第三十三話 すれ違う想い【前編】
放課後。
ホームルームを終えた生徒たちは、それぞれ部活動や帰宅の準備を始めていた。机の引き出しを勢いよく閉める音、椅子を引く金属音、談笑する声が教室のあちこちで重なり合い、夕方へ向かう校舎特有のざわめきを作り出している。
そんな中、廊下から慌ただしい足音が近付いてくる。
「失礼します!」
勢いよく教室の扉が開き、息を切らしたクレイスが姿を現した。肩で大きく呼吸をしながらも、その視線は鋭く教室内を走る。
教室中の視線が一斉に集まった。
クレイスは構うことなく、机の列の間を見回すように視線を動かす。
「殿下は?」
一人の男子生徒が苦笑しながら答えた。窓際から差し込む夕陽に目を細めつつ、肩をすくめる。
「さっきエミリーさんと一緒に出て行きましたよ」
「そうですか……」
クレイスは額へ手を当て、小さく息を吐いた。窓の外では風に揺れる木々が影を落とし、教室の床にゆらゆらと模様を描いている。
「また、逃げられたか……」
思わず漏れた独り言に、ルルシルが静かに席を立った。
「お兄様、何かございましたか?」
クレイスは困ったように笑い、窓の外へ一瞬視線をやった。
「狩猟大会の準備で、ここ最近は殿下のお仕事まで手が回らなかったんだ。そのせいで、書類が山積みになってしまった」
苦笑しながら肩を竦める。その仕草には疲労と焦りが滲んでいた。
「今日こそ捕まえて、一緒に片付けようと思っていたんだが……」
その言葉に、教室の何人かが同情するような表情を浮かべた。
「私は図書館へ行くだけですから」
ルルシルが静かに口を開く。窓から差し込む光が彼女の銀色の髪を淡く照らし、柔らかな輪郭を作っていた。
「殿下を探すのを、お手伝いしましょうか」
「いいのか?」
「ええ」
クレイスは少し安心したように微笑んだ。張り詰めていた表情がわずかに緩む。
「助かるよ、ルルシー」
二人は並んで教室を後にする。
扉が閉まると、教室の喧騒は遠のき、代わりに廊下の空気が静かに流れ込んできた。
放課後の校舎には、生徒たちの笑い声が響いていた。窓の外では夕陽が傾き、長い影が石畳の廊下に伸びている。
舞踏会の余韻はまだ残っているらしく、廊下ですれ違う生徒たちも楽しそうに話をしている。
「昨日は楽しかったね」
「来年も一緒に踊ろう」
そんな声が、開け放たれた窓から風に乗って流れ込んでくる。
その中を歩いていると、小鳥の精霊たちがどこからともなくふわりと舞い降りてきた。光を受けて羽がきらきらと瞬く。
『ルルシル!』
『ルルシルだ!』
肩や頭の周りを楽しそうに飛び回る。羽ばたくたびに、かすかな風が髪を揺らした。
ルルシルは小さく微笑み、指先で一羽の頭を優しく撫でた。精霊は嬉しそうに鳴き、彼女の指に頬を寄せる。
「相変わらず人気者だな」
クレイスが穏やかに笑う。廊下の窓から差し込む光が彼の横顔を柔らかく照らしていた。
「皆、とても可愛らしいですから」
ルルシルの表情も自然と和らぐ。先ほどまでの緊張が、少しだけほどけていく。
校舎を歩きながら、クレイスがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、昨日の舞踏会はどうだった?」
廊下の先で風が抜け、カーテンがふわりと揺れる。
「とても楽しかったです」
ルルシルは少しだけ間を置いてから答えた。その声は静かで、けれど確かに満ち足りていた。
「そうか」
その短い返事だけで、クレイスは十分だった。
妹が「楽しかった」と口にしたことが、何より嬉しい。彼はそれ以上何も聞かず、ただ小さく頷いた。
しばらく歩くと、渡り廊下の前で二人は足を止めた。外から吹き込む風が、髪と制服の裾を揺らす。
「私は訓練場の方を探してみる」
「では、私は薔薇園へ行ってみます」
クレイスは軽く顎を引いた。
「見つけたら呼んでくれ」
「はい」
互いに頷き合い、それぞれ別の方向へ歩き出した。
ルルシルは静かな薔薇園へ足を向ける。
校舎の喧騒が遠ざかるにつれ、空気は次第に柔らかくなり、風の音と葉の擦れる音だけが耳に届くようになる。
薔薇園に入ると、色とりどりの薔薇が咲き誇り、甘い香りが風に乗って漂っていた。夕陽を受けた花びらは、赤や桃色をより深く染め、まるで燃えるように輝いている。
ふと、話し声が聞こえてくる。
「……今朝は本当に大丈夫だったか?」
聞き覚えのある声だった。
ルルシルは足を止める。薔薇の葉が風に揺れ、かすかな影が地面を流れていく。
声のする方へ視線を向けると、薔薇園の奥に置かれた白いベンチが見えた。蔦に囲まれたその場所だけ、夕陽が柔らかく差し込んでいる。
そこには、カインとエミリーが並んで座っていた。
エミリーはそっとカインの手へ自分の手を重ね、その肩へ身を寄せている。風に揺れる髪が、彼の肩に触れそうなほど近い。
二人だけの穏やかな時間が、そこには流れていた。薔薇の香りと夕暮れの光が、その光景を静かに包み込んでいる。
ルルシルは思わず、その場で立ち止まった。
◇◇◇
「……今朝は本当に大丈夫だったか?」
カインが心配そうにエミリーを見つめる。
噴水の水面は橙色に染まり、風が吹くたびに細かな波紋がきらめく。遠くでは鳥の声がかすかに響き、静けさが一層際立っていた。
エミリーは少し俯き、小さく頷いた。
「……私は大丈夫です」
そう答えながらも、その表情にはどこか影が差している。
頬に落ちる光は柔らかいのに、瞳の奥だけが曇って見えた。
「だけど……」
躊躇うように言葉を止める。
指先が制服の布をそっと握りしめ、ほどけるように離れた。
「きっとルルシル様が、私に腹を立てているんだと思います」
カインの眉がぴくりと動いた。
「腹を立てている?」
「はい……。カイン様が私にドレスを贈ってくださったことや、クイーンに選ぼうとしてくださったことを……きっと快く思っていないんです」
エミリーは寂しそうに笑った。
その笑みは、夕陽に溶けるように儚かった。
「だから今朝も、皆さん……私のことを」
その先は言葉にならない。
代わりに、風が薔薇の枝を揺らし、花びらが一枚だけ静かに落ちた。
カインは拳を握り締めた。
「そんなことが……」
怒りを押し殺すような声だった。
エミリーは首を横へ振る。
「でも、きっとルルシル様だけじゃないんです」
「どういうことだ?」
「以前から、令嬢の皆さんには少し距離を置かれていて……」
俯いたまま続ける。
足元の影が揺れ、彼女の小さな肩をさらに細く見せていた。
「私、平民ですから。マナーのことを注意されることもありましたし……」
小さく笑おうとしたが、その笑みは途中で消えた。
代わりに、唇がわずかに震える。
「今日も、皆さんとお話ししたかっただけなのに……」
カインはエミリーの肩を優しく抱き寄せる。
その動きは、風から守るように静かで確かなものだった。
「もういい」
「殿下……」
「君は何も悪くない」
その言葉に、エミリーは静かにカインへ身を預けた。
遠くで噴水の水音が一定のリズムを刻み、二人の間の沈黙をやわらかく包んでいた。
ルルシルは薔薇の陰から、ただ静かにその様子を見つめていた。
花の香りが濃くなる中で、その視線だけが冷たく浮いている。
精霊たちも何かを感じ取ったのか、不安そうに羽ばたきを止めている。
しばらくの沈黙の後、エミリーが小さく口を開いた。
「でも……一つだけ、不思議だったんです」
「何がだ?」
「ゼイン様のことです」
カインが眉をひそめる。
「ゼイン?」
「舞踏会で、ゼイン様はルルシル様をクイーンに選ばれました」
エミリーはゆっくりと言葉を続けた。
夕陽が彼女の横顔を照らし、まつ毛の影が頬に落ちている。
「普通、他国の方がフィオレイン王国の王太子の婚約者へ、あんな風にダンスを申し込まれるでしょうか」
カインは黙り込む。
噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……確かに」
低く漏らした。
「私、おかしいと思うんです」
エミリーは真っ直ぐカインを見つめる。
その瞳には、揺れながらも確かな疑問が宿っていた。
「きっと、お二人は私たちみたいな関係なんです」
「……」
「もし、本当にルルシル様がカイン様を愛していらっしゃるなら、あの場でゼイン様と踊ったりはしないと思うんです」
カインの表情がみるみる険しくなっていく。
夕陽の色がその輪郭をさらに鋭く見せた。
「そういうことか……」
低い声が漏れた。
「自分も同じことをしているくせに、エミリーを傷つけていたのか」
怒りを抑え切れないように拳を握る。
そして、エミリーの両手を優しく包み込んだ。
その手は少し冷えていて、夕暮れの空気をそのまま閉じ込めたようだった。
「エミリー」
「はい……」
「もう少しだけ待っていてくれ」
真剣な眼差しだった。
沈みゆく光の中で、その瞳だけがはっきりと彼女を捉えている。
「父上と母上に話をする」
「カイン様……?」
「ルルシルとの婚約は終わらせる」
エミリーは息を呑む。
風が一瞬止まり、庭園全体が静止したように感じられた。
「そして、その時は……」
カインは静かに微笑んだ。
その微笑みは、夕陽の最後の光のように穏やかで、決意に満ちていた。
「改めて、君へ婚約を申し込ませてほしい」
エミリーの瞳に涙が浮かぶ。
光を受けて、それは小さな宝石のように揺れた。
「……はい」
嬉しそうに微笑み、カインへ抱きついた。
その瞬間、庭園の風がふわりと二人を包み込む。
「お待ちしています、カイン様」
◇◇◇
カインはそっとエミリーの頬へ手を添えた。
エミリーの頬はほんのりと熱を帯び、触れられた瞬間、肩が小さく震える。けれどそれは拒絶ではなく、むしろ安心に似た反応だった。
彼女はゆっくりと目を閉じる。長い睫毛が頬に影を落とし、風に揺れる薔薇の香りがふわりと二人の間を満たした。
二人の距離がゆっくりと縮まる。
花弁が一枚、風に乗って舞い落ちるのと同時に、静かに唇が重なった。
柔らかく、確かめるような、短い接触。
それでもエミリーの胸には、確かな温もりが残った。
薔薇園は静まり返る。
さっきまで囁いていた風も、葉擦れの音も、すべてが遠のいたようだった。
ただ、満開の薔薇だけが、何も知らぬまま鮮やかに咲き誇っている。
その光景を、ルルシルはただ見つめていた。
視線は動かない。瞬きすら忘れたように、二人の姿を映している。
その時だった。
『ルルシル……』
『ルルシル!』
周囲を漂っていた精霊たちが一斉にざわめき始める。
空気が揺れるように、小さな光の粒が不安げに瞬いた。
小鳥の精霊は枝から枝へと落ち着きなく飛び移り、花の妖精たちは花弁の影に隠れては顔を出す。
風の精霊が薔薇園を駆け抜けた瞬間、空気が一変した。
ざあっ、と強い風が吹き抜ける。
薔薇の枝が大きくしなり、色鮮やかな花びらが一斉に宙へ舞い上がった。
赤、白、桃色の花弁が渦を巻き、空へと吸い込まれていく。
その上空では、いつの間にか厚い雲が広がっていた。
夕陽の光は遮られ、薔薇園の色彩がわずかに翳る。
ぽつり。
頬に冷たい雫が落ちる。
続いて、もう一滴。
石畳に小さな水の輪が広がり、薔薇の葉を濡らしていく。
やがて雨は静かに降り始めた。
最初は細く、やがて確かな音を伴って。
葉を打つ音が、静寂の中に規則正しく響き始める。
「雨……?」
エミリーが空を見上げる。
睫毛に雨粒が触れ、きらりと光った。
カインも空を仰ぎ、わずかに顔をしかめる。
「行こう」
「はい」
二人は立ち上がり、濡れ始めた薔薇の小道へと足を向ける。
花弁が足元に貼りつき、靴音が柔らかく沈んだ。
その時だった。
「……ルルシル」
カインが足を止めた。
雨音の中で、その声だけがはっきりと届く。
薔薇の小道の先。
雨に濡れながら立ち尽くすルルシルの姿が目に入る。
銀色の髪は水を含んで重く垂れ、睫毛にも雫が溜まっていた。
それでも彼女は微動だにしない。
「お前……」
一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を戻した。
雨粒が彼の肩を叩き、視線を遮るように流れ落ちる。
「行こう、エミリー」
そう言って、エミリーの手を引く。
エミリーも一度だけルルシルを見つめた。
雨に打たれるその姿は、まるで世界から切り離されたように静かだった。
一瞬、胸の奥に小さな痛みが走る。
けれどそれは、すぐに温かな確信に溶けていく。
(カイン様が……私を選んでくださった)
(婚約を申し込んでくださるって……)
雨音の中で、その言葉だけが鮮明に響く。
胸がいっぱいになる。
思わず繋いだ手に力が入った。
その力に気付いたカインが、ほんの少しだけ握り返す。
その温もりに、エミリーは嬉しそうに微笑んだ。
「参りましょう、カイン様」
「ああ」
二人は寄り添うように、雨の中を歩いていく。
薔薇のアーチを抜けるたび、花弁が雨に濡れて重く垂れた。
やがて、その背中は雨の帳の向こうへと溶けていった。
薔薇園に残されたのは、ルルシルだけだった。
雨は強さを増し、石畳を叩く音が一定のリズムを刻む。
精霊たちは落ち着かない様子で彼女の周りを飛び回る。
『ルルシル……』
『どうしたの……』
小さな声が雨音に混じって消えていく。
返事はない。
ルルシルは、ただ立ち尽くしていた。
王太子の婚約者として。
ヴェリテ公爵令嬢として。
いつだって、自分にできる最善を考えてきた。
何を選べばいいのか。
どう行動すれば誰もが納得するのか。
その答えを探し続け、それに従って歩いてきた。
――けれど。
今は何も思い浮かばない。
考えても。
考えても。
答えが見つからない。
雨音だけが、頭の中を満たしていく。
思考の隙間に入り込むように、冷たい水の感触だけが現実を繋ぎ止めていた。
頭の中は、ただ静かに止まっていた。
雨は降り続ける。
制服も、銀色の髪も、静かに濡れていく。
布が肌に張り付き、体温が少しずつ奪われていく感覚だけが残る。
それでも、足は動かなかった。
「……帰らないと」
ぽつりと呟く。
声は雨に溶け、すぐに消える。
その言葉とは裏腹に、身体はその場から一歩も動けずにいた。




