第四十話 第一拠点の夜【後編】
夕食を終え、ルルシルたちが女子用のテントへ戻った頃だった。
「ヴェリテ嬢、いらっしゃいますか?」
外からノアの声が聞こえた。
ルルシルとキリカは顔を見合わせる。
「……何かしら?」
「そうですね」
ルルシルが立ち上がる。
するとキリカがベッドへ腰を下ろした。
「また戻ってきたら教えてね。私は先に休んでるわ」
「はい。分かりました」
ルルシルはテントの外へ出た。
そこにはノアが立っていた。
「ヴェリテ嬢、休むところでしたか?」
「はい。ちょうど戻ったところです」
「すみません。昼間の件で少し話がしたくて。申し訳ないのですが、来てもらえますか?」
ノアが少し離れた場所にある教員用のテントを指差す。
「分かりました」
「ありがとうございます」
二人は並んで教員用のテントへ向かった。
中へ入ると、数人の教師たちが大きな机を囲んでいた。
ローガンの姿もある。
その隣にはガルシアが立っており、その肩には小さくなったメルゼルカがいた。
「ドミニク先生、揃いました」
ノアが声をかける。
「おう。ヴェリテ嬢、すまないな!」
ドミニクが振り返ると、隣の椅子を引いた。
「ここに座るといい」
「……ありがとうございます」
ルルシルは戸惑いながら椅子へ腰を下ろした。
いったい何の話なのだろう。
昼間の蜘蛛の精霊たちのことだろうか。
そんなことを考えていると、ローガンが口を開いた。
「全員揃ったから始めよう」
その声には、昼間とは違う緊張感があった。
「昼間、第一拠点の結界内で精霊が魔物化しかけた件だ」
ルルシルは顔を上げる。
「これを見てくれ」
ローガンが机の中央を指差した。
そこには一枚の紙に、淡い光を放つ魔法陣が描かれていた。
中央には一つの石が置かれており、幾重にも重なった術式が石を取り囲んでいた。
その石は、光が当たる角度によって、青や緑、紫の濁った色が表面を揺らめく。
美しくも見える。
けれど、どこか生気を吸い取られるような、不気味な冷たさがあった。
「これは……?」
ルルシルが目を細める。
ガルシアが答えた。
「穢れ石だよ」
「……穢れ石」
その名前に、ルルシルの表情が変わった。
「本では読んだことがありますが……実在するのですね」
「ああ」
ガルシアは石を見下ろした。
「俺も実物を見るのは久しぶりだよ」
ローガンが険しい表情で続ける。
「私もここ数年は目にすることはなかった」
ルルシルは封印された石をじっと見つめた。
穢れ石。
魔物がいる穢れた土地にできる鉱物だ。
精霊の力を奪い、穢れを広げる危険な石。
存在そのものが、精霊にとって脅威となるもの。
「君もヴェリテ公爵家の子だ。実物を見ておいた方がいいと思ってな」
「はい」
ルルシルは頷いた。
「これは、どこで?」
「今日、蜘蛛の精霊たちがいた縄張りを確認していた時に見つけた」
ローガンが答える。
「木々の間に隠すように置かれていた。今はこうして封印して、穢れが漏れないようにしている」
ルルシルは石から視線を離さなかった。
「……では、蜘蛛の精霊たちが穢れていた原因は」
「この石の可能性が高い」
ローガンが静かに答えた。
昼間の光景が、ルルシルの脳裏に蘇る。
赤黒く濁った蜘蛛の精霊たち。
苦しいと訴えていた声。
そして、ルルシルたちを拒絶するように向けられた敵意。
あの穢れが、自然に生まれたものではなかったとしたら。
「……誰かが、ここへ持ち込んだのでしょうか?」
ルルシルが尋ねる。
「それが分からない」
ローガンは険しい顔をした。
「誰が、何の目的で持ち込んだのか。それどころか、いつから置かれていたのかもな」
ガルシアが肩をすくめる。
「そもそも、この時代に穢れ石がまだ残っているとは思わなかったよ」
「穢れ石は、二百年前の戦争で使われたものとされています」
ルルシルが静かに言う。
「ええ。だからこそ、今になってこんな場所で見つかったことが問題なんだ」
ローガンが頷く。
「穢れ石は非常に危険だ。精霊を穢すだけじゃない。置かれた土地そのものに穢れを広げることもある」
ルルシルは石を見る。
「このまま放置されていたら……」
「蜘蛛の精霊だけでは済まなかった可能性もある」
ドミニクが低い声で言った。
その言葉に、ルルシルは黙り込んだ。
もし昨日ではなく、もっと時間が経っていたら。
第一拠点にいる精霊たちが次々と穢れていたら。
そして、それに気づかないまま生徒たちが過ごしていたら。
考えるだけで背筋が冷たくなる。
「幸い、今のところ確認されたのは蜘蛛の精霊たちだけだ」
ローガンが続ける。
「だが、念のため第一拠点全体を調べている。森の中も含めてな」
「……そうですか」
「それと」
ローガンが教師たちの方向へ目を向けた。
「今年の野外合宿は、我々も気を引き締める必要がある」
その声は静かだったが、強い意志が込められていた。
「何が目的で置かれたものなのか分からない以上、絶対に生徒たちに害がないとは言い切れない」
ドミニクも頷く。
「明日からは各班に分かれる。教師の目が届きにくくなる分、いつも以上に注意しなければならんな」
「生徒たちには、穢れ石について?」
ノアが尋ねる。
「今のところは話さなくていい」
ローガンが答えた。
「必要以上に不安を与える必要はない。ただし、何か異変を感じた場合はすぐに報告するよう徹底してくれ」
「分かりました」
ノアが頷く。
ローガンが、ガルシアの肩へ視線を向けた。
「メルゼルカ」
メルゼルカが顔を上げる。
「何か気づいたことがあれば教えてくれ」
『もちろんよ』
メルゼルカは穏やかに微笑んだ。
『あの子たちの様子も気になるもの。私も気をつけておくわ』
「頼んだぞ」
『ええ』
ガルシアがにこりと笑った。
「俺もちゃんと見ておきますよ」
「お前は特に頼むぞ」
ローガンが釘を刺す。
「はいはい。分かってますって」
いつもの飄々とした調子で返すガルシア。
けれど、その淡い薔薇色の瞳は、封印された穢れ石へ向けられていた。
ルルシルもまた、石から目を離せずにいた。
穢れ石。
二百年前の戦争で精霊を苦しめたもの。
そして今、それが第一拠点の森に置かれていた。
偶然なのだろうか。
それとも――。
「ヴェリテ嬢」
ローガンの声に、ルルシルは顔を上げた。
「今日はもう休んでいい。昼間の件もあった。明日に備えなさい」
「はい」
ルルシルは立ち上がった。
「お話ししてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ、助かった。昼間、君がいなければどうなっていたか分からん」
「……いえ」
ルルシルは小さく首を振った。
「精霊たちが無事でよかったです」
そう言って、ルルシルは教員用のテントを後にした。
外へ出ると、第一拠点には静かな夜が広がっていた。
空には無数の星が輝いている。
その時、ルルシルの髪の中から、
『ぷはぁ……』
小さな花の精霊が顔を出した。
『お星様、綺麗ね』
ルルシルは空を見上げる。
「そうですね」
花の精霊は、しばらく星空を眺めていた。
けれど、ふとルルシルの顔を見上げる。
『ルルシル……あの石、怖かったね』
先ほどまで無邪気に笑っていた声が、少しだけ震えていた。
ルルシルは小さな精霊へ視線を落とす。
「大丈夫ですよ」
そっと指先で花の精霊を撫でる。
「私が守りますから」
『ほんと?』
「ええ」
ルルシルは微笑んだ。
「あなたも、他の精霊たちも。私が守ります」
『……うん!』
花の精霊は安心したように笑うと、再びルルシルの髪の中へ潜り込んだ。
ルルシルはもう一度、夜空を見上げた。
昼間と同じ場所とは思えないほど、穏やかな夜だった。
けれどルルシルの胸には、先ほど見た石の姿が残っていた。
――誰が、何のために。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




