第二十六話 狩猟大会の始まり【前編】
雲ひとつない青空が、ヴェリテ公爵家の屋敷を優しく照らしていた。
窓の外では色づき始めた木々が秋風に揺れ、庭園に咲く花々の香りが穏やかに部屋へと流れ込んでくる。
年に一度の秋の狩猟大会。
高等部最大の行事を迎えた朝は、公爵家の屋敷もいつも以上に慌ただしかった。
ルルシルの部屋では、サラが最後の身支度を整えている。
「お嬢様、こちらを向いてくださいませ」
「はい」
ルルシルが静かに振り返ると、サラは襟元の小さなリボンを優しく整えた。
今日のルルシルが身に纏うのは、お茶会のために仕立てられた青朽葉色のクラシカルドレス。
落ち着いた青緑色の生地は、秋の木々を思わせる柔らかな色合いで、光を受けるたびに上品な艶を宿している。
首元まで美しく詰められたデザインは気品にあふれ、肩だけをふんわりと包む控えめなパフスリーブが優しい印象を添えていた。
袖は手首まで伸びる細身の長袖。
胸元には装飾を抑えた細いリボンが結ばれ、派手さはないものの、その慎ましさがルルシルらしい美しさを際立たせている。
裾へ視線を落とせば、深緑の糸で丁寧に刺繍された植物模様が広がっていた。
風に揺れる蔦や若葉を思わせる刺繍は、一針一針が繊細で、見る者の目を奪う。
銀色の長い髪は緩やかに波打ちながら背中へ流れ、その上には同じ青朽葉色のボンネットが添えられている。
華美ではない。
だが、その装いはまるで秋そのものを纏ったような、落ち着いた美しさに満ちていた。
その時――ふわり、と空気が揺れた。
窓辺の光の中に、小さな光の粒がいくつも現れる。
淡く輝くそれらは、やがて形を持ち、小さな精霊たちの姿となった。
『わあ……ルルシル、きれい……!』
『ほんとだ、すごくきれい!』
『お花みたい……秋のお姫さま!』
楽しげな声が、鈴の音のように部屋に響く。
ルルシルは驚いたように瞬きをしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう」
精霊たちはくるくると彼女の周りを飛び回り、ドレスの裾や髪に触れるように舞う。
『かわいい……!』
『いつもかわいいけど、今日はもっとかわいい!』
『ずっと見ていたい……!』
無邪気な賛辞に、ルルシルは少しだけ頬を染めた。
「……そんなに褒められると、少し恥ずかしいです」
その言葉に、精霊たちはくすくすと笑う。
『でもほんとだよ!』
『ルルシル、大好き!』
サラはその光景を静かに見守りながら、優しく微笑んだ。
「……本当によくお似合いです、お嬢様」
「この日のためにお選びした甲斐がございました」
ルルシルは鏡へ映る自分の姿を静かに見つめる。
普段よりも華やかな装い。
それでも、不思議と落ち着いた気持ちでいられるのは、この衣装に家族やサラの想いが込められていることを知っているからだった。
「ありがとうございます、サラ」
小さく微笑むルルシルに、サラも嬉しそうに頷く。
「さあ、お坊ちゃまがお待ちですよ」
ルルシルは静かに立ち上がる。
すると精霊たちが、名残惜しそうに彼女の周りを漂った。
『もう行っちゃうの?』
『さみしい……』
『でも、がんばってね!』
ルルシルは優しく手を差し出す。
精霊たちはその指先に触れるように集まり、ふわりと光を強めた。
「……行ってきます」
『いってらっしゃい!』
『ルルシル、いちばんきれいだよ!』
『またあとでね!』
小さな声に見送られながら、ルルシルは部屋を後にした。
その頃、別室ではクレイスも狩猟大会の準備を終えようとしていた。
焦茶色を基調とした狩猟服は、昨年使用したものを仕立て直した一着。
身体に合わせて細部まで調整され、肩や袖には動きやすさを損なわないよう工夫が施されている。
胸元にはオリーブグリーンを差し色にした細いリボン。
革製のベルトや手袋、乗馬用の黒いブーツが全体を引き締め、貴族らしい品格と狩人としての機能性を兼ね備えていた。
「昨年より、さらによくお似合いでございます」
執事が微笑む。
「ありがとう」
クレイスは短く礼を述べると、ふと扉へ視線を向けた。
「ルルシルの準備は終わったか」
「先ほど整ったと伺っております」
「そうか」
それだけ言って部屋を後にする。
玄関ホールへ降りると、ちょうどルルシルも階段を下りてきた。
クレイスはその姿を見上げ、一瞬だけ言葉を失う。
秋の陽光を受けた青朽葉色のドレス。
銀髪と薄紫の瞳がその色をより美しく引き立て、まるで一枚の絵画のようだった。
「……よく似合っている」
飾らない兄の一言だった。
ルルシルは少し照れたように微笑む。
「ありがとうございます、お兄様」
「その衣装なら、お茶会でも目を引くだろう」
「少し恥ずかしいです」
兄妹が微笑み合う姿を見ていたサラは、どこか嬉しそうに目を細めた。
玄関ではオルフェウスが二人を待っていた。
「おお、二人ともよく似合っている」
オルフェウスが満足そうに頷く。
「ありがとうございます、お父様」
ルルシルは丁寧に一礼する。
オルフェウスは穏やかに笑った。
「クレイス、今日は生徒会の仕事もあるのだろう?」
「はい。ですが、ルルシルのことは私がしっかり見ています」
「頼もしいな」
オルフェウスは満足げに頷く。
「二人とも、狩猟大会を楽しんできなさい」
「行ってまいります」
兄妹は声を揃えて一礼し、待たせていた馬車へ乗り込む。
馬車がゆっくりと屋敷を離れると、窓の外には色づいた街並みが流れ始めた。
その窓の外、ふわりと光が舞った。
風に乗った鳥の精霊が、馬車の側を軽やかに並走する。
透き通るような羽は淡く輝き、秋の陽光を受けてきらめいていた。
その小さな姿は、まるでルルシルを見送るかのように、しばらくの間寄り添うように飛び続ける。
やがて風に溶けるように空へと舞い上がり、静かに姿を消した。
小さな声は馬車の中までは届かない。
けれど、ルルシルはふと窓の外へ視線を向け、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「お兄様は今日もお忙しいですね」
ルルシルが静かに尋ねる。
「ああ。開会式から閉会まで、生徒会はほとんど休めない」
クレイスは苦笑する。
「だが、学園行事を支えるのも生徒会の務めだ」
そう言ってルルシルへ優しい眼差しを向けた。
「ルルシルは、お茶会を楽しむといい」
「……はい」
その短い返事には、兄への信頼が込められていた。
やがて馬車はフィオレイン王立魔法学園の正門へ到着する。
校内はすでに多くの生徒たちで賑わい、華やかなドレスや凛々しい狩猟服が秋空の下を彩っていた。
「それでは、私は生徒会へ向かう」
「はい、お兄様」
兄妹は互いに微笑み、それぞれの控え室へ歩き出す。
◇◇◇
女子控え室の廊下から、ひときわ大きな黄色い歓声が響き渡った。
「メリンダ様!」
「今日も素敵ですわ!」
ルルシルは思わず足を止め、その声のする方へ静かに視線を向けた。
歓声の中心にいたのは、一人の生徒だった。
鮮やかなサファイアブルーの狩猟服を凛々しく着こなし、金色のショートヘアを秋風になびかせている。
白いシャツに仕立ての良いベストを重ね、銀色の装飾が施された肩当てと革製のベルトが、その姿を若き騎士のように引き締めていた。
細身の乗馬用パンツを黒いロングブーツへ収め、腰には儀礼用の細剣を佩いている。
華美な装飾はない。
それでも堂々とした立ち姿だけで、周囲の視線を惹きつけるだけの存在感があった。
「メリンダ様!」
「こちらを向いてくださいませ!」
「今日も格好いいですわ!」
令嬢たちが目を輝かせながら歓声を上げる。
メリンダは困ったように笑いながらも、一人ひとりへ穏やかに手を振った。
「おはよう。今日は皆、とても綺麗だね」
その一言だけで、
「きゃああっ!」
控え室はさらに大きな歓声に包まれる。
イザベルはその様子を見て、呆れたようにため息をついた。
「……メリンダ様ったら、また男装していらっしゃいますわ。相変わらずですこと」
「騎士伯家のご令嬢なのに、ああしている方が自然なのだから不思議ですわ」
メリンダ・グランツェ。
王国でも名高い騎士伯家の令嬢であり、その家は代々、王家に仕える騎士を輩出してきた名門である。
幼い頃から剣と馬に親しみ、社交よりも鍛錬を好むその気質は、貴族令嬢としては異色でありながらも、むしろ彼女らしさとして周囲に受け入れられていた。
ルルシルは黄色い歓声の中心にいるメリンダを見つめ、くすりと笑った。
「ふふっ、メリンダらしいわ」
すると、メリンダが人垣の向こうからルルシルへ気付いた。
「あっ、ルシー!」
ぱっと表情を明るくし、人混みをかき分けて歩いてくる。
令嬢たちは自然と道を開けた。
「おはよう、ルシー」
「おはよう、メリンダ」
メリンダはルルシルの姿を見て満足そうに頷く。
「やっぱりよく似合ってる」
青朽葉色のドレスを改めて見つめ、感心したように目を細めた。
「ルシーだからこそ着こなせる色だね」
「ありがとう」
メリンダは胸へ右手を当て、騎士の礼を取る。
「私の姫君はルシーだけだからね」
一瞬、控え室が静まり返った。
そして次の瞬間。
「きゃあああっ!!」
「メリンダ様ー!」
「素敵ですわ!」
悲鳴にも似た歓声が響き渡る。
ルルシルは困ったように微笑んだ。
「もう……メリンダ」
メリンダは悪戯が成功した子どものように笑う。
「今日は優勝して、必ずルシーをクイーンに迎えに行くよ」
「私はただお茶会に出るだけよ。クイーンなんて大げさだわ」
「それでも、私にとっては特別なんだ」
メリンダは真っ直ぐルルシルを見つめる。
「私が選ぶなら、ルシー以外考えられない」
その真っ直ぐな言葉に、ルルシルは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう」
そのやり取りを少し離れた場所で見ていた令嬢たちが、顔を寄せ合ってひそひそと囁き合う。
「今の聞きました? “姫君はルシーだけ”ですって……!」
「まるで物語の王子様みたい……」
「ルルシル様も、あんなふうに自然に受け止めていらして……素敵ですわね」
「お二人、本当にお似合いですわ……」
憧れを滲ませた声が、控え室のあちこちで小さく広がっていった。
そこへ、聞き慣れた声が響く。
「やっぱりここにいたか」
銀髪の青年――クレイスだった。
その隣には、黒い狩猟服を無造作に着こなした長身の青年が立っている。
黒髪を一本の三つ編みに結び、淡い薔薇色の瞳にはどこか気だるげな光が宿っていた。
「探したぞ、メリンダ」
クレイスが落ち着いた声で告げる。
「案の定、ここにいたな」
メリンダは振り向く。
「ガルシア」
「探しにきてくれたの?」
メリンダは肩をすくめる。
ガルシアは苦笑しながら続ける。
「お前なら、愛しのルシーのところにいると思った」
メリンダは悪びれることなく笑う。
「当然だろう?」
「私の姫君なんだから」
クレイスは小さく息をつき、呆れたように口を開いた。
「……その言い方は、誤解を招くぞ」
「そうかな?」
メリンダは首を傾げる。
「私は将来、ルシーに仕える騎士になるんだ。騎士が姫君を大切に思うのは当たり前だろう?」
その真っ直ぐな瞳に、打算も照れもない。
ただ純粋な忠誠だけが宿っていた。
ガルシアは肩をすくめる。
「ほらな。本人は本気だから質が悪い」
「悪いとは何だい」
メリンダが笑って返すと、ガルシアはふっと視線をルルシルへ向けた。
「……なるほど」
気だるげな瞳がわずかに細められる。
「メリンダがあそこまで騒ぐ理由は分かった」
ルルシルは一瞬きょとんとしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「初めまして、ガルシア様」
「辺境伯家のガルシアだ。クレイスとは幼い頃からの腐れ縁でね」
気安く片手を上げて挨拶する。
「よろしく頼むよ、ルルシル嬢」
王国北方を守る辺境伯家――エーベルハイト家。
代々、魔物との最前線を守り続けてきた武門の名家であり、その嫡男であるガルシアも幼い頃から剣を振るい、実戦で鍛えられてきた。
飄々とした態度とは裏腹に、その実力は王国でも高く評価されている。
「……ただ」
ガルシアは少しだけ口元を歪めた。
「メリンダの“姫君”って肩書きは、なかなか重そうだな」
「それはどういう意味だい?」
メリンダが即座に食いつく。
「いや、別に」
ガルシアは肩をすくめる。
「そのうち分かるさ」
どこか含みのある言い方に、メリンダは不満げに眉をひそめたが、すぐに笑いに変えた。
「相変わらずだね、君は」
クレイスは小さく苦笑しながら二人を見渡す。
「……その話は後だ。開会式に遅れる」
「はいはい」
メリンダは肩をすくめると、改めてルルシルへ向き直った。
「じゃあルシー、またあとで」
「ええ。ご武運を」
ルルシルが微笑むと、メリンダは満足そうに頷いた。
「任せて」
「ほら、王子様。そろそろ行かないと先生に怒られるぞ」
ガルシアが肩をすくめながら言う。
「誰が王子様だい」
メリンダは苦笑する。
「女子生徒全員がそう呼んでるだろ」
「私は騎士を目指しているだけなんだけどね」
クレイスは小さく息をついた。
「否定になっていないぞ。二人とも、本当に時間がない。開会式に遅れる」
「はいはい」
メリンダは笑いながら肩をすくめた。
三人は並んで控え室を後にする。
誠実な公爵家嫡男クレイス。
女子生徒たちの憧れの王子様、メリンダ。
そして飄々としながらも頼もしさを感じさせる辺境伯家嫡男ガルシア。
三人の後ろ姿を見送りながら、イザベルはくすりと笑った。
「本当に、あの三人は息がぴったりですわね」
ルルシルも静かに頷き、その背中を穏やかな眼差しで見送った。
◇◇◇
メリンダたちを見送ったルルシルたちは、開会式の会場へ向かおうと歩き出した。
その時、不意に後ろから声が掛かる。
「ごきげんよう、ルルシル様」
振り返ると、そこにはエミリーが立っていた。
淡い桃色のドレスは幾重にも重なったレースと繊細な刺繍で彩られ、胸元には小さな宝石が散りばめられている。
柔らかな栗色の髪も丁寧に結い上げられ、まるで物語に登場する姫君のような華やかな装いだった。
「ごきげんよう、エミリーさん」
ルルシルは穏やかに微笑み返す。
その様子を見ていたイザベルが、小さくため息をついた。
「エミリーさん」
「はい?」
「ルルシルは公爵令嬢ですわ。ご挨拶は、本来こちらからお声を掛けするものではありません」
「えっ……」
エミリーは目を丸くした。
「ご、ごめんなさい……。私、知らなくて……」
戸惑いを隠せない様子に、ルルシルは静かに首を横へ振る。
「お気になさらないでください」
そして、エミリーの装いへ視線を向け、ふわりと微笑んだ。
「そのドレス、とても素敵ですね。よくお似合いです」
「本当ですか?」
エミリーの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
その様子を見ていた周囲の令嬢たちが、小声で囁き始めた。
「平民の方でしょう?」
「どうしてあんな豪華なドレスを……」
「まるで侯爵家のご令嬢みたい……」
ひそひそとした声は、エミリーの耳にも届いていないようだった。
「あの、このドレスはカイン王子様が贈ってくださったんです!」
嬉しそうに裾を持ち上げながら笑う。
「今日のカイン様、本当に素敵でしたよ。白い狩猟服に赤いマントを羽織っていらして、まるで絵本の王子様みたいでした!」
エミリーの無邪気な笑顔とともに、その言葉が静かに胸へ落ちる。
――カイン様が贈ってくださった。
その瞬間、ルルシルの周囲を強い風が吹き抜けた。
窓から差し込む秋風が一気に荒れ、カーテンが大きくはためき、小さな妖精たちが驚いたように舞い上がる。
「きゃっ……な、なに今の風!?」
「え、外……すごくいい天気なのに……?」
周囲の女生徒たちがざわめき、思わず窓の外へ視線を向ける。
澄み渡る青空に、揺れる木々は穏やかで、先ほどの突風が嘘のようだった。
『ルルシル?』
『ルルシル、ルルシル』
心配するでも、問い詰めるでもない。
ただ、いつもと違う空気を感じ取ったように、小さな妖精たちはルルシルの肩や髪の周りをくるくると飛び回った。
ルルシルは小さく息を吸い込み、その揺らいだ心を胸の奥へ静かにしまい込む。
「……そうですか」
ただ、それだけを静かに返した。
その反応に、イザベルがぴくりと眉を動かす。
「あなたね――」
言いかけたその時だった。
ルルシルはそっと首を横へ振る。
それだけで、イザベルは言葉を飲み込んだ。
「……分かりましたわ」
エミリーは二人を見比べ、小さく首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「何でもありません」
ルルシルは穏やかな笑みを崩さないまま答えた。
「開会式のお時間よ。参りましょう、イザベル」
「ええ」
二人は並んで歩き始める。
以前なら隣に並んで歩いていたはずのエミリーは、その場に一人取り残された。
「……あれ?」
小さく呟く。
「どうして……?」
ルルシルは怒っているようには見えない。
優しく話しかけ、ドレスまで褒めてくれた。
それなのに。
どこか遠い。
手を伸ばしても届かないほど、静かな距離を感じた。
「前は……もっと優しかったのに」
戸惑いだけが胸に残り、エミリーは遠ざかる二人の背中を見つめ続けていた。




