第三十二話 舞踏会の余韻
舞踏会の翌朝。
フィオレイン王立魔法学園は、昨夜の華やかな空気をそのまま残したような、どこか浮き足立った朝を迎えていた。
朝の光は高い窓から差し込み、磨かれた廊下の大理石を淡く照らしている。昨夜の賑わいが嘘のように静かなはずの校舎は、しかしどこか熱を帯びていた。すれ違うたびに、ふわりと香水の残り香や、整えられた髪の名残が漂う。
廊下を歩けば、あちらこちらから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「昨日はありがとう」
「こちらこそ。また来年も一緒に踊ろうね」
婚約者同士が照れくさそうに笑い合う。
窓際に立つ二人の影が、朝の光に重なって揺れる。指先が一瞬だけ触れ、すぐに離れる仕草さえも、どこか昨日の続きのようだった。
恋人同士は肩を並べ、昨夜の思い出を嬉しそうに語り合っていた。
「ダンス、緊張したけど楽しかったな」
「手を離すのがもったいないくらいだったわ」
そんな会話に、周囲からは冷やかすような笑い声が上がる。けれどその声も、どこか柔らかく、祝福のように響いていた。
友人同士もまた、舞踏会での出来事を思い返しては楽しそうに盛り上がっていた。
「優勝者のダンス、すごかったよな」
「ルルシル様、本当に綺麗でしたわ」
「ゼイン様の礼装も素敵だったわ」
「メリンダ先輩、男装なのに女子に囲まれて大変そうだったよね」
学園中が、昨日の余韻に包まれている。
舞踏会という一夜は、生徒たちの距離を少しだけ近づけていた。
そんな賑わいの中を、ルルシルは静かに歩いていた。
窓から差し込む光が彼女の髪に触れ、淡く揺れる。足音は控えめで、周囲の喧騒の中に溶けていくようだった。
昨日までなら、自分の名前が聞こえるたびに居心地の悪さを覚えていたかもしれない。
けれど今は、不思議と胸は穏やかだった。
「ルルシル!」
聞き慣れた声に振り返る。
イザベルが軽やかな足取りで近付いてきた。スカートの裾がふわりと揺れ、朝の光を受けて淡く輝く。
「おはよう、イザベル」
「おはようございます、ルルシル。まあ……今日はどこへ行っても舞踏会のお話ばかりですわね」
イザベルは周囲を見渡しながら、楽しそうに目を細めた。窓の外では、庭の木々が朝露をまとい、きらきらと光っている。
「そうね」
二人は並んで歩き出す。
目の前では、昨日ダンスを踊った婚約者同士が顔を見合わせ、照れたように笑っていた。廊下の端では、誰かが落としたリボンが風に揺れ、ゆっくりと床を滑っていく。
その少し先では恋人同士が楽しそうに並んで歩いている。
窓から差し込む光が二人の影を長く伸ばし、寄り添うように重なっていた。
「昨日の舞踏会で、皆さま少し距離が縮まったようですわね」
イザベルが微笑む。
「舞踏会って、不思議なものですわ。一晩で、こんなにも人の表情が変わるなんて」
ルルシルは楽しそうに笑い合う生徒たちを見つめ、小さく頷いた。
廊下の向こうでは、誰かの笑い声が反響し、天井へと吸い込まれていく。
「……本当ね」
自然と口元が緩む。
その穏やかな笑顔を見たイザベルも、嬉しそうに目を細めた。
「そのお顔が見られただけで、わたくしは十分ですわ」
その時、廊下の少し先から男子生徒たちの笑い声が響いた。
窓の外の光が揺れ、廊下の影が一瞬だけ動く。
「ゼイン、昨日は何曲踊ったんだ?」
「令嬢たちに囲まれて大変だったじゃないか」
男子生徒たちに囲まれたアルクスレイブンが、小さく肩をすくめる。
朝の光を背に受けたその姿は、どこか舞台の一幕のようにも見えた。
「数えていない」
短い返事に、男子生徒たちは一斉に笑い出した。
一方で、その様子を見つめる女子生徒たちは頬を染めながら小声で囁き合っている。
窓辺の光が彼女たちの髪を透かし、淡い金色に染めていた。
「ゼイン様、本当に素敵でしたわ」
「またお話ししてみたいですわね」
「すっかり学園にも馴染まれましたわね」
イザベルがくすりと笑う。
「ええ」
ルルシルも静かに頷いた。
やがて二人は教室の前で立ち止まる。
扉の向こうからは、すでに生徒たちの気配が微かに漏れている。
「それでは、また昼休みに」
「ええ。またあとで」
イザベルはそのまま歩いていき、ルルシルは静かに教室の扉を開けた。
◇◇◇
教室の中も、舞踏会の話題で賑わっていた。
「昨日のお料理、美味しかったよね」
「私、緊張しすぎて最初の一歩を間違えそうになったわ」
「婚約者に『綺麗だった』って言われてしまって……」
あちらこちらで笑い声が上がる。
ルルシルが教室へ入ると、その声の一つがふと止んだ。
「ルルシル様」
一人の令嬢が遠慮がちに声を掛ける。
「昨日のダンス、とても素敵でした」
「ありがとうございます」
「ドレスも本当によくお似合いでしたわ」
「優勝者に相応しいお姿でした」
次々と女子生徒が集まり、小さな輪ができていく。
ルルシルは一人ひとりへ丁寧に礼を述べながら、穏やかに微笑んだ。
その時だった。
「おはようございます!」
明るい声が教室に響く。
エミリーだった。
ルルシルは振り返り、いつもと変わらない穏やかな笑みを向ける。
「おはよう、エミリーさん」
その一言に、エミリーはほっとしたように笑顔になる。
「皆さん、昨日は本当に楽しかったですね!」
輪へ加わろうと一歩踏み出す。
しかし、その場の空気がわずかに変わった。
女子生徒たちは一瞬だけ顔を見合わせる。
誰もエミリーへ話を返さない。
静かな沈黙が流れた。
やがて一人の令嬢がルルシルへ微笑みかける。
「ルルシル様。ホームルームまでまだ少しございますし、窓際でお話の続きをいたしませんか?」
「ええ」
ルルシルは自然に頷いた。
以前なら、ここで無意識にエミリーへも声を掛けていただろう。
けれど今は違う。
本人にその自覚はない。
ただ、目の前の会話の続きをしようと思っただけだった。
「参りましょう」
令嬢たちに促され、ルルシルはそのまま歩き出す。
エミリーへもう一度視線を向けることもなく。
女子生徒たちも当然のように後へ続いた。
取り残されたエミリーは、小さく目を見開く。
「……え?」
無視されたわけではない。
挨拶も返してもらえた。
冷たくされたわけでもない。
それなのに、自分だけが輪の外にいる。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「どうして……」
思わず漏れた小さな声。
その時だった。
「エミリー!」
教室へ入ってきたカインが駆け寄る。
「どうした?」
エミリーは目に涙を浮かべ、カインの制服の袖をそっと掴んだ。
「わ、私は……皆さんとお話しようとしただけなのに……」
その言葉だけで、カインの表情が険しくなる。
「また君を仲間外れにしたのか!」
教室中へ響くほどの大きな声だった。
しかし、誰一人としてその言葉に同調しない。
先ほどまで賑やかだった教室は、水を打ったように静まり返る。
「……また決めつけてる」
「話も聞かずに怒るなんて」
「王太子殿下、昔と変わってしまわれたわね」
呆れたような囁きが、あちこちから漏れる。
カインはそんな声など耳に入らない。
真っ直ぐルルシルを睨みつける。
すると、一人の令嬢が静かに前へ出た。
「王太子殿下」
凛とした声が教室に響く。
「ルルシル様は何もなさっておりません」
続けて別の令嬢も口を開く。
「エミリーさんが後から来られただけですわ」
「わたくしたちはルルシル様とお話ししたかっただけです」
「どなたも意地悪などしておりません」
感情的な口調ではない。
ただ、事実だけを静かに告げる。
その言葉に、教室の空気は一層張り詰めた。
ちょうどその時、教室の扉が開いた。
「何の騒ぎですか?」
担任のノア・リンデルが、教室へ姿を現した。
◇◇◇
もちろん。その意図なら、教師だけが「ヴェリテ嬢」「殿下」「エミリーさん」と呼び、令嬢たちは普段どおり「ルルシル様」と呼ぶようにした方が自然だね。
ノアは教室をゆっくりと見回した。
ルルシルを囲む令嬢たち。
その向かいで険しい表情を浮かべるカイン。
涙ぐむエミリー。
一目見ただけで、ただならぬ空気であることを察したようだった。
「説明してください」
穏やかな声だったが、教室は静まり返る。
ノアはカインへ視線を向ける。
「殿下、何があったのですか?」
「ルルシルたちがエミリーを仲間外れにした」
迷いなく言い切るカインに、教室のあちこちから小さくため息が漏れた。
ノアは令嬢たちへ視線を移す。
「そうなのですか?」
一人の令嬢が静かに一歩前へ出る。
「いいえ。そのような事実はございません」
「わたくしたちはルルシル様と舞踏会のお話をしていただけです」
別の令嬢も続ける。
「そこへエミリーさんが来られましたが、わたくしたちは場所を変えてお話の続きをしただけです」
「ルルシル様も、きちんとエミリーさんへご挨拶を返しておられました」
ノアは静かにルルシルを見る。
「ヴェリテ嬢、それで間違いありませんか?」
「……はい」
ルルシルは小さく頷いた。
「皆さんとお話を続けていただけです」
短い返答だった。
ノアは今度はエミリーへ視線を向ける。
「エミリーさん」
「……はい」
「ヴェリテ嬢から嫌なことを言われましたか?」
「……いいえ」
「何かされましたか?」
「されて、いません」
教室はしんと静まり返る。
ノアは静かに頷いた。
「分かりました」
「今回の件は、誰かが意地悪をしたわけではありません」
カインが納得できない様子で口を開く。
「だが、エミリーは傷ついている!」
「それは事実でしょう」
ノアは落ち着いた声で続ける。
「ですが、それだけで誰かを責めることはできません」
「誰と話すか、誰と時間を過ごすかは、それぞれの自由です」
「それを強制する権利は、誰にもありません」
カインは言葉を失った。
反論しようとしても、何も出てこない。
その時、始業を告げる鐘が校舎中へ鳴り響いた。
ノアは教壇へ向き直る。
「この話は終わりです」
「皆さん、席についてください。ホームルームを始めます」
生徒たちは静かに席へ戻っていく。
教室には先ほどまでの賑わいはなく、重たい静けさだけが残っていた。




