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Lumiel Princess〜精霊姫と暁炎の王子〜  作者: 香百杏
第二章 初嵐

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第二十四話 穏やかなひととき

 


 秋の狩猟大会まで、あと数日。


 ヴェリテ公爵家でも、大会へ向けた準備が慌ただしく進められていた。


 広い執務室には、山積みになった書類が整然と並べられている。


 来賓の席次。


 警備計画。


 舞踏会の進行表。


 お茶会の準備。


 狩猟大会当日の運営資料。


 その一つひとつへ目を通しながら、クレイスは静かにペンを走らせていた。


 ――はずだった。


 書類に視線を落としたまま、ペン先が止まる。


 ほんの数秒。


 だが、その沈黙は何度も繰り返されていた。


 ふと、別のことが頭をよぎる。


 学園での出来事。


 ルルシルの様子。


 そして――カインのこと。


 無意識に、眉間にわずかな皺が寄る。


 気付いて、クレイスは小さく息を吐いた。


「……いけないな」


 自分に言い聞かせるように呟き、再び書類へ視線を戻す。


 だが、集中は長く続かない。


 文字を追っているはずなのに、内容が頭に入ってこない。


 ペンを持つ手が、また止まる。


 机の上に置かれた書類の束は、まだ半分以上残っていた。


 普段なら、とっくに終えている量だ。


 それでも今日は、どうにも捗らない。


 再び息を吐き、軽くこめかみを押さえる。


 ――考えても仕方のないことだ。


 そう分かっていても、思考は勝手に巡ってしまう。


 やがて、クレイスはゆっくりと背もたれに体を預けた。


 ほんの一瞬だけ、目を閉じる。


 そしてすぐに姿勢を正し、ペンを握り直した。


 今は、やるべきことをやるだけだ。


 そうしてようやく、再び書類へ署名を入れる。


 だが、その動きはいつもよりわずかに遅かった。


 控えめなノックが響く。


「クレイス様」


 執務室へ入ってきたのは、専属執事のレオンだった。


 深く一礼し、穏やかに口を開く。


「お時間でございます」


 クレイスは書類から視線を上げる。


「……何の時間だったか」


 わずかに間が空く。


 それだけで、レオンはすべてを察したように微笑んだ。


「ルルシルお嬢様との衣装合わせでございます」


「ああ」


 そうだった、と小さく息を吐く。


 気付けば予定の時刻を過ぎようとしていた。


「仕立て屋も到着しております」


「分かった」


 クレイスはペンを置き、書類を丁寧に閉じた。


 机の上に残る書類の束を一瞬だけ見つめる。


 ――今日は、ここまでだな。


「今日はここまでにしよう」


「かしこまりました」


 レオンは手際よく机の上を整え始める。


 クレイスは上着を整えながら執務室を後にした。


 廊下を歩く二人の足音が静かに響く。


 ふと、クレイスは窓の外へ視線を向けた。


 遠くに広がる森。


 秋の気配を帯びた木々の間を、風が静かに揺らしている。


 その上空を、小さな鳥の精霊たちが軽やかに飛び回っていた。


 くるりと旋回し、また別の方向へと飛んでいく。


 いつもと変わらぬ光景。


 だが、どこか落ち着かない。


 視線を庭へ移す。


 手入れの行き届いた芝の上では、小さな精霊たちが遊ぶように漂っていた。


 花の周りをくるくると回り、時折きらりと光を散らす。


 穏やかな、いつものヴェリテ公爵家の風景。


 ――異変はない。


 そう確認するように、クレイスはわずかに目を細めた。


 それでも、胸の奥に残る違和感は消えない。


「今年は、衣装を兄妹で合わせられるそうですね」


 レオンが穏やかに話しかける。


 クレイスは視線を戻し、短く頷いた。


「ああ」


「本来であれば、婚約者同士で色味や装飾を合わせるのが慣例ですが……」


 そこでレオンは言葉を選ぶように一度口を閉じた。


「カイン殿下からは、そのようなお話はございませんでした」


 クレイスは何も答えなかった。


 責めるつもりもない。


 だが、それが現実だった。


「旦那様より、『今年はクレイス様とルルシルお嬢様で揃えなさい』とのお言葉をいただいております」


「父上らしいな」


 クレイスは小さく笑う。


「ルルシルも安心するだろう」


 レオンも穏やかに微笑んだ。


「きっとお嬢様も、お喜びになられるかと」


 二人はルルシルの部屋へ向かう。


 扉を開けると、そこには色とりどりのドレスや生地が並び、仕立て屋とサラが準備を進めていた。


「お兄様」


 ルルシルが嬉しそうに立ち上がる。


「待たせてしまったな」


「いいえ、今来たところです」


 サラが一礼する。


「それでは皆様、お揃いになられましたので始めさせていただきます」


 すると、窓辺から小さな妖精たちがひらひらと飛んできた。


『きれー!』


『いっぱいあるー!』


『 ルルシル、おひめさま!』


 楽しそうに飛び回る妖精たちを見て、ルルシルは思わず笑みを浮かべる。


 クレイスもその様子を見て、自然と表情を和らげた。


「さて」

「始めよう」


 仕立て屋は一礼すると、大切そうに見本帳を机へ広げた。


「まずは舞踏会用のお衣装からご覧くださいませ」


 並べられたのは、色とりどりの上質な生地だった。


 深い紺。


 落ち着いた翡翠色。


 澄んだ蒼色。


 温かな黄金色。


 さらに金糸や銀糸で施された刺繍の見本まで並び、部屋は一気に華やかな空気に包まれる。


「どれも素敵ですね」


 ルルシルは一枚一枚の生地へ目を向ける。


 その周りでは、小さな精霊たちが嬉しそうに舞っていた。


『ルルシル!』


『キレイー!』


『キラキラー!』


 思わずルルシルの頬が緩む。


 クレイスは精霊たちが楽しそうに飛び回る様子を見て、小さく微笑んだ。


「今日は随分と賑やかそうだな」


「はい。皆さんも楽しみにしているみたいです」


 仕立て屋はクレイスへ深い紺色の生地を差し出した。


「クレイス様でしたら、こちらのお色がよろしいかと」


 クレイスは頷き、それからルルシルの前に並ぶ生地へ視線を移した。


「ルルシルには、この翡翠色も似合いそうだな」


 深みのある緑は、銀色の髪をより美しく引き立ててくれそうだった。


 するとサラが穏やかに口を開く。


「翡翠色も大変お似合いになると思います」


「ですが、お嬢様は緑のお召し物を何着かお持ちでございます」


 ルルシルは思い返すように頷く。


「そういえば……そうね」


 サラは微笑みながら、もう一枚の黄金色の生地を広げた。


「こちらはいかがでしょう」


「秋らしいお色ですし、お嬢様の銀髪がとても美しく映えるかと存じます」


 ルルシルは生地を胸元へ当ててみる。


 精霊たちは一斉にその周りへ集まり、楽しそうに飛び回った。


『ルルシル!』


『キレイー!』


『スキー!』


 ルルシルは思わず笑みを浮かべる。


「皆さんも気に入ってくださったみたいです」


 その姿を見たクレイスも静かに頷いた。


 クレイスは黄金色の生地を胸元へ当てたルルシルを見つめる。


 先ほど廊下から見えた庭の金木犀が、ふと脳裏をよぎる。


 金色の花。


 秋の柔らかな陽射し。


 目の前のルルシルと重なった。


「……そうか」


 小さく笑みを浮かべる。


「まるで金木犀の精のようだな」


 仕立て屋は感心したように微笑む。


「もしよろしければ、こちらのお衣装には金木犀を模した刺繍を施してはいかがでしょう」


「胸元から裾へ、小さな花を散りばめるように金糸で刺繍をお入れすれば、より季節感のある一着になります」


「髪飾りにも同じ金木犀の意匠を取り入れれば、統一感のある装いになるかと存じます」


 クレイスは仕立て屋の提案を聞き、静かに頷いた。


「それなら、私の衣装にも同じ意匠を入れてほしい」


「深い紺を基調に、金糸で金木犀の刺繍を施せば、お揃いだと分かる程度にまとまるだろう」


「かしこまりました」


 仕立て屋は嬉しそうに手帳へ書き込んでいく。


「お二人がお並びになった際、とても美しい装いになるかと存じます」


 ルルシルは兄を見上げ、小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、お兄様」


「気にするな」


「せっかく揃いにするなら、お前に似合うものがいいだろう」


 その一言に、ルルシルは少しだけ照れくさそうに笑った。


 舞踏会用の衣装が決まると、仕立て屋は別の見本帳を開いた。


「続いて、お茶会用のお衣装でございます」


 今度は落ち着いた色合いの生地が並べられる。


 生成り。


 青朽葉色。


 胡桃色。


 淡い灰桜色。


 ルルシルは一枚ずつ手に取り、困ったように微笑んだ。


「どれも素敵で……迷ってしまいます」


 クレイスは静かに見本帳へ目を落とす。


「どれも似合うだろうが……」


 そう呟きながら、一枚の生地を手に取った。


「私はこれがいいと思う」


 差し出したのは、柔らかな青朽葉色の生地だった。


 秋の空を思わせる、青みを帯びた落ち着きのある色合い。


 ルルシルは胸元へそっと当ててみる。


 銀色の髪がより一層美しく映え、紫の瞳が柔らかな光を宿した。


 その瞬間、精霊たちが嬉しそうに舞い上がる。


『ルルシル!』


『キレイー!』


『スキー!』


 部屋中を飛び回る精霊たちを見て、ルルシルは思わず笑みを浮かべた。


「皆さんも気に入ってくださったみたいです」


 サラも満足そうに頷く。


「とてもお似合いです、お嬢様」


「青朽葉色は、お嬢様の銀髪をより美しく引き立ててくれます」


「秋の庭園にもよく映えることでしょう」


 クレイスも穏やかに頷いた。


「ああ」


「派手さはないが、お前らしい」


 ルルシルは少し照れくさそうに微笑む。


「では、お茶会はこちらでお願いします」


「かしこまりました」


 仕立て屋は丁寧に書き留めると、今度はクレイスへ向き直った。


「クレイス様。狩猟大会用のお召し物はいかがなさいますか」


 クレイスは迷うことなく答える。


「去年のものを着る」


「まだ十分着られる。今年は新調しなくていい」


 その言葉に、レオンが一歩前へ出た。


「でしたら、お仕立て直しをされてはいかがでしょう」


「生地を活かしたまま、今年らしい装いへ整えるだけでも印象は変わります」


 仕立て屋も頷く。


「昨年のお召し物は、焦茶色の上質なツイード生地でございました」


「生地の状態も申し分ございません」


「色味を活かしつつ、差し色を加えることで、今年らしい印象へ仕立て直せます」


 そう言うと、深みのあるオリーブグリーンの生地見本を差し出した。


「こちらのお色を襟元や袖口、ベストへ取り入れてはいかがでしょう」


「落ち着いた印象はそのままに、ルルシルお嬢様のお茶会用のお衣装ともよく調和いたします」


 クレイスは生地を手に取り、静かに眺めた。


「悪くないな」


「これなら去年とは違った印象になる」


 仕立て屋は嬉しそうに微笑む。


「ありがとうございます」


「それと、首元にはルルシルお嬢様と同じストライプリボンを合わせてはいかがでしょう」


「色合いは異なりますが、ご兄妹らしい統一感が生まれるかと存じます」


 クレイスはルルシルへ視線を向けた。


「ルルシルはどうしたい?」


 突然話を振られたルルシルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑む。


「お兄様が構わないのでしたら……」


「私、お揃いになるようにしたいです」


 クレイスも自然と笑みを浮かべた。


「なら、それで頼む」


「かしこまりました」


 仕立て屋は手帳へ書き込みながら一礼する。


「お二人が並ばれた時、ヴェリテ公爵家らしい気品と統一感が感じられる装いに仕立てさせていただきます」


 ◇◇◇


 採寸を終えると、仕立て屋は丁寧に一礼した。


「完成いたしましたら、すぐにお届けいたします」


「今年のお二人のお衣装は、きっと多くの方の目を引くことでしょう」


「楽しみにしております」


 ルルシルが微笑むと、仕立て屋は満足そうに頷き、部屋を後にした。


 サラとレオンも後片付けを済ませ、一礼する。


「お嬢様、お茶の準備が整っております」


「ありがとう、サラ」


 二人が退室すると、部屋にはクレイスとルルシルだけが残った。


 窓際の丸いテーブルには、温かな紅茶と焼き菓子が並べられている。


 大きな窓の向こうには、秋色に染まり始めた庭園が広がっていた。


 金木犀の甘い香りが風に乗って漂い、木々の枝では小鳥の姿をした精霊たちが楽しそうにさえずっている。


 花壇では蝶の羽を持つ妖精たちが花々の間を舞い、芝生では小さな鹿の精霊が軽やかに駆け抜け、その後を白兎の精霊が追い掛けていた。


 木陰では栗鼠の精霊が木の実を抱えて枝を駆け上がり、池では透き通る尾を持つ魚の精霊が水面を跳ねる。


 その穏やかな景色の中を、小さな光の精霊たちが風に乗って漂い、庭全体が静かな命の息吹に包まれていた。


 やがて紅茶の香りに誘われるように、数匹の小さな精霊が部屋へと飛んでくる。


『ルルシル!』


『おちゃー!』


『いいにおいー!』


 一匹はティーカップの縁へちょこんと腰掛け、もう一匹は焼き菓子の皿の周りをくるくると飛び回る。


 ルルシルは思わず笑みを浮かべた。


「皆さんも気になるのですね」


『あまーい!』


『おいしそうー!』


 楽しそうにはしゃぐ精霊たちを見て、クレイスも自然と口元を緩める。


「今日は随分と賑やかだな」


「衣装が決まって、皆さんも嬉しいのでしょう」


 ルルシルはそう答え、紅茶へ口をつけた。


 穏やかな香りが口いっぱいに広がる。


 しばらく、静かな時間だけが流れた。


 やがてクレイスが小さく笑う。


「こうしてゆっくり話すのは久しぶりだな」


 ルルシルも頷いた。


「毎日お会いしていますけれど」


「朝食と通学くらいですものね」


「ああ」


 クレイスは苦笑する。


「学園では生徒会の仕事がある」


「屋敷へ戻れば公爵家の仕事だ」


「気付けば一日が終わっている」


 ルルシルは兄を見つめ、少し眉を下げた。


「お兄様は働きすぎです」


「夕食も最近抜いていらっしゃるでしょう?」


「サラが心配していました」


「少しは休まれた方がよろしいのではありませんか」


 クレイスは肩をすくめる。


「そう言うわけにもいかない」


「父上にも母上にも、それぞれの役目がある」


「私にできることは、私がやるだけだ」


 ルルシルは困ったように微笑む。


「昔からそうでした」


「何でも一人で抱え込んでしまわれます」


 クレイスは照れくさそうに笑った。


「そういう性分なんだろうな」


 その時、一匹の小鳥の精霊が窓から舞い込み、クレイスの肩へちょこんと止まる。


『クレイス!』


『おつかれー!』


 クレイスには声は聞こえない。


 それでも何かを感じたように肩へ視線を向け、不思議そうに首を傾げた。


 その様子がおかしくて、ルルシルはくすりと笑う。


「どうした?」


「いえ」


「皆さんがお兄様を応援しています」


 クレイスは優しく微笑み返した。


「そうか」


「それは心強いな」


 穏やかな空気の中、クレイスは紅茶を一口含み、小さく息をついた。


「そういえば」


「殿下とアッシェン殿下の件は聞いたか」


 ルルシルは静かに頷く。


「風の噂で」


「ああ」


 クレイスはカップを置いた。


「アッシェン殿下は、誰に対しても分け隔てなく接しているようだ」


「……カイン殿下に対してもな」


 わずかに眉を寄せる。


「誰に対しても同じように接しておられるのだろう」


「殿下も戸惑っておられるように見える」


「それに引きずられるように、殿下ご自身も落ち着きを欠いておられる」


「最近は焦っておられるようにも見える」


 ルルシルは黙って耳を傾けていた。


「アッシェン殿下があそこまで弓に秀でているとは思わなかった」


「殿下も決して腕が劣るわけではない」


「だが、噂を聞く限りでは冷静さを欠いてしまわれたようだ」


 クレイスは小さく苦笑する。


「生徒会役員としても、殿下の側近としても……どう接するのが正しいのか分からなくなる時がある」


 その声音には、わずかな迷いが滲んでいた。ふと、いつもは背筋を伸ばして座るクレイスが珍しくソファーの背もたれに身を預け、天井を仰いだ。


 ルルシルは兄を見つめる。


「お兄様でも、そのように思われることがあるのですね」


「私も人間だからな」


 クレイスは肩をすくめた。


「いつも正しい答えが分かるわけではない」


「柄にもない話をしてしまった」


 ルルシルは静かに首を横へ振る。


「そんなことありません」


「お兄様も悩まれるのだと知って、少し安心しました」


「安心?」


「あまりにも何でもできてしまうので」


 その言葉に、クレイスは思わず笑みをこぼした。


「買いかぶりすぎだ」


 ひとしきり笑うと、クレイスは妹へ視線を向ける。


「お前の噂も耳にした」


「……そうですか」


 返ってきたのは、それだけだった。


 クレイスは思わず苦笑する。


「気にならないのか」


 ルルシルは少しだけ考え、小さく首を傾げた。


「皆さんには、そのように見えたのでしょう」


「でしたら、仕方のないことです」


 それ以上でも、それ以下でもない。


 そんな穏やかな返事だった。


 クレイスは静かに息を吐く。


「昔から変わらないな」


「もっと自分のことを考えてもいい」


 ルルシルは困ったように笑った。


「難しいですね」


 カップをそっと置き、続ける。


「エミリーさんも、とても困っていらっしゃいました」


「私を陥れようとしているわけではないように感じました」


「殿下のことはどう思っている」


 クレイスの問いに、ルルシルは迷うことなく答えた。


「殿下がお決めになったことです」


「私が何か申し上げることではありません」


「だが、お前は婚約者だ」


「そうですね」


 ルルシルは静かに微笑む。


「……人の気持ちは誰かが決められるものではありません」


「殿下がお選びになったことなら、それを責めることはできません」


 クレイスは言葉を失った。


 妹らしい答えだった。


 誰も責めず、誰も恨まない。


 それがルルシルという人間だった。


「……お前は優しすぎる」


 その一言に、ルルシルはゆっくり首を横へ振る。


「そんなことはありません」


「ただ、皆さんが幸せなら、それで十分です」


 クレイスは小さく笑った。


「だから心配なんだ」


 ルルシルも微笑み返す。


「それは、お互い様です」


「お兄様も、ご無理はなさらないでください」


「最近、お疲れのように見えます」


 クレイスは少し照れくさそうに笑う。


「妹に心配されるとはな」


「家族ですもの」


 その一言に、クレイスは優しく目を細めた。


「ああ」


「そうだったな」


 その時、焼き菓子の皿の周りを飛んでいた精霊たちが、一斉にルルシルの肩へ集まった。


『ルルシル!』


『わらったー!』


『うれしいー!』


 ルルシルは小さく笑い、指先をそっと差し出す。


 一匹の精霊が嬉しそうにその指へ腰掛けた。


 クレイスにはその声は聞こえない。


 けれど、妹の穏やかな笑顔を見るだけで十分だった。


「今日は、久しぶりにゆっくりできたな」


「はい」


「とても楽しかったです」


 窓の外では、小鳥の精霊たちが夕暮れの空へ飛び立ち、鹿の精霊は森の方へ駆けていく。


 金木犀の甘い香りが庭を包み込み、ヴェリテ公爵家には、穏やかな秋の時間が静かに流れていた。



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