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Lumiel Princess〜精霊姫と暁炎の王子〜  作者: 香百杏
第一章 花起こし

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第三話 放課後の静かな時間

 


 柔らかな日差しが差し込む教室には、一日の授業を終えた生徒たちの声が響いていた。


 魔法学、精霊学、一般教養。


 高等部一年として始まった学園生活は、まだ慣れないことも多い。


 それでもルルシルにとって、学園という場所は新鮮だった。


 精霊の森でも、公爵家でもない。


 同じ年頃の生徒たちが集まり、それぞれの目標へ向かって学ぶ場所。


 ルルシルは静かに教科書を鞄へしまう。


 今日の授業内容を思い返しながら、帰る準備を整えていた。


 その時。


 教室の扉が開いた。


「ルルシル」


 聞き慣れた声。


 振り返ると、そこには兄、クレイスの姿があった。


 その姿を見た瞬間、教室内の空気が少し変わった。


「ヴェリテ様……」


「三年生のクレイス様よね?」


「やっぱり素敵……」


 小さなざわめきが広がる。


 高等部三年。


 生徒会書記を務め、教師や生徒からも信頼されている存在。


 同じ公爵家の令嬢であるルルシルとはまた違った意味で、注目される人物だった。


 しかし、クレイス本人は周囲の視線を気にする様子もなく、まっすぐ妹の元へ歩いてくる。


「お疲れ様、ルルシル」


「お兄様もお疲れ様です」


 穏やかな兄妹の会話。


 その様子を見ていた生徒たちは、少し驚いたように目を瞬かせる。


 普段、近寄りがたい雰囲気を持つヴェリテ公爵令嬢が、兄の前では柔らかな表情を見せるからだ。


 クレイスは少し迷うように口を開いた。


「すまないが、今日は少し生徒会の仕事が残っている」


「そうなのですね」


「先に帰らせるのも心配だから……」


 そこで一度言葉を止める。


「図書室で待っていてくれるか?終わったら迎えに行く」


 ルルシルは微笑んだ。


「分かりました。お待ちしています」


 クレイスは安心したように頷く。


「ありがとう、ルルシル」


 そう言って、教室を後にした。


 その背中を見送りながら、ルルシルは静かに鞄を持つ。


 兄はいつも忙しい。


 公爵家の仕事。


 生徒会の仕事。


 そして、王家を支える役目。


 それでも必ず、自分を気に掛けてくれる。


 ルルシルにとって、それは何より大切な時間だった。


 ◇◇◇


 図書室は、放課後になると静かな空気に包まれる。


 大きな窓から差し込む夕日の光が、並べられた本棚を淡く照らしていた。


 ルルシルは窓際の席に座り、魔法に関する書物を開く。


 周囲には数人の生徒がいる。


 しかし、誰も彼女に話しかけようとはしない。


 公爵令嬢。


 精霊姫と呼ばれる少女。


 美しく、優秀で、どこか近寄りがたい存在。


 そんな印象が広まっているからだ。


 ルルシルは気にする様子もなく、本へ視線を落とす。


 その銀色の髪の奥。


 小さな光が一瞬だけ揺れた。


『ルルシル』


 精霊の声。


 けれど、周囲には聞こえない。


 学園では精霊たちは人の目を避けるように隠れている。


 ルルシルの髪に身を隠し、そっと彼女を見守っていた。


 彼女は小さく微笑む。


 誰にも気づかれないほど、ほんの少しだけ。


 その時。


 図書室の扉が開いた。


 静かな空間に、聞き慣れた声が響く。


「ルルシル?」


 ルルシルは顔を上げた。

 声の主を見て、ルルシルは静かに立ち上がった。


「殿下」


 そこにいたのは、カインとエミリーだった。


「こんにちは、ルルシル様」


 エミリーが柔らかな笑顔を浮かべる。


 ルルシルもいつものように微笑んだ。


「こんにちは、エミリーさん」


 カインは図書室を見渡し、不思議そうに眉を寄せる。


「まだ残っていたのか」


「兄を待っています」


「クレイスか」


 カインは納得したように呟いた。


 幼い頃から知る相手。


 ヴェリテ公爵家の嫡男。


 そして、将来自分を支える立場でもある人物。


 エミリーはカインの腕にそっと触れる。


「カイン様、少し休憩していきませんか?」


「ああ」


 その自然なやり取りに、周囲の生徒たちが小さくざわめく。


 最近、学園内でも二人が一緒にいる姿は珍しくなくなっていた。


 けれど。


 その光景を見て、気まずそうに視線を逸らす者もいる。


 カインとエミリーは、近くの席へと腰を下ろした。


「今日の授業はどうだった?」


 カインがエミリーへ尋ねる。


「魔法実技が少し難しかったです。でも先生が丁寧に教えてくださったので、なんとかできました」


「そうか。エミリーは魔力が多いから優秀だな」


「カイン様にそう言っていただけると嬉しいです」


 二人は楽しそうに会話を続ける。


 その様子は、とても自然だった。


 エミリーはカインを慕っている。


 カインもまた、エミリーといる時だけは穏やかな表情を見せる。


 だが、図書室には本を読む生徒もいれば、静かに勉強している者もいる。


 ルルシルは本を閉じることもなく、静かに文字を追っていたが、どうしても二人の声が耳に入ってくる。


 やがて、ルルシルはそっと顔を上げた。


「殿下、エミリーさん」


 穏やかな声だったが、はっきりとした注意の色があった。


「ここは図書室です。静かにお願いします」


 その言葉に、エミリーははっとして姿勢を正す。


「あ……申し訳ありません。気をつけます」


 声を落とし、今度は控えめな調子で話し始めた。


 だが、カインは肩をすくめるだけだった。


「別に、少しくらい構わないだろう」


「カイン様……」


 エミリーが小さくたしなめるように呼ぶ。


 ルルシルは静かにカインを見た。


「構わないかどうかは、殿下が決めることではありません」


「そんなに大げさなことか?」


「図書室では、です」


 淡々とした返答だった。


 カインは一瞬だけ目を細めたが、すぐに開き直ったように口元を歪める。


「まあいい。俺たちが少し話したところで、誰にも迷惑はかからない」


 その言い方に、ルルシルは何も言わなかった。


 エミリーは気まずそうに視線を落とし、さらに声を抑えて話す。


「カイン様、少しだけ静かにしましょう。ルルシル様のおっしゃる通りですから」


「……分かったよ」


 カインはそう言いながらも、納得している様子ではなかった。


 ルルシルは再び本へ視線を戻す。


 婚約者である自分の前で。


 恋人同士のように振る舞う二人。


 それは、今に始まったことではない。


 だからこそ、ルルシルは何も言わなかった。


 自分の役目は理解している。


 ヴェリテ公爵令嬢として。


 王太子の婚約者として。


 感情よりも、果たすべき責任を優先する。


 それが、幼い頃から教えられてきたことだった。


 しばらくして。


 図書室の扉が再び開いた。


「ルルシル」


 その声に、ルルシルは顔を上げる。


 クレイスだった。


「お待たせ」


「お兄様」


 ルルシルが立ち上がる。


 しかし、クレイスの視線はすぐに別の場所へ向いた。


 カイン。


 そしてエミリー。


 一瞬。


 クレイスの表情が変わった。


 怒り。


 というより、呆れに近いものだった。


「……殿下」


 低い声。


 カインが振り向く。


「なんだ、クレイス」


「少し、お話があります」


「今か?」


「はい」


 クレイスはいつもの穏やかな表情を崩していなかった。


 けれど、長い付き合いのカインには分かる。


 怒っている。


「殿下はご自身の立場を理解されていますか」


 カインの眉が動く。


「急に何だ」


「王太子として、公爵家との婚約を結んでいる者としてです」


 図書室の空気が少し張り詰める。


「エミリー嬢との関係を否定しているわけではありません」


 クレイスは続ける。


「ですが、殿下には果たすべき責任があります」


 カインは不機嫌そうに目を細めた。


「……説教か?」


「必要だから申し上げています」


「俺のことを何も知らないくせに」


 カインの声が少し強くなる。


「俺が何を考えているか、お前に分かるのか?」


 クレイスは真っ直ぐカインを見る。


「ですが、殿下が王太子である以上、個人の感情だけでは動けないことは理解していただきたい」


 カインは黙った。


 しかし、その表情は納得していない。


「……もういい」


「殿下」


「俺は俺の人生を選ぶ」


 そう言い残し、カインは図書室を出ていく。


「カイン様!」


 エミリーは慌てて後を追った。


 静かな図書室に、再び沈黙が戻った。


 ◇◇◇


 夕暮れの光が差し込む中、ルルシルは閉じた本を手に持ったまま立っていた。


 クレイスはしばらく扉の方を見つめていた。


 幼い頃から知るカイン。


 昔はもっと素直で、王族としての責任から逃げるような人物ではなかった。


 しかし、最近の彼は変わってしまった。


「……すまない、ルルシル」


 突然の言葉に、ルルシルは目を瞬かせる。


「なぜ、お兄様が謝るのですか?」


「……」


 クレイスは少し言葉を選ぶように黙った。


 低く呟く。


「昔から知っているからこそ、もう少し分かってくださると思ったのだが」


 カインは王子だ。


 生まれながらに多くのものを背負う立場。


 自由に生きたいという気持ちがあることも、クレイスには理解できる。


 だが。


 王太子という立場は、ただ好きなものを選ぶだけでは務まらない。


 国と国を繋ぐ婚約。


 貴族たちとの関係。


 そして、何より相手であるルルシルの存在。


「お兄様」


 ルルシルの声に、クレイスは顔を上げた。


「お気になさらないでください」


 いつもの穏やかな微笑み。


 けれど。


 クレイスには分かっていた。


 ルルシルは、いつもそう言う。


 自分が傷ついていても。


 苦しくても。


 誰かを困らせないために。


「……ルシー」


 クレイスがルルシルを甘やかす時に呼ぶ愛称だ。


 ルルシルの瞳がわずかに揺れる。


「無理をするな」


 兄としての声だった。


 公爵家嫡男としてではない。


 ただ、妹を心配する兄の声。


「私は……」


 ルルシルは言葉を止める。


 そして、静かに微笑んだ。


「ご心配には及びません、お兄様」


 クレイスは小さく息を吐いた。


 きっと、今すぐには変わらない。


 それでも。


 せめて自分だけは、妹が無理をしていることを忘れないようにしようと思った。


 ◇◇◇


 学園を出る頃には、空は茜色に染まっていた。


 馬車へ向かう二人の間に、しばらく会話はなかった。


 けれど、その沈黙は気まずいものではない。


 幼い頃から共に過ごした兄妹だからこそ許される静かな時間だった。


 馬車へ乗り込むと、ゆっくりと車輪が動き出す。


 窓の外には、夕暮れの学園が遠ざかっていく。


「……ルルシル」


「はい」


「もし何か困ったことがあれば、必ず私に言うんだ」


 ルルシルは少し驚いたように兄を見る。


「お兄様はお忙しいのに」


「忙しいからと言って、妹を気に掛けない理由にはならない」


 迷いのない言葉だった。


 ルルシルはしばらく黙った後、小さく微笑む。


「ありがとうございます」


 夕暮れの道を、馬車は静かに進んでいく。


 ヴェリテ公爵家へ向かって。

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