第十九話 精霊が帰る場所【後編】
淡い銀色の光が静かに消える。
転移魔法が解けると、ルルシルは夜の精霊の森へ降り立っていた。
木々の隙間から降り注ぐ月明かりが、森全体を優しく照らしている。
花の蜜を集める小さな花の精霊。
水辺で遊ぶ魚のような精霊。
枝から枝へ飛び遊んでいる羽の生えた精霊。
夜空には蛍のような精霊たちの纏う光が幾つも舞い、森全体が星空の中に包まれているようだった。
『ルルシルだー!』
『おかえり!』
『待ってたよ!』
『こんばんは!』
あちらこちらから精霊たちが集まってくる。
蝶の羽を持つ小さな精霊。
苔むした兎のような精霊。
狐や鹿、蛇、――様々な姿をした精霊たちが次々と姿を現し、楽しそうにルルシルの周囲へ集まってきた。
肩へ乗る者。
袖へしがみつく者。
髪を撫でる者。
皆が口々に話しかけてくる。
『今日は元気ない?』
『疲れた?』
『遊ぼう!』
『いっぱいお話しよう!』
ルルシルは自然と笑みを浮かべた。
「ええ。ただいま」
その一言だけで、精霊たちはさらに嬉しそうにはしゃぎ始める。
人前では決して見せない、柔らかな笑顔だった。
森の奥へ歩き始めると、精霊たちも楽しそうにあとをついてくる。先ほどまで重く感じていた足取りが、いつの間にか軽くなっていることにルルシルは気づいた。
夜露をまとった草花が月明かりを受けてきらめき、小川のせせらぎが静かに耳へ届く。
枝の上では、鳥の精霊が美しい声でさえずっている。
足元では小さな花の精霊が咲いた花を誇らしげに揺らしていた。
『きれいでしょ?』
「ええ、とても」
ルルシルは立ち止まり、小さな花へ優しく指先を添える。
花の精霊は嬉しそうにくるりと一回転した。
その時だった。
風が大きく揺れる。
上空から、一頭の白銀の風馬がゆっくりと舞い降りてきた。
月光を受けた鬣は淡く輝き、長い足が静かに風を生む。
「アルディオン」
ルルシルが微笑む。
アルディオンは彼女の前へ降り立ち、不思議そうに首を傾げた。
『ルルシル。どうしてここに?』
その問いに、ルルシルは少し困ったように微笑んだ。
「……お兄様には、内緒にしてくださいね」
アルディオンは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑うように鼻を鳴らした。
『分かった。約束だ』
「ありがとうございます」
アルディオンはそのままルルシルの隣へ並び、歩幅を合わせて歩き始める。
ルルシルはそっと手を伸ばし、美しい白銀の鬣を優しく撫でた。
その瞬間、アルディオンは心地よさそうに目を細める。
『……悪くないな』
嬉しそうに鼻先をルルシルの肩へ寄せる姿に、小さな精霊たちが笑い声を上げた。
『アルディオン、甘えてる!』
『いいなー!』
『ぼくも撫でて!』
次々と小さな精霊たちが集まり、ルルシルの手へ頬を寄せてくる。
ルルシルは一人ひとりへ優しく微笑みながら、その小さな身体へ順番に触れていった。
「皆、とても元気ですね」
『ルルシルが帰ってきたから!』
『今日はいっぱい笑って!』
『悲しい顔はやだ!』
その言葉に、ルルシルは少しだけ目を伏せる。
それでも、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「心配をかけてしまいましたね」
『もう大丈夫?』
「ええ」
その返事に、精霊たちは安心したように空を舞い始めた。
ルルシルとアルディオンは、精霊たちに囲まれながら森のさらに奥へと歩みを進める。
やがて木々の密度がわずかに緩み、巨大な樹の根が幾重にも地面を這う場所へ辿り着いた。
その太く張り巡らされた根が自然と空間を形作り、まるでそこだけが静かに開けているかのように見える。周囲はなおも木々に囲まれ、外界から切り離されたような神聖な気配が漂っていた。
その中心には、空へ届くほど巨大な一本の樹が静かに佇んでいる。
何百年、何千年という時を生きてきた証のように太い幹。
無数の枝葉は夜空を覆い、月明かりを優しく受け止めていた。
ルルシルが静かに足を止めると、森に集まっていた精霊たちも自然と口を閉ざした。
その幹の表面が、淡く内側から光を帯びるように揺らめく。
やがてその光はゆっくりと形を結び、人の姿を思わせる輪郭を浮かび上がらせた。
それは他の精霊とは明らかに異なる、守護樹と同じく悠久の時を生きてきた存在であることを感じさせる。
肌に見える部分は木肌でありながら柔らかな光を宿し、指先は細い枝が絡み合うように形作られている。
長く流れる髪は葉と蔦が織りなすもので、風に揺れるたびに微かな光の粒を散らしていた。
人の姿を借りながらも、その本質は大樹と一つに繋がる精霊そのものだった。
ゆっくりと瞳が開く。
その動きに合わせるように枝葉がさらさらと揺れ、森全体が優しく息をついた。
ルルシルの周囲にいた精霊たちは、自然とその場に静まり、敬意を示すようにそっと頭を垂れた。
その精霊はゆっくりと枝で形作られた指先を伸ばし、そっとルルシルの頬へ触れた。木漏れ日のように柔らかな温もりが伝わり、張りつめていた心が静かにほどけていく。
『お帰りなさい』
まるで母に頭を撫でられるような、胸の奥まで優しく満たしてくる声だった。その響きに触れた瞬間、森を満たしていたざわめきさえも静かに落ち着き、すべてが穏やかな安らぎへと包まれていく。
ルルシルは静かに微笑み、一礼する。
「ただいま。ルシェルネオルネス様」
守護樹は優しく微笑んだ。
『おいでなさい。可愛い子』
その一言だけで、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけていくようだった。
周囲の精霊たちも嬉しそうに守護樹の周りを飛び回る。
夜風が優しく木々を揺らし、森全体がルルシルの帰りを歓迎するように静かな音色を奏でていた。
ルシェルネオルネスは慈しむようにルルシルを見つめ、静かに微笑んだ。
『可愛い子よ、その小さな胸で、また誰かの悲しみを抱えてきたのですね』
その優しい声に、ルルシルは少しだけ目を伏せた。
「……はい」
「殿下が、とても苦しそうでした」
「放っては、おけませんでした」
守護樹はゆっくりと瞳を細める。
『それこそが、美しい子たる所以』
『だからこそ、この森は可愛い子を愛し、精霊たちは可愛い子の傍を離れないのでしょう』
静かな夜風が枝葉を揺らし、木々のざわめきが優しく森を満たしていく。
『ですが、可愛い子』
『誰かを支える者ほど、自らの心を労わることを忘れてはなりません』
『その小さな胸だけで、すべてを抱える必要はないのです』
その言葉に、ルルシルは静かに息を呑んだ。
お兄様も、サラも、同じようなことを口にしていた。
胸の奥に、その言葉がゆっくりと重なっていく。
「……皆、同じことを仰いますね」
思わず小さな笑みがこぼれる。
ルシェルネオルネスも穏やかに微笑んだ。
『皆、可愛い子が心配なのですよ』
『それほどまでに、可愛い子を愛しているのです』
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがふっとほどけた。
ルルシルはゆっくりと守護樹へ歩み寄る。
そして、幹へそっと額を預けた。
「……少しだけ」
「少しだけ、このままでいてもよろしいですか?」
まるで幼い子どもが母へ甘えるような、小さな声だった。
ルシェルネオルネスは何も言わず、枝で形作られた優しい指先をルルシルの頭へそっと添える。
『もちろんです』
『可愛い子が羽を休めるために、この森はあるのですから』
その温もりに包まれると、不思議なくらい心が軽くなっていく。
周囲の精霊たちも静かに見守っていた。
『ルルシル、安心したね』
『よかったぁ』
『笑った!』
『かわいい』
小さな精霊たちは嬉しそうに寄り添い、高位精霊たちも穏やかな眼差しでその様子を見つめている。
アルディオンは静かに鼻を鳴らし、小さく目を細めた。
森を吹き抜ける風はどこまでも穏やかだった。
ルルシルの瞼がゆっくりと重くなる。
今日一日張り詰めていた心がようやく安らぎを取り戻したのだ。
「……少しだけ」
「眠く、なってしまいました……」
『おやすみなさい、可愛い子』
その声に導かれるように、ルルシルは守護樹へ身体を預けたまま静かな寝息を立て始める。
『眠ったね』
『おやすみー』
『しーっ』
小さな精霊たちは声を潜め、ルルシルを囲むようにふわふわと漂う。
ルシェルネオルネスはアルディオンへ静かに視線を向けた。
『風を纏う子よ』
『迎えに来るべき子を連れておいで』
アルディオンは深く頭を垂れる。
『承知した』
白銀の身体は風となり、夜空へ静かに駆け上がっていった。
小さな花の精霊たちが眠る ルルシルの周囲へ集まる。
『あったかくしてあげよう』
『風邪ひいちゃだめだよ』
花びらが一枚、また一枚と色とりどりの花びらが舞い降りる。
やがて、毛布をかけるように、ルルシルを優しく包み込んでいった。
◇◇◇
しばらくして、夜の森へ再び足音が響く。
「ルルシル!」
アルディオンに導かれ、クレイスが息を切らせながら姿を現した。
しかし、その場に守護樹の姿はもうなかった。
ただ、悠久の時を生きる大樹だけが静かに枝葉を揺らしている。
クレイスはその姿を見ると、小さく息をついた。
「……また、甘えて眠ってしまったのか」
困ったように笑いながら、妹の前へ膝をつく。
ルルシルは穏やかな寝息を立て、安心しきった表情で眠っていた。
クレイスは銀色の髪をそっと撫でる。
「今日はよく頑張ったな」
静かに抱き上げると、ルルシルは目を覚ますことなく小さく身じろぎをした。
その様子を見守るように、小さな精霊たちが楽しそうに後をついていく。
『おやすみ!』
『また明日ね!』
『ばいばーい!』
アルディオンはクレイスの隣を静かに歩く。
夜風が森を優しく吹き抜ける中、兄は愛する妹を抱きかかえ、公爵邸への帰路についた。




