嫌だ……」
ナイルの指に力がこもる。
「もう、離さない……」
花の精霊がルルシルの髪の中から飛び出そうとする。
『ルルシル!』
「出てきてはいけません!」
ルルシルが鋭く制した。
「ここは穢れています! あなたまで穢れてしまいます!」
『でも……!』
「大丈夫ですから!」
ルルシルはナイルを見つめる。
明らかに様子がおかしい。
この場所に満ちている穢れに長く晒されたことで、心が蝕まれているのだ。
完全に魔物化しているわけではない。
けれど、穢れに感情を乱され、冷静な判断ができなくなっている。
ルルシルは地面に落ちた杖へ視線を向けた。
ナイルに両手を拘束されているため、届かない。
「……っ」
魔力だけでも使おうと意識を集中させるが、杖まで距離がありうまくいかない。
「どうして……」
その様子を見たナイルが、ふっと笑った。
「ルルシル様」
「……はい」
「僕が送った手紙……読んでくれましたか?」
「手紙……?」
「そうです。手紙です!」
ナイルの声が大きくなる。
「僕が毎日送っていた手紙です!」
ルルシルの瞳が揺れた。
「名前は書けなかったけど……僕は毎日、あなたに想いを伝えました!」
「……」
「なのに……どうして、どうして気づいてくれないんですか!?」
ナイルの手に、さらに力がこもった。




