第二十二話 広がる波紋
翌朝。
フィオレイン王立魔法学園は、いつもとはどこか違う空気に包まれていた。
登校する生徒たちは廊下や教室で足を止め、小さな声で何かを囁き合っている。
「昨日の薬草学の授業、聞いた?」
「王太子殿下が教室へ飛び込んできたんでしょう?」
「エミリーさんが泣いていたって……」
「ルルシル様が泣かせたって聞いたけど」
「違うわよ。助けたって話もあるわ」
「結局、どれが本当なの?」
噂は人から人へ伝わるたびに形を変え、真実とは少しずつ違うものになっていく。
その頃――。
イザベルは教室へ向かう廊下を足早に歩いていた。
朝から耳に入ってくるのは、昨日の出来事ばかり。
「聞いた? ルルシル様がエミリーさんを泣かせたって」
「王太子殿下がものすごい勢いで教室へ飛び込んできたらしいわ」
「婚約者だから怒ったのかしら」
その言葉に、イザベルの足がぴたりと止まる。
「違いますわ」
静かな一言だった。
噂をしていた令嬢たちは驚いて振り返る。
「イ、イザベル様……」
イザベルはまっすぐ三人を見据えた。
「あなた方は、その場をご覧になっていたのですか?」
「そ、それは……」
「人づてに聞いた話だけで憶測を口になさるのは感心いたしませんわ」
令嬢たちは気まずそうに視線を逸らす。
しかし、一人が小さく呟く。
「でも、王太子殿下が怒っていらしたのは事実ですし……」
「だからといって、それが真実とは限りません」
イザベルはぴしゃりと言い切った。
「噂話ばかりで真実を見失うなど、学園の生徒として恥ずべきことです」
「それに――」
一歩前へ出る。
「廊下で立ち話をして通行を妨げるなんて、風紀が乱れておりますわよ」
「は、はい……」
令嬢たちは慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありませんでした」
「でしたら結構です」
イザベルは軽く頷き、そのまま再び歩き出す。
イザベルの姿が見えなくなったあと、令嬢たちは顔を見合わせ、小さく息をついた。
「でも……あの方、本当にルルシル様のことになると見境がありませんわね」
「親友ですもの」
その言葉に、三人はどこか納得したように頷いた。
(ルルシルがそんなことをするはずがありませんわ)
幼い頃から誰よりもルルシルを知っている。
困っている人を見捨てられず、自分が誤解されても相手を庇ってしまう。
そんな優しい人だということを、イザベルは誰よりも知っていた。
(まったく……)
自然と歩く速度が速くなる。
(また一人で抱え込んでいらっしゃるのでしょう)
かつ、かつ、と廊下へ靴音が響く。
イザベルは教室の扉の前で立ち止まり、小さく息を吸った。
そして勢いよく扉を開ける。
「ルルシル!」
勢いよく開かれた扉の音に、教室中の視線が一斉に向けられる。
かつ、かつ、と靴音を響かせながら、イザベルが一直線にルルシルの席へ歩いてくる。
その険しい表情に、教室中の視線が二人へ集まった。
「ルルシル、昨日の件、すべてお聞きいたしましたわ」
ルルシルは顔を上げ、イザベルを見つめる。
その表情は穏やかで、どこか申し訳なさも滲んでいた。
「……イザベルも聞いたのね」
静かな声だった。
「ええ、噂になっておりますのよ!」
イザベルは声を強める。
「あなたが誤解されたままだと聞いておりますの!」
ルルシルは少しだけ目を伏せた。
「……そうね」
「それでよろしいのですの!?」
思わず詰め寄るイザベルに、ルルシルはゆっくりと首を横に振る。
「気にならない、というより……仕方のないことだと思ってるわ」
「仕方ない、ですって……?」
「ええ」
ルルシルは穏やかに続けた。
「昨日の場面を見れば、そう受け取られても無理はないもの」
「皆さんは、見たままを信じているだけよ」
その言葉に、イザベルは言葉を詰まらせる。
「ですが、それではあまりにも理不尽ですわ!」
「大丈夫よ」
ルルシルは柔らかく微笑んだ。
「誰かに何か言われることには、慣れているから」
その言葉は軽くはなかった。
けれど、悲壮感もない。
ただ受け入れているだけの、静かな強さがあった。
「あなたはエミリーさんを庇われたのでしょう?」
「それなのに、どうして何もおっしゃらないのですの!」
ルルシルは少しだけ考えるように間を置いた。
「……説明をすれば、きっと別の誰かが責められてしまうわ」
「それは望んでいないの」
「それに」
ほんの少しだけ、困ったように笑う。
「真実を知っていてくださる方が、一人でもいれば十分よ」
イザベルは息を呑む。
その言葉が、まっすぐ胸に届いた。
「……あなたは」
言葉を続けようとして、しかし何も言えなくなる。
ルルシルは静かに応じる。
「心配してくれて、ありがとう。イザベル」
そう付け加えられた一言に、イザベルは一瞬だけ目を見開いた。
怒りの勢いが、少しだけ削がれる。
「……本当に、あなたは」
言葉を探すように視線を逸らし、やがて小さく息を吐いた。
「損なご性格でいらっしゃいますわね」
その声音には、先ほどまでの鋭さはなかった。
ルルシルは苦笑する。
「そうかもしれないわね」
そのやり取りを見守っていた生徒たちは、再び小声で囁き始める。
「なんだか……思っていたのと違うわね」
「もしかして、本当にルルシル様は悪くなかったのかしら」
「でも王太子殿下があんなに怒っていたし……」
「分からないわ」
真実を知る者は、ほんのわずか。
それでも噂だけは、止まることなく学園中へ広がっていくのだった。




