第三十三話 すれ違う想い【後編】
夕暮れのヴェリテ公爵家。
淡い月の光が差し込むルルシルの部屋に、静かな足音が近付いてくる。
「お嬢様、温かいミルクをお持ちしました」
サラは銀の盆をテーブルへ置き、ベッドへ目を向けた。
ルルシルは静かに横になったまま、ぼんやりと天井を見つめている。
「お嬢様?」
返事はない。
サラは苦笑しながらカップをテーブルへ置いた。
「突然、学園から転移魔法でお帰りになられた時は、本当に驚きましたよ」
ベッドの脇には、学園で使用している杖が立て掛けられていた。
「あの杖でお帰りになったのでしょう?」
「坊ちゃんも、ずいぶん心配されていました。お屋敷へ戻られるなり、お嬢様を探していらっしゃいましたよ」
それでも、ルルシルから返事はない。
焦点の合わない瞳で、どこか遠くを見つめている。
サラは心配そうにルルシルの顔を覗き込んだ。
「……お疲れだったのですね」
優しく微笑み、毛布をそっと掛け直す。
「ここしばらく、とてもお忙しくされていましたもの」
ベッドサイドに置いたミルクへ目を向け、小さく笑う。
「お目覚めになられたら召し上がってくださいね」
ルルシルの髪を優しく撫でる。
「今日はゆっくりお休みくださいませ」
「おやすみなさい、お嬢様」
サラは静かに部屋を後にした。
部屋は静寂に包まれる。
時計の針だけが、規則正しく時を刻んでいた。
――やがて。
ルルシルのまぶたはゆっくりと重くなり、浅い呼吸が次第に穏やかになっていく。
毛布の中で小さく身じろぎをしたあと、彼女は静かに目を閉じる。
淡い月の光に包まれながら、ルルシルはそのまま深い眠りへと落ちていった。
◇◇◇
――ルルシル……。
かすかな声が、夢の中へ溶け込むように響く。
――ルルシル……。
次第にその声は増え、あちこちから重なり始めた。
『ルルシル……』
『ルルシル……』
『助けて……』
苦しげな声。
怯えた声。
泣きじゃくるような声。
無数の精霊たちの声が、静かな闇の中へ広がっていく。
そして――。
『助けてぇぇぇっ!!』
耳をつんざくような悲鳴が響いた。
「っ!」
ルルシルは勢いよく飛び起きた。
激しく肩で息をしながら、辺りを見回す。
部屋は暗く、静まり返っている。
けれど。
『ルルシル!』
『早く来て!』
『痛いよ!!』
『苦しい!!』
声は消えない。
むしろ先ほどよりも鮮明に、森の方角から響いてくる。
ルルシルは急いで窓辺へ駆け寄り、窓を開け放った。
夜風が部屋へ吹き込む。
視線の先には、夜に包まれた精霊の森。
屋敷の使用人も、警備の騎士たちも、誰一人として異変には気付いていない。
けれどルルシルには見えていた。
森の奥で揺れる、弱々しい光。
今にも消えてしまいそうな、小さな精霊たちの命の輝きが。
『ルルシル!!』
『助けて!!』
悲鳴は、もう懇願へと変わっていた。
「……行かなければ」
ルルシルはベッドサイドへ置いてあった懐中時計を手に取る。
静かに魔力を流し込むと、足元に淡い魔法陣が広がった。
「転移」
光がルルシルを包み込み、次の瞬間、その姿は部屋から消えていた。
◇◇◇
淡い光とともにルルシルの姿が現れる。
「……っ」
転移した瞬間、思わず顔をしかめた。
耳が痛い。
無数の精霊たちの声が一斉に押し寄せ、頭の中へ響いてくる。
『助けて!』
『痛い!』
『苦しいよ!』
『逃げて!』
『ルルシル!!』
普段は穏やかな森とは思えないほど騒然としていた。
木々の間を飛び交う精霊たちは皆怯え、弱々しい光を放っている。
「……何があったの?」
精霊たちの悲鳴は止まらない。
その時だった。
「ルルシル!」
草むらの向こうから、一匹の白いうさぎの精霊が勢いよく駆け寄ってきた。
涙を浮かべながらルルシルへ飛びつく。
『来てくれたの!』
ルルシルはそっとうさぎの精霊を抱き上げた。
「何があったのですか?」
うさぎの精霊は何度も首を縦に振る。
『森にね、知らない人がいるの!』
「知らない人……?」
『みんな捕まえられてる!』
震える小さな前足が森の奥を指さした。
『早く!』
ルルシルの表情が引き締まる。
「案内してください」
『うん!』
うさぎの精霊はルルシルの腕から飛び降り、森の奥へ向かって走り出した。
ルルシルもすぐに後を追う。
走るほどに、精霊たちの悲鳴は大きくなっていく。
『助けて!』
『怖いよ!』
『痛い!』
木々を抜けた先で、ようやくその声の理由が見えた。
開けた場所に、二人の男が立っている。
身なりは粗末で、腰には剣や短剣を提げていた。
足元には鉄でできた檻がいくつも並び、その中では小さな精霊たちが怯えながら身を寄せ合っている。
男の一人は、逃げようともがく狐の精霊を乱暴に掴み上げていた。
狐の精霊は苦しそうにもがき、小さな鳴き声を上げている。
その姿を見たルルシルの瞳が鋭く細められた。
「――何をしているのです!」
凛とした声が夜の森に響き渡った。
突然響いた声に、男たちは驚いたように振り返る。
「……あ?」
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
銀色の髪を夜風になびかせ、真っ直ぐこちらを見据えている。
男の一人は鼻で笑った。
「なんだ。ガキじゃねぇか」
「こんな時間に森をうろつくなんて、迷子か?」
二人は下卑た笑い声を上げる。
ルルシルは男たちを睨み据えたまま、一歩前へ出た。
「その精霊たちを放しなさい」
静かな声だった。
だが、その場の空気が一変する。
男は狐の精霊をさらに強く握り締めた。
『痛い……』
苦しそうな声がルルシルの耳へ届く。
ルルシルは鋭い視線を男たちへ向ける。
「あなた方……どうやって精霊の森へ入ったのですか?」
精霊の森はヴェリテ公爵家が代々管理する聖域。
許可なき者は結界に阻まれ、森の奥へ辿り着くことはできない。
男の一人が得意げに笑った。
「これを使ったのさ」
懐から一枚の紙を取り出す。
黄ばんだ紙には、見慣れない魔法陣がびっしりと描かれていた。
男はそれをひらひらと振ってみせる。
「闇市で買ったんだよ」
「これがありゃ、精霊の森の結界なんて怖くねぇ」
もう一人の男も笑う。
「高かったよなぁ」
「ああ。でも元はすぐ取れる」
男は檻の中の精霊たちを見渡した。
「こんなに捕まえられるなんて思わなかったぜ」
「一匹でも高く売れるって話なのによ」
精霊たちが怯えて身を寄せ合う。
『怖い……』
『ルルシル……』
その姿を見たルルシルの瞳から穏やかさが消えた。
「命ある存在を、お金でしか見られないのですか」
男は鼻で笑う。
「当たり前だろ」
そう言うと、狐の精霊を見せつけるように高く持ち上げた。
「ほら、暴れろ暴れろ」
「やめなさい!」
ルルシルが叫ぶ。
「暴れるほど面白――」
その言葉は最後まで続かなかった。
『……痛い』
狐の精霊の身体が小さく震える。
『苦しい……』
淡い光が、ゆっくりと黒く濁り始めた。
ルルシルは目を見開く。
「そんな……!」
黒い靄が狐の精霊を包み込み、周囲の空気が重く淀み始める。
『痛い!!』
『熱い!!』
『助けてぇぇ!!』
悲鳴が森中へ響き渡った。
男たちの表情が一変する。
「な、なんだ!?」
「お、おい! 離せ、離せぇ!!」
慌てて手を放そうとするが、黒い靄は男の腕へまとわりつき、禍々しく広がっていく。
ルルシルは咄嗟に一歩踏み出した。
「皆さん、下がってください!」
精霊たちへ向かって叫ぶ。
しかし、その声をかき消すように、夜の森へ獣の咆哮が轟いた。
狐の精霊の身体が黒い靄に包まれ、みるみるうちに膨れ上がっていく。
「ひっ……!」
男の一人が後ずさる。
握っていた手はすでに振りほどかれ、黒い靄が周囲へ溢れ出していた。
鋭い爪。
赤黒く染まった瞳。
禍々しい瘴気を纏った巨大な狐が、ゆっくりと立ち上がる。
『痛い!!』
『苦しい!!』
魔物となった今も、その悲痛な叫びだけはルルシルの耳へ届いていた。
「そんな……」
ルルシルは唇を噛み締める。
もう間に合わないのか。
そんな思いが胸をよぎる。
だが、その瞬間。
『……助けて…… ルルシル』
かすかな声が聞こえた。
ルルシルははっと顔を上げる。
「まだ意識が……!」
魔物化した精霊の中で、必死に抗っている。
ならば、助けられるかもしれない。
ルルシルはすぐに懐中時計を握り締め、魔力を集中させた。
淡い金色の光が時計から溢れ、夜の森を優しく照らす。
「必ず助けます!」
両手を前へかざすと、光が一本の大きな輪となって魔物へ向かって伸びていく。
柔らかな光が黒い靄へ触れた瞬間、森へ甲高い咆哮が響いた。
『アアアアアァァァ!!』
魔物が苦しそうにもがく。
黒い靄が少しずつ剥がれ落ちていく。
「効いてる!」
ルルシルはさらに魔力を込めた。
「もう少しです……頑張ってください!」
『痛い……!』
『熱い……!』
精霊の悲鳴が胸を締めつける。
その時だった。
魔物が大きく腕を振り上げる。
「危な――」
声を上げる間もなく、その腕がルルシルへ振り下ろされた。
「うぅっ――!」
鈍い衝撃とともに、ルルシルの身体が大きく吹き飛ばされた。
地面を転がり、木の幹へ激しく叩きつけられる。
「……っ!」
腹部に鋭い痛みが走る。
息が詰まり、その場で膝をついた。
『ルルシル!!』
『だめぇ!!』
小さな精霊たちが一斉に駆け寄ろうとする。
「来ては……いけません!」
ルルシルは痛みに耐えながら叫んだ。
魔物は苦しげな咆哮を上げ、黒い瘴気を辺りへ撒き散らす。
瘴気は周囲の小さな精霊たちへも伸びていった。
『いやぁ!!』
『助けて!!』
『痛いよぉ!!』
逃げ惑う精霊たちの悲鳴が森中へ響き渡る。
ルルシルは震える手で地面を支え、ゆっくりと立ち上がった。
腹部の痛みは激しく、呼吸をするだけでも苦しい。
それでも、懐中時計を握る手だけは離さない。
その時。
『ルルシル!!』
『助けて!!』
小さな精霊たちの声に混じって、魔物となった狐の精霊の叫びが聞こえた。
『痛い!!』
『熱い!!』
『苦しい!!』
『助けて!!』
その悲鳴は、先ほどよりもはっきりと聞こえる。
まだ意識は消えていない。
まだ、助けを求めている。
「必ず……助けます」
ルルシルは歯を食いしばった。
懐中時計から溢れる光が再び森を照らす。
今度は両手を大きく広げ、光を一本の巨大な弓へと変えていく。
黄金色の弓。
その弦には、浄化の力を宿した一本の光の矢がゆっくりと形を成していく。
ルルシルは静かに弓を引いた。
「どうか……届いて」
放たれた光の矢は一直線に魔物へ向かって飛んでいく。
その瞬間だった。
夜空を切り裂くような風が森を駆け抜ける。
『ブルルルルッ!!』
力強い嘶きが響いた。
白銀の巨馬が、風を纏いながらルルシルの前へ降り立つ。
「アルディオン……!」
風馬の高位精霊はルルシルを一瞥すると、すぐに魔物へ鋭い視線を向けた。
『無事か、ルルシル』
「私は大丈夫です」
ルルシルは息を整えながら答える。
「ですが、お兄様とお父様に伝えてください」
「魔物化した精霊がいます」
「急いで……!」
アルディオンは短く頷いた。
『承知した』
次の瞬間、風とともにその姿は夜の森から消え去った。
残されたルルシルは再び魔物へ向き直る。
「もう少しだけ……」
そう呟き、再び浄化魔法の光を放った。
黄金色の光が夜の森を照らす。
浄化の力は黒い瘴気を押し返し、魔物を少しずつ包み込んでいく。
『アアアアァァァッ!!』
魔物は苦しげに暴れ、巨大な爪を地面へ叩きつけた。
轟音とともに地面が揺れ、木々が大きく軋む。
それでもルルシルは魔法を止めなかった。
「もう少し……!」
光は確かに届いている。
黒く染まった身体の一部が、わずかに元の淡い光を取り戻し始めていた。
『ルルシル……』
『助けて……』
狐の精霊の声が聞こえる。
まだ届く。
まだ助けられる。
ルルシルはさらに魔力を注ぎ込んだ。
しかし、その瞬間。
魔物の身体から溢れた瘴気が周囲へ爆発するように広がった。
『きゃあっ!』
『助けて!』
『いやぁ!』
近くにいた小さな精霊たちが次々と瘴気に飲み込まれそうになる。
「いけない!」
ルルシルは咄嗟に浄化魔法の一部を精霊たちへ向けた。
淡い光の膜が精霊たちを包み込み、瘴気を弾き返す。
だが、その分だけ魔物への浄化が弱まった。
『ガアアアアァァ!!』
魔物が咆哮を上げる。
黒い瘴気が再び勢いを増していく。
ルルシルは息を呑んだ。
「……しまった」
助けを求める精霊たち。
目の前の魔物。
どちらも見捨てることなどできない。
腹部の痛みはさらに強くなり、足元がふらつく。
それでも、懐中時計を握る手だけは震えながらも離さなかった。
「お願い……もう少しだけ、耐えてください」
『ルルシル!!』
『熱いよ!!』
『苦しい!!』
狐の精霊の悲鳴が森中へ響く。
ルルシルは唇を噛み締め、両手を大きく広げた。
その時だった。
森の奥から、いくつもの足音が響いてきた。
その時だった。
森の奥から、いくつもの足音が響いてきた。
「ルルシル!」
聞き慣れた声だった。
木々の間からクレイスが駆け出してくる。
その後ろには、ヴェリテ公爵オルフェウスの姿もあった。
クレイスはルルシルの腹部へ滲む血を見つけ、表情を変える。
「ルルシル!」
駆け寄ろうとするクレイスを、オルフェウスが静かに制した。
「下がれ」
低く、よく通る声だった。
オルフェウスは一歩前へ出る。
魔物を真っ直ぐ見据え、右手をゆっくりと掲げた。
その手に集まるのは、黄金色の浄化の光。
光は一本の槍となり、夜の森を眩く照らした。
澄み切った神聖な魔力に、小さな精霊たちが歓声を上げる。
『オルフェウス!』
『助けて!』
オルフェウスは静かに目を閉じる。
「安らかに眠れ」
その一言とともに、浄化の槍が放たれた。
黄金の軌跡を描いた槍は、魔物の胸を正確に貫く。
『アアアアアァァァァッ!!』
凄まじい咆哮が森を震わせた。
黒い瘴気が四方へ吹き散り、夜空へ溶けるように消えていく。
魔物の身体を覆っていた黒が、ゆっくりと浄化されていった。
やがて巨大な身体は光に包まれ、一匹の狐の精霊の姿へ戻る。
しかし、その身体はもう半透明になり始めていた。
ルルシルは痛みも忘れ、精霊へ手を伸ばす。
「間に合って……!」
狐の精霊は優しく微笑んだ。
先ほどまでの苦しそうな表情は、もうない。
『ルルシル』
穏やかな声だった。
『ありがとう』
その言葉を最後に、狐の精霊は無数の光となって夜空へ舞い上がり、静かに消えていった。
「……っ」
ルルシルはその光を見送る。
助けたかった。
助けられると信じていた。
それでも、間に合わなかった。
張り詰めていた緊張の糸が切れる。
視界がぐらりと揺れた。
「ルルシル!」
クレイスが駆け寄り、その身体を抱きとめる。
ルルシルは兄の腕の中でゆっくりと瞼を閉じた。
意識は、そのまま静かな闇へと沈んでいった。




