第三十九話 野外合宿一日目【前編】
エーベルハイト辺境伯領。
広大な平野には、フィオレイン王立魔法学園高等部一年生の生徒たちが集まっていた。
空はよく晴れている。
まだ朝の明るさが残る平野には柔らかな風が吹き抜け、遠くには緑豊かな森が見えていた。
その森の奥には、わずかに精霊の気配が漂っている。
王都のように精霊は姿を現さず、隠れているようだ。
ここは演習地の中でも比較的安全な区域。
これから始まる三泊四日の野外合宿に備え、生徒たちはそれぞれ学園から支給された野営道具を手にしている。
自由に持ち込める私物は一人一点。
そのため、荷物の量は皆ほとんど変わらない。
「ねえ、何を持ってきた?」
「私は小さな鏡。身だしなみは大事でしょう?」
「私はお菓子!」
「それ、持ち込みの一品にしたの?」
「だって四日間もあるのよ?」
あちこちから楽しそうな声が聞こえてくる。
「私は本にしたわ」
「本?」
「夜、少しぐらい読む時間があるかもしれないじゃない」
「野外合宿で本を読む余裕なんてあるのかしら」
そんな会話に笑い声が重なる。
初めて経験する三泊四日の野外生活。
不安よりも期待の方が大きいのだろう。
普段の教室では見られないような、浮き足立った表情をしている生徒も多かった。
「テントって自分たちで張るんだよね?」
「そうよ。班ごとに設営するって」
「ちゃんと張れるかな……」
「魔法も使っていいんでしょう?」
「もちろん。でも、何でも魔法に頼るんじゃなくて、自分たちで工夫するのも訓練なんだって」
生徒たちはこれから始まる四日間を思い思いに想像している。
その中には、早く森へ行ってみたいと話す者もいれば、夜の野営を楽しみにしている者もいた。
ルルシルも少し離れたところから、そんな生徒たちの様子を眺めていた。
普段の学園とは違う空気。
広々とした平野の先には森が広がり、そのさらに奥には山々が連なっている。
そしてその森の気配は、やはりどこか不思議だった。
精霊の存在を感じる者なら気づく程度の、淡い揺らぎ。
だが姿はどこにも見えない。ただ風の流れの中に、時折“視線のようなもの”が混じるだけだ。
その先には、ルミナス川が流れている。
これから四日間。
同じ班の仲間たちと、この広大な演習地で過ごすことになる。
そう考えると、ルルシルも少しだけ胸が高鳴った。
その時。
「おーい! 一年生!」
大きな声が平野に響き渡った。
生徒たちが一斉に振り返る。
声の主はドミニクだった。
「いつまでも固まってないで、班ごとに分かれて集まれ!」
豪快な声に、生徒たちが一斉に動き始める。
「はいはい、班ごとね!」
「どこだっけ?」
「待って、名簿確認するから!」
あちこちから声が上がり、平野に集まっていた生徒たちが、それぞれの班へと分かれていく。
ルルシルも自分の班を探そうと周囲を見渡した。
その時、後ろから声を掛けられる。
「ルルシルさん」
振り向くと、キリカが立っていた。
「こっちよ。私たちの班、あちらに集まっているわ」
「あら、ありがとうございます」
ルルシルは小さく微笑む。
「行きましょう」
「ええ」
二人で並んで歩き出す。
その一歩ごとに、風の中の気配がわずかに揺れる。
いつもなら騒がしい精霊たちの声は聞こえない。彼女たちを遠巻きに見ているようだった。
少し離れた場所には、カインとエミリー、そしてナイルが待っていた。
キリカがそちらへ向かうのに続いて、ルルシルも歩を進める。
「お待たせしました」
ルルシルが声を掛けると、ナイルが振り返った。
「いえ、僕たちも今来たところです」
ナイルの視線が一瞬だけルルシルへ向かう。
けれど、すぐに視線を逸らした。
「全員揃ったようだな」
カインが五人を見渡す。
その時、再びドミニクの声が響いた。
「よし、全員集まったな!」
生徒たちのざわめきが、少しずつ静まっていく。
「これから三泊四日、お前たちは五人一組で行動する!」
ドミニクの声が、広い平野へ響き渡った。
「魔法を使い、知恵を使い、仲間と協力して四日間を過ごせ!」
生徒たちの表情が引き締まる。
ドミニクの言葉が終わると、生徒たちの前へ一人の男性が歩み出た。
黒髪に白髪が混じった髪。
鍛えられた体躯と、辺境を守る者らしい落ち着いた佇まい。
エーベルハイト辺境伯、ローガン・エーベルハイトだった。
普段、王都で暮らす生徒たちにとって、辺境伯本人を見る機会など滅多にない。
自然と生徒たちの間に緊張が走る。
ローガンは集まった生徒たちをゆっくりと見渡した。
「フィオレイン王立魔法学園、高等部一年生の諸君。遠路はるばる、よく来てくれた」
低く落ち着いた声が平野に響く。
「今日から諸君らが過ごすこの場所は、普段の学園とは大きく異なる」
ローガンが背後に広がる森へ視線を向ける。
「フィオレイン国では、魔物はエーベルハイト辺境伯領にしか生息していないと言われている」
生徒たちの間から、小さなどよめきが起こった。
「もちろん、諸君らの中には魔物を実際に見たことがない者も多いだろう」
「王都で暮らしていれば、それが普通だ」
ローガンは一度言葉を切った。
「だが、ここでは違う」
その一言に、先ほどまで楽しげだった生徒たちの表情が引き締まった。
「この領地では、魔物が存在することは珍しいことではない」
「森にも、山にも、川にも魔物がいる」
生徒たちは、遠くに広がる森へ視線を向ける。
先ほどまで楽しげに話していた者たちも、今は静かにローガンの言葉へ耳を傾けていた。
「もちろん、諸君らが活動する区域には安全を確保するための対策が施されている。必要以上に恐れることはない」
そこでローガンは、生徒たちを真っ直ぐ見つめた。
「だが、安全だからといって、油断していい場所でもない」
その言葉に、生徒たちはさらに姿勢を正した。
「ここは観光地でもなければ、ただの遠足の場所でもない」
「魔法を実際に使い、自然の中で生活し、自分たちの力で考えるための実践の地だ」
ローガンの視線が、五人一組で並ぶ生徒たちを順に巡っていく。
「だからこそ、諸君らに一つだけ覚えておいてほしい」
「不安を感じた時、危険だと思った時は、決して無理をするな」
「自分たちだけで何とかしようとせず、必ず教師や近くの大人を頼りなさい」
静かな声だった。
けれど、その言葉には強い重みがあった。
「助けを求めることは恥ではない」
「無理をして取り返しのつかないことになる方が、よほど愚かなことだ」
ローガンはそこで表情を和らげた。
「この四日間、仲間と協力し、普段の授業では得られない経験をしてほしい」
「そして、全員が無事にここへ戻ってくること。それが私から諸君らへの願いだ」
ローガンが一歩下がる。
生徒たちから拍手が起こった。
その拍手が収まると、ドミニクが再び前へ出た。
「辺境伯、ありがとうございました」
ドミニクが一礼する。
「さて、もう一人紹介しておく」
その言葉に、生徒たちが顔を上げた。
「今回の野外合宿では、この演習地について詳しい人間にも協力してもらう」
ドミニクが後方へ視線を向ける。
「高等部三年、ガルシア・エーベルハイト」
呼ばれた男が、ゆっくりと歩いてくる。
黒髪を一本の三つ編みにし、淡い薔薇色の瞳をした長身の青年。
歩み寄る姿には、周囲の緊張などどこ吹く風といった様子が滲んでいた。
「……よろしく」
簡潔な挨拶に、何人かの生徒が思わずくすりと笑う。
その時、隣にいたキリカがルルシルへ小声で話しかける。
「ねえ、ルルシルさん。あの先輩、知ってる?」
ルルシルはガルシアへ視線を向ける。
「ええ。以前、少しお話ししたことがあります」
「ああ、やっぱり」
キリカは納得したように頷いた。
「前に話していたものね。辺境伯家のご子息でしょう?」
「はい。ガルシア・エーベルハイト先輩です」
その時、ローガンが息子へ声を掛けた。
「ガルシア。もう少しシャキッとしろ。今日はお前にも仕事がある」
「心得ておりますよ、父上」
ローガンは呆れたように息を吐くと、ドミニクへ視線を向けた。
ドミニクは苦笑しながらガルシアを見る。
「まあ、お前がこの辺りをよく知っているのは確かだ。頼りにしてる」
ガルシアは少しだけ口元を緩めた。
「ご期待に添えるよう努めます」
ドミニクはその返事を聞くと、腕を組んだままガルシアを眺めた。
返事だけは実に立派だ。
だが、本人の立ち姿からはどうにも覇気が感じられない。
ドミニクは小さく肩を落とし、苦笑を浮かべた。
――まったく、締まらない奴だ。
「それじゃあ、いよいよ始めるぞ!」
ドミニクの声が平野に響いた。
ドミニクの声が平野に響いた。
すると、ノアが生徒たちの前へ歩み出る。
「それでは、本日の予定を説明します」
ノアは手元の資料を確認しながら、生徒たちへ視線を向けた。
「まず、現在いるこの平野から、演習地内の森へ移動します」
生徒たちの視線が、遠くに広がる森へ向けられる。
「森へ入った後は、第一拠点まで班ごとに移動してください」
「第一拠点に到着したら、班ごとにテントを設営します」
ノアが森の方を指差す。
「第一拠点には、安全地帯を示す杭が設置されています」
「テントは必ず、その杭で囲まれた区域の中に設営してください」
生徒たちが真剣に耳を傾ける。
「また、杭の外へは絶対に出ないようにしてください」
ノアの声が少しだけ強くなる。
「安全地帯の外には、皆さんがまだ遭遇したことのない魔物がいる可能性があります」
「用事があったとしても、勝手に杭を越えてはいけません」
何人かの生徒が緊張したように頷いた。
「テントの設営が終わったら、班ごとに昼食を取ってください」
「昼食後は、歴史の授業を行います」
生徒たちの間から、小さなどよめきが起こる。
「野外合宿でも授業はあるのか……」
「四日間ずっと遊びじゃないんだ」
そんな声が聞こえ、ノアは苦笑した。
「もちろん、ここでしか学べない内容です。楽しみにしていてください」
そう言って資料を閉じる。
「以上が本日の予定です」
ノアがドミニクを見る。
ドミニクは、大きく頷いた。
「説明は聞いたな!」
生徒たちが一斉に顔を上げる。
「荷物を確認したら、班ごとに並べ!」
ドミニクが森を指差した。
「第一拠点まで移動するぞ!」
「はい!」
生徒たちの声が、広い平野に響き渡る。
三泊四日の野外合宿。
いよいよ、本格的な活動が始まろうとしていた。




