第三十四話 それぞれの朝【前編】
朝日がカーテンの隙間から静かに差し込む。
ヴェリテ公爵家の屋敷は、今日も穏やかな朝を迎えていた。
窓の外では小鳥がさえずり、庭師たちが花壇の手入れをしている。
何も変わらない朝。
ただ一つだけ違うのは、ルルシルがまだ目を覚ましていないことだった。
コンコン。
「ルルシル、入るよ」
静かに扉が開き、クレイスが部屋へ入る。
制服姿のままベッドへ歩み寄ると、眠る妹の顔を見つめ、小さく息を吐いた。
「今日もよく眠っているな」
返事はない。
規則正しい寝息だけが静かな部屋へ響いている。
クレイスはベッド脇の椅子へ腰掛けた。
銀色の前髪をそっと整えながら、苦笑する。
「今日は生徒会の仕事が少し立て込んでいてね」
「帰ったらまた顔を見に来るよ」
そう言って立ち上がる。
部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「……早く起きてくれ」
振り返ることなく、小さく呟く。
「お前がいないと、屋敷が静かすぎる」
その言葉を残し、クレイスは部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
ヴェリテ公爵ルイスは、朝早くから王城へ向かっていた。
精霊の森で起きた密猟事件の報告。
森の結界の調査。
そして、闇市で流通していた結界を欺く護符の調査依頼。
公爵としてやるべき仕事は山ほどある。
それでも毎朝、屋敷を出る前には必ず娘の寝顔を見に来ることだけは欠かさなかった。
◇ ◇ ◇
サラは窓を開け、新鮮な風を部屋へ通す。
「今日はよく晴れていますよ、お嬢様」
花瓶の花を替え、カーテンを整えながら穏やかに話しかける。
「学園のお庭も、きっと綺麗でしょうね」
返事はない。
それでもサラは、いつものように優しく微笑んだ。
「今日も一日、ゆっくりお休みくださいませ」
部屋を出ると、廊下で主治医と顔を合わせた。
「先生、おはようございます」
「おはようございます、サラさん」
医師は穏やかに頷く。
「お嬢様のご様子はいかがですか?」
「変わりございません。静かに眠っておられます」
サラは少し寂しそうに微笑んだ。
「そうですか……」
医師はルルシルの部屋の扉へ目を向ける。
「毎日診せていただいておりますが、お身体は順調に回復しております。熱も下がり、外傷もほとんど癒えました」
「ですが……」
サラも静かに頷いた。
「まだ、お目覚めにはなりませんものね」
「ええ」
医師は小さく息をつく。
「私にも、その理由だけは分からないのです」
「そうでしたか……」
サラは部屋の扉を優しく見つめた。
「お嬢様なら、きっと目を覚ましてくださいます」
「皆、その日を信じておりますから」
医師は穏やかに微笑み返した。
「私も、そう信じております」
二人は一礼を交わし、それぞれの持ち場へと歩いていった。
◇◇◇
その頃。
フィオレイン王立魔法学園では、いつも通りの一日が始まろうとしていた。
登校してきた生徒たちは、友人たちと談笑しながら教室へ向かっていく。
「そういえば、ヴェリテ様、まだお休みなんですって」
「体調を崩されたと聞きましたわ」
「心配ですわね……」
そんな声が廊下のあちこちから聞こえてくる。
一年生の教室が並ぶ廊下。
その一角で、イザベルは腕を組み、静かに立っていた。
いつものような穏やかな表情はない。
真っ直ぐ前を見据え、誰かを待っている。
「イザベル様、どうなさったのかしら」
「誰か待っているのでは?」
「ずっとあそこに立っていらっしゃるわ」
周囲の生徒たちも、その様子に気付き始めていた。
ざわめきが少しずつ広がる。
やがて廊下の向こうから、二人の姿が現れた。
カインとエミリーだった。
二人は腕を組みながら、楽しそうに話をしている。
「今日の放課後も、図書室でいいか?」
「はい!カイン様と一緒ならどこでも嬉しいです」
その姿を見つけたイザベルの瞳が鋭くなる。
そして一歩前へ踏み出した。
「――王太子殿下」
凛とした声が廊下へ響く。
カインは足を止め、露骨に面倒そうな表情を浮かべた。
「……何だ」
エミリーも驚いたようにイザベルを見る。
周囲の生徒たちも、何事かと足を止めた。
廊下のざわめきが静まり返る。
イザベルは真っ直ぐカインを見据え、静かに口を開いた。
「少々、お話がございます」
カインはわざとらしく小さくため息をついた。
「手短にしろ。暇じゃないんだが」
その言い方は、相手を見下すように冷たかった。
だがイザベルは動じない。
「では、お尋ねいたしますわ」
一呼吸置き、まっすぐカインを見据える。
「ルルシルが学園をお休みになられてから、どれほど経ったかご存じですの?」
カインは面倒そうに片眉を上げた。
「さあな。いちいち覚えてるわけないだろ」
その軽薄な返答に、廊下の空気が一瞬で冷え込む。
イザベルは静かに言い切った。
「二週間ですわ」
その瞬間、周囲の生徒たちから小さなどよめきが走る。
「そんなに……」
「もう二週間も……?」
イザベルは一切視線を逸らさず続けた。
「婚約者が二週間も学園へいらしていないというのに、殿下は何をなさっていたのですか」
カインは鼻で笑った。
「別に。体調崩しただけだろ。大げさだな」
その言葉に、イザベルの瞳がさらに鋭くなる。
「お見舞いには行かれましたの?」
「行ってない」
「一度も、ですの?」
「ああ。行く必要がないからな」
あまりにも悪びれない態度に、周囲の生徒たちは息を呑んだ。
イザベルはわずかに目を細める。
「……信じられませんわ」
その声には、明確な侮蔑と怒りが混じっていた。
「ルルシルは、未だ目を覚まされておりませんのよ」
その一言で、廊下の空気が凍りつく。
「え……」
「目を覚ましてないって……」
「そんな状態なのに……?」
ざわめきが一気に広がる。
エミリーも驚愕に目を見開いた。
「ルルシル様が……そんな……」
カインは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに興味を失ったように肩をすくめる。
「だから何だよ。寝てるなら放っておけばいいだろ」
その言葉は、あまりにも無関心で、あまりにも冷酷だった。
イザベルは一瞬だけ沈黙し、そして静かに吐き捨てるように言う。
「……本気でおっしゃっているのですの?」
カインは面倒そうに視線を逸らした。
「当たり前だろ。いちいち騒ぐな」
そしてエミリーの腕を引く。
「行くぞ。時間の無駄だ」
「は、はい……」
エミリーは青ざめたまま従うしかなかった。
二人が歩き出すと、イザベルの声が背中に突き刺さる。
「まだお話は終わっておりませんわ、王太子殿下!」
しかしカインは振り返りもしない。
「終わってるのはお前の話だろ」
吐き捨てるようにそう言うと、そのまま教室へ向かって歩いていった。
その背中には、罪悪感も迷いも一切なかった。
ただ、当然のような傲慢さだけがあった。
やがて始業の鐘が鳴り響く。
ゴーンゴーン――。
生徒たちはそれぞれ教室へと散っていく。
しかし誰の胸にも、重く残るものがあった。
――ルルシル様は、まだ目を覚ましていない。
そしてその婚約者は、それを「どうでもいい」と切り捨てた。
その事実は、静かに、しかし確実に学園中へと広がっていった。
◇◇◇
ルルシルが学園を休むようになってから、学園の空気は少しずつ変わっていた。
休み時間になれば、カインとエミリーが並んで歩く姿を見かける。
昼食も一緒。
放課後も一緒。
廊下では腕を組んで歩くことさえ珍しくなくなっていた。
最初こそ驚いていた生徒たちも、今では誰も口を挟まない。
「また殿下とエミリーさんだ」
「最近は隠そうともしないな」
「婚約者がお休みなのに……」
そんな囁きは聞こえてくる。
けれど、それ以上は誰も何も言わない。
貴族の令嬢たちは静かに距離を置き、男子生徒たちも苦笑いを浮かべるだけだった。
教師でさえ、王族相手に強く注意することはできない。
誰も止めない。
誰も近づかない。
そんな日々が続いていた。
◇ ◇ ◇
夜。
女子寮の一室。
エミリーはベッドへ腰掛け、小さな箱を開けた。
中には、舞踏会で身に着けた髪飾りが大切にしまわれている。
そっと手に取り、胸の前で抱きしめた。
「……綺麗だったなぁ」
舞踏会。
カインと踊った時間。
優しく手を取ってくれたこと。
「幸せにする」と言ってくれたこと。
思い返すたびに頬が緩む。
そして、最近の学園生活も。
休み時間は一緒に過ごし、廊下も並んで歩く。
以前のように誰かに注意されることもなくなった。
「みなさん……認めてくださったのかな」
ぽつりと呟く。
もちろん、令嬢たちは相変わらず自分に話しかけてはくれない。
けれど、あからさまに何かを言われることもない。
だからエミリーは、それを悪いことだとは思わなかった。
「きっと、時間が解決してくれたんだよね」
そう信じたかった。
カインが自分を選んでくれたことも。
二人で歩くことも。
いつか、みんなが受け入れてくれる日が来る。
そう思うだけで胸が温かくなる。
エミリーは髪飾りを箱へ戻すと、小さく微笑んだ。
「明日も、カイン様と一緒にいられますように」
部屋の灯りが静かに消える。




