第二十話 それぞれの想い【後編】
柔らかな笑顔で声をかけられ、エミリーは手を止めた。
「はい……?」
令嬢たちはゆっくりと近づいてくる。
「先ほどの実験、とても見事でした」
「ありがとうございます……」
「ところで」
一人が微笑みを崩さぬまま問いかける。
「ルルシル様のことを、どう思っているの?」
「え……?」
突然の質問に戸惑う。
「とても優しくて、素敵な方だと思います」
「そうなのね」
別の令嬢が続ける。
「では、カイン殿下のことは?」
「殿下は……その……お優しい方です」
言葉を選びながら答えるエミリーに、令嬢たちは意味ありげに視線を交わした。
「殿下には婚約者がいること、ご存じよね?」
「はい……ルルシル様が……」
「ええ、その通りよ」
微笑みは崩れない。
だが、その奥にあるものは冷たい。
「それでも殿下は、あなたに特別に接しているように見えるの」
「そんなことは……」
「本当に?」
静かな圧がかかる。
「私たちは、ルルシル様のためを思って言っているの」
「婚約者がいる殿下に、あまり近づきすぎるのは……よくないわ」
「ルルシル様はお優しい方だから、何も言わないでしょうけれど」
その言葉は穏やかでありながら、確かにエミリーを責めていた。
「違うんです……私は……」
うまく言葉が出てこない。
胸が締め付けられる。
その時だった。
「皆様」
澄んだ声が教室に響く。
振り返ると、そこにはルルシルが立っていた。
「一人では片付けが大変だと思い、戻ってきたのですが」
自然な口調でそう言いながら、エミリーの隣へと歩み寄る。
「ルルシル様……」
令嬢たちは一瞬だけ言葉を失う。
ルルシルは穏やかな微笑みを浮かべたまま続けた。
「何かご用件があるのでしたら、私がお伺いします」
「いえ……」
一人が口を開く。
「私たちはただ、ルルシル様のためを思って……エミリーさんにお話をしていただけです」
「そうでしたか」
ルルシルは静かに頷く。
「ですが」
その声は柔らかいまま、はっきりとしていた。
「殿下のお気持ちは、殿下のものです」
「エミリーさんを責める理由にはなりません」
教室の空気がわずかに張り詰める。
令嬢たちは顔を見合わせた。
「ルルシル様は……お優しすぎます」
「だからこの方が甘えるのです」
「婚約者なのですから、もっと毅然となさるべきです」
「私たちはルルシル様の味方なのに」
その言葉は一見ルルシルを思っているようで、実際にはエミリーへの嫉妬が滲んでいた。
「違うんです……!」
エミリーが思わず声を上げる。
「ルルシル様は悪くありません!」
「私が……私が悪いわけでもなくて……でも……」
言葉がまとまらない。
胸の奥が苦しくなり、視界が滲む。
「違うんです……」
ぽろりと涙がこぼれた。
その瞬間――
教室の扉が勢いよく開いた。
「エミリー!」
カインだった。
戻ってきた彼は、わずかに息が乱れている。
「はぁ……はぁ……遅くなった、手伝いに来たぞ」
呼吸を整えながら顔を上げると、目に飛び込んできたのは、涙を流すエミリーの姿だった。その周囲には複数の女子生徒が取り囲むように立っている。
「何があった」
鋭い視線が教室を見渡し、ルルシルと令嬢たちへ向けられる。
「お前たちが……」
「違います!」
エミリーが慌てて否定する。
「ルルシル様は助けてくださって――」
「もういい」
カインはその言葉を遮った。
「行くぞ」
エミリーの手首を取り、そのまま引き寄せる。
「で、でも……待ってください、まだお話が……」
エミリーはその場に踏みとどまろうとする。
「私、ちゃんと説明しないと……皆さんにも、ルルシル様にも……」
「いいから」
カインの声が低くなる。
「ここにいる必要はない」
「でも……!」
エミリーは振り返り、令嬢たちとルルシルを見た。
「私、逃げたくありません……誤解されたままなんて……」
震える声で、それでも必死に言葉を紡ぐ。
その瞬間、カインの視線がルルシルへと鋭く向けられた。
「……聞いておけ」
低く、押し殺した声。
「もしまたエミリーに何かあったら――」
一歩、踏み出す。
「次は黙っていない」
教室の空気が凍りつく。
「誤解だろうが何だろうが関係ない」
「エミリーを傷つけるようなことがあれば……どうなるか、分かっているだろうな」
「で、殿下……!」
エミリーが慌ててカインの腕を引く。
「違うんです、本当に違うんです!」
「ルルシル様は何もしていません!」
「お願いです、そんな言い方……!」
必死に止めようとするエミリーの声が震える。
しかしカインは視線を逸らさないまま、短く言い放った。
「行くぞ」
エミリーの手を引き、そのまま教室を後にする。
「ルルシル様……ごめんなさい……!」
振り返りながら、涙声でそう告げるエミリー。
ルルシルは静かに微笑み、首を横に振った。
「お気になさらないでください」
その言葉に、エミリーは涙を浮かべたまま首を振る。
しかし次の瞬間、カインが強くエミリーの腕を引いた。
「もういいと言っているだろう」
その声には明らかな怒りが滲んでいた。
ルルシルと令嬢たちを一瞥し、鋭く言い放つ。
「これ以上関わる必要はない」
「行くぞ」
エミリーは引き寄せられるまま、教室の外へと連れ出されていく。
「……失礼します」
小さく頭を下げる余裕もないまま、カインに連れられて教室を後にした。
残された令嬢たちは、気まずそうに顔を見合わせた。
「……ルルシル様も、もう少しお付き合いになる方をお考えになった方がよろしいのではありませんこと?」
「カイン殿下も、少々どうかしていらっしゃいますわ」
「所詮エミリーさんは平民ですもの……殿下は情けをかけていらっしゃるだけでしょうに」
小さく呟き合いながら、彼女たちは教室を後にしていく。
静寂が戻る。
教室には、ルルシル一人だけが残された。
机の上に残された薬瓶を手に取り、何事もなかったかのように棚へ戻していく。
表情は変わらない。
怒りも、悲しみも、何も浮かばない。
ただ淡々と、作業を続けるだけ。
まるで感情が止まっているかのように。
その時、窓辺に小さな光が集まった。
『ルルシル……』
『かなしい?』
『だいじょうぶ?』
精霊たちの声が、そっと響く。
ルルシルだけに聞こえる声。
ルルシルは手を止め、ほんのわずかに視線を上げた。
そして――
誰にも気付かれないほど、小さく微笑む。
「……大丈夫ですよ」
その言葉は、精霊たちへ向けられたもの。
けれど――
本当に大丈夫なのかは、誰にも分からないまま。
静かな教室に、淡い光だけが揺れていた。
◇◇◇
カインに手を引かれ、エミリーは人気のない廊下まで連れてこられた。
窓の外では木々が風に揺れ、小鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。静まり返った廊下には、二人の足音だけが響いていた。
「殿下、待ってください!」
エミリーは立ち止まり、そっとカインの手を振り払う。指先に残る温もりが、かえって胸をざわつかせた。
「どうした」
振り返ったカインの瞳には、まだ怒りの色が残っている。
「誤解しています」
エミリーは真っ直ぐにカインを見つめ、首を横に振った。
「ルルシル様は、私を助けてくださったんです」
「私を責めていたのは、あの方たちで……ルルシル様は止めてくださっただけなんです」
カインは険しい表情を崩さない。
「だとしても、君は泣いていた」
「あれは……」
エミリーは唇を噛みしめる。胸の奥に残る感情が、言葉にならずに揺れていた。
「皆さんのお気持ちも分かるんです。ルルシル様は殿下の婚約者ですもの」
俯きながら、小さく息をつく。
「私のせいで、お二人の関係が悪くなってしまうなんて……そんなこと、私は望んでいません」
その言葉を聞いたカインは、小さく息をついた。
「エミリー」
「ルルシルは、ただの婚約者だ」
静かに一歩近づき、エミリーの両手をそっと包み込む。彼の手は温かく、確かな力で彼女を包み込んでいた。
「俺が本当に大切に思っているのは、君なんだ」
突然の言葉に、エミリーは目を見開く。
「殿下……」
「身分も婚約も関係ない」
「俺の気持ちは変わらない」
その声は低く、しかし揺るぎない。
エミリーは悲しそうに微笑んだ。
「ですが……」
「私たちが恋人になるなんて、誰も認めてくださいません」
「皆さんを悲しませてしまいます」
カインは迷いなく頷く。
「なら、俺が証明する」
「秋の狩猟大会で、君をクイーンにする」
その瞳には、一切の迷いがなかった。
「俺が君を選ぶ」
「そうすれば、誰も君を悪く言えない」
「俺たちが互いを想い合っていることを、皆に示してみせる」
エミリーは震える瞳でカインを見つめる。胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
「殿下……」
「私も……殿下のことが好きです」
頬を赤く染め、小さく俯く。
「とても……好きです」
「でも……ルルシル様が……」
その名を口にした瞬間、胸が締めつけられる。
優しく手を差し伸べてくれた少女の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
カインは安心させるように微笑み、エミリーの手の甲へ静かに口づけを落とす。
「心配するな」
「父上と母上も、周囲には知られていないが恋愛結婚なんだ」
「きっと分かってくださる」
「俺たちは結ばれる運命だ」
その言葉は、まっすぐで、迷いがなかった。
エミリーは戸惑いながらも、小さく頷いた。
胸の奥に残る不安は消えなかった。
それでも、カインの温かな手だけは、確かに彼女の心を支えていた。




