第三十八話 それぞれの胸中
春の終わり。
校庭を吹き抜ける風は心地よく、新緑に包まれた学園は穏やかな時間に包まれていた。
ナイル・ランゲスは、気づけば一人の少女を目で追うようになっていた。
ルルシル・ヴァン・ヴェリテ。
同じ学年でありながら、これまで話したことはほとんどない。
授業へ向かう姿。
廊下を歩く後ろ姿。
放課後、一人静かに図書室へ向かう姿。
見かけるたびに、自然と視線が吸い寄せられてしまう。
そんな自分に気づいては、小さく苦笑するのだった。
最近では、ルルシルの近くにいるカインとエミリーの姿も自然と目に入るようになった。
婚約者であるカイン。
そして、その隣にはいつも平民初の特待生エミリーがいる。
三人の関係は、学園中の噂になっていた。
「……」
ナイルは何も言えない。
ただ、少し離れた場所からその様子を見つめることしかできなかった。
◇◇◇
放課後。
借りていた本を返却するため、ナイルは図書室を訪れていた。
静かな室内には、本をめくる音だけが響いている。
返却を済ませ、何気なく視線を上げる。
窓際の席で、一冊の本を読んでいるルルシルの姿が目に入った。
午後の柔らかな陽射しが銀色の髪を照らし、淡い紫色の瞳は静かに文字を追っている。
まるで一枚の絵画のようだった。
学園で見かけることは何度もあった。
けれど、こんなにも近くで見つめるのは初めてだった。
その美しさに、思わず足が止まる。
もし――。
ほんの少しだけ勇気があったなら。
そんな考えが頭をよぎった。
◇◇◇
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
葉擦れの音が、まるで誰かの囁きのように図書室へと流れ込む。
その静寂の中で、ナイルは一歩、また一歩とルルシルへ近づいていく。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
まるでこの一歩一歩が、何かを決定づけてしまうような錯覚。
それでも足は止まらない。
そして――。
「ルルシル様」
ナイルが声を掛けると、ルルシルはゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、午後の光が彼女の睫毛に落ち、淡い影を落とす。
まるで時間が一瞬だけ止まったかのようだった。
「あら、ナイル様。どうかなさいましたか?」
静かな声。
けれどその奥には、どこか張り詰めた糸のような緊張があった。
「その……最近、お元気がないように見えて」
ナイルは言葉を選びながら続ける。
ルルシルは少しだけ俯く。
窓の外から差し込む光が、その横顔に影を落とした。
「やはり……そう見えてしまいますか」
その声は、風に溶けるようにか細い。
「カイン殿下とエミリーさんのことです」
ナイルは真っすぐルルシルを見つめた。
その視線には、探るような優しさと、確かめたいという切実さが混ざっていた。
「無理をなさっていませんか?」
その言葉に、ルルシルの瞳が揺れる。
ほんの一瞬だけ、仮面のような微笑みが崩れかける。
「私は……大丈夫です」
そう微笑もうとする。
けれど、その笑顔はどこか遠く、ガラス越しのように脆かった。
その瞬間、窓の外で風が強く吹き、カーテンがふわりと揺れる。
まるで彼女の心を映すかのように。
「無理をしなくてもいいんです」
ナイルは一歩近づく。
床板が小さく軋み、その音がやけに大きく響いた。
「ルルシル様は、いつも周りのことばかり考えているじゃないですか」
「……っ」
ルルシルの指先が、膝の上でわずかに震える。
「たまには誰かに頼ってもいいんです」
その瞬間だった。
図書室の静寂が、ほんのわずかに歪む。
ルルシルの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
光を受けて、それは小さな宝石のように頬を伝う。
「……本当は、とても苦しかったんです」
震える声とともに、ルルシルはナイルへ駆け寄る。
椅子が後ろに倒れそうになるほどの勢いだった。
「ルルシル様!?」
次の瞬間、彼女はナイルの胸へ飛び込み、ぎゅっと抱きついてきた。
その衝撃に、ナイルの呼吸が一瞬止まる。
柔らかな体温と、かすかな香り。
現実感が一気に崩れていく。
「ありがとうございます……」
絞り出すような声。
それは救いを求め続けていた者の、ようやく見つけた安堵だった。
ナイルは驚きながらも、そっとルルシルを抱きしめ返す。
壊れないように、触れすぎないように。
「大丈夫です」
優しく微笑みかける。
その声は、図書室の静寂に溶けていく。
「これからは僕が、ルルシル様を支えます」
ルルシルは涙を拭いながら、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、先ほどまでの儚さとは違い、確かに温度を持っていた。
「ナイル様……」
ガタンッ!!
突然、静かな図書室に大きな音が響いた。
「えっ!?」
ナイルはハッと我に返る。
足元には抱えていた本が散らばっていた。
どうやら無意識のうちに手を滑らせてしまったらしい。
周囲の視線が一斉に集まる。
「ふふっ……」
「何か考え事でもしてたのかな?」
近くにいた生徒たちが、くすくすと笑い始めた。
ナイルの顔は耳まで真っ赤になる。
「……何を考えてるんだ、僕は」
慌てて本を拾い集める。
そんな妄想をしたところで。
ルルシルが自分を見てくれることなんて、きっとない。
「はは……」
自嘲するように小さく笑うと、本を抱え直し、逃げるように図書室を後にした。
◇◇◇
ある日の夕食。
マルセレン家の食卓には、父、母、そしてキリカの三人が顔を揃えていた。
「そういえば、学園で使っている杖の魔石はどうだ?」
父親が尋ねる。
キリカはナイフとフォークを動かしながら答えた。
「今のところ問題はないわ。授業中に不具合があったって話も聞かないし、魔力の流れも安定してる」
「そうか。それなら安心だ」
父親は満足そうに頷き、ワインを口に運ぶ。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、学園には平民の特待生がいるそうだな」
キリカは小さく頷く。
「うん。エミリーっていう子」
「ほう。我が家も名誉貴族とはいえ、元は商家だ。同じ平民出身なら仲良くなれたんじゃないか?」
その言葉に、キリカは鼻で小さく笑った。
「あんな人とは仲良くなれないわ」
父親が不思議そうに首を傾げる。
「何かあったのか?」
キリカは一度父を見たが、それ以上話す気にはなれず、小さく肩をすくめた。
「……別に」
そう言って食事を続ける。
食卓には一瞬だけ静かな空気が流れた。
その空気を和らげるように、母親が優しく微笑む。
「それより、学園に素敵な殿方はいらっしゃるの?」
「お母様……」
「将来、お婿さんになってくださるような方とか」
キリカは思わず苦笑した。
「まだそんなこと考えてないわ」
「あら、小さい頃は『王子様と結婚したい』なんて言っていたじゃない」
「……あれは子どもの頃の話よ」
少し照れくさそうに笑う。
「もちろん、王子様に憧れたことくらいあるわ。でも今は違うの」
ナイフとフォークを静かに置く。
「恋をするのは自由だと思う」
「夢を見ることだって素敵なことよ」
「でもね」
その表情が少しだけ真剣になる。
「婚約者がいる人に近付くのは違うと思うの」
父と母は静かに娘の言葉を聞いていた。
「本当に好きになったなら、まず婚約をきちんと終わらせるべきじゃない?」
「そのあとで、堂々とお付き合いすればいい」
キリカは真っ直ぐ前を見つめる。
「私は、そういう清い恋がしたいの」
一度言葉を切る。
「相手の地位なんて関係ないわ。商人でも、貴族でも、平民でも、自分を大切に思ってくれる人なら、それで十分」
父親は優しく微笑んだ。
「キリカらしい考えだな」
少し間を置き、不思議そうに尋ねる。
「……それが、さっきの特待生と何か関係があるのか?」
キリカは小さく息をついた。
「だから、エミリーさんのことが好きになれないの」
「恋をすることを否定しているわけじゃない。でも、婚約者がいらっしゃる王太子殿下へあんなふうに近付くのは、私には理解できない」
父親は少し驚いたように目を見開いた。
「そんなことが学園で起きているのか……」
キリカは肩をすくめる。
「王太子殿下がきちんと線を引いていれば、こんな噂にはならなかったはずよ」
「婚約者がいるのに、あんなに親しくして……周りが何も思わないはずないじゃない」
「王族だからって、何をしても許されるわけじゃないでしょう?」
「王太子殿下もどうかしてるわ」
その言葉に、母親が少し声を強めた。
「キリカ!」
娘をたしなめるように見つめる。
「そのようなことを誰かに聞かれたら、不敬になりますよ」
キリカは肩をすくめ、小さく笑う。
「外では言わないわ」
そう言ってグラスを手に取り、ふっと鼻を鳴らした。
「ここは家だもの」
父親と母親は顔を見合わせ、小さく苦笑するのだった。




