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Lumiel Princess〜精霊姫と暁炎の王子〜  作者: 香百杏
第二章 初嵐

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第十九話 精霊が帰る場所【前編】

 


 王都を出た馬車は、夕暮れに染まる街道をゆっくりと走っていた。


 西へ傾いた陽が空を茜色に染め、木々の長い影が道へ静かに伸びている。


 馬車の車輪が石畳を軽やかに鳴らし、その音だけが静かな車内へ響いていた。


 向かい合って座るルルシルとクレイスの間には、しばらく言葉がなかった。


 訓練場での出来事を思い返しているのか、ルルシルは窓の外を静かに見つめている。


 やがて、クレイスがゆっくりと口を開いた。


「……殿下は、大丈夫だったか」


 ルルシルは小さく視線を落とす。


 そして、静かに首を横へ振った。


「……そうか」


 それだけ言うと、クレイスもそれ以上は尋ねなかった。


 再び沈黙が流れる。


 馬車は王都を離れ、ヴェリテ公爵領へ入っていく。


 街並みはやがて豊かな森へと姿を変え、窓から吹き込む風もどこか柔らかくなっていった。


 その時だった。


 ふわり。


 淡い光が窓から舞い込んでくる。


『ルルシル!』


『おかえりー!』


『帰ってきた!』


 小さな精霊たちだった。


 一体、また一体と窓から入り込み、嬉しそうにルルシルの周りを飛び回る。


 そのうちの一体が、ひらりと彼女の膝へ降り立った。


『ねむい……』


 小さく呟くと、そのまま丸くなって眠ってしまう。


 ルルシルは優しく微笑み、小さな身体をそっと撫でた。


 窓の外では、鳥のような姿をした風の精霊が夕焼け空を自由に飛び回っている。


 その姿を、ルルシルは静かに目で追った。


 クレイスはそんな妹を横目で見つめ、小さく息をつく。


「……精霊は正直だな」


 ルルシルが顔を上げる。


「え……?」


「お前が帰ってきたことを、誰よりも喜んでいる」


 そう言って小さく微笑む。


 ルルシルも穏やかに微笑み返した。


 しばらく夕焼けを眺めていたクレイスは、再び静かに口を開く。


「ルルシル」


「はい」


「あまり思い詰めるな」


「殿下はまだ幼い」


「お前が気に病むことではない」


 ルルシルは優しく首を横へ振る。


「大丈夫です」


「ご心配なさらないでください、お兄様」


 その返事に、クレイスは困ったように笑う。


「お前は昔からそうだ」


「何があっても、大丈夫としか言わない」


 そう言うと、クレイスが ルルシルの額を人差し指で弾いた。


「いたっ……」


「もう、お兄様」


 ルルシルは思わず額へ手を当て、幼い子どものように頬を膨らませた。


 そんな妹を見て、クレイスは少しだけ笑った。


「今日は森の巡回も休め」


 その言葉に、窓辺にいた精霊たちが一斉にざわめいた。


『えー?』


『ルルシル来ないのー?』


『やだー!』


『いっしょに遊ぶのに!』


 不満そうにふわふわと飛び回りながら、口々に文句を言う。


 ルルシルは思わず苦笑し、小さく肩をすくめた。


「疲れただろう」


 ルルシルはすぐに首を振る。


「いいえ、お兄様」


「私も参ります」


「駄目だ」


 即座に返ってきた答えだった。


 クレイスは優しく微笑む。


「たまには、お兄様の言うことを聞くんだ」


 その言葉に、ルルシルは少しだけ考え込む。


 そして、小さく頷いた。


「……分かりました」


「それでいい」


 クレイスは安心したように息を吐いた。


 馬車は森の奥へ進み続ける。


 窓の外では、夕陽を浴びた精霊たちが楽しそうに舞い、茜色の空へ光の粒を散らしていた。


 ◇◇◇


 やがて馬車はヴェリテ公爵邸へ到着する。


 屋敷の扉が開かれると、サラが深々と頭を下げた。


「お帰りなさいませ、お嬢様、お坊ちゃま」


「ただいま、サラ」


 ルルシルは小さく微笑む。


「お湯のご用意が整っております」


「ありがとうございます」


 そのまま自室へ戻り、湯浴みを済ませる。


 温かな湯が一日の疲れをゆっくりと溶かしていく。


 湯から上がると、サラが静かにタオルを差し出した。


「本日は、いかがでしたか」


 その問いに、ルルシルは少しだけ視線を落とす。


「……殿下が」


「少し、お辛そうでした」


 サラは静かに耳を傾ける。


「ご自分を責めておられて……」


「どうしてあのように思い詰めてしまわれるのか……」


 ルルシルは小さく息を吐いた。


「私、どうすればよかったのかしら」


 サラは優しく微笑む。


「お嬢様は、いつも十分にお優しく寄り添っておられますよ」


「ですが……」


 ルルシルは首を横に振る。


「もっと、何か出来たのではないかと……」


 サラは少しだけ困ったように笑った。


「お嬢様」


「どうか、ご無理をなさらないでくださいませ」


 その言葉に、ルルシルはふっと苦笑する。


「……お兄様も、同じことを言っていたわ」


「皆、私が無理をしていると思っているのね」


 サラは穏やかに頷く。


「はい」


「お嬢様は、放っておくと頑張り過ぎてしまわれますから」


 ルルシルは少しだけ目を丸くし、そして小さく笑った。


「……そう、かしら」


「ええ」


 サラは優しく言い切る。


「ですから、どうか今夜はゆっくりお休みくださいませ」


 ルルシルは静かに頷いた。


「……ええ」


 着替えを終えたルルシルは寝室へ戻り、ベッドへ腰掛けた。


 サラが静かに寝具を整える。


「どうか今夜は、心穏やかにお過ごしくださいませ」


「ええ」


 サラは一礼し、静かに部屋を後にした。


 扉が閉まり、部屋は静寂に包まれる。


 ルルシルはゆっくりとベッドへ横になる。


 瞼を閉じる。


 けれど――眠れない。


 しばらくそのままじっとしていたが、意識は冴えたままだった。


 静まり返った部屋の中で、時計の針の音だけがやけに大きく響く。


 こつ、こつ、こつ。


 いつもなら気にも留めないその音が、今夜は妙に耳についた。


 ルルシルは小さく息を吐き、そっと寝返りを打つ。


 それでも眠気は訪れない。


 もう一度、目を閉じる。


 けれど、やはり眠れない。


 再び寝返りを打つ。


 外からは、フクロウの低い鳴き声が静かに響いていた。


 ほう……ほう……


 その声に合わせるように、ルルシルは心の中で数を数え始める。


(一つ……二つ……三つ……)


 ゆっくりと、呼吸を整えるように。


 けれど――


 数を重ねても、眠気は訪れなかった。


 脳裏に浮かぶのは、今日のカインの表情。


『どうせ俺なんて使えない王太子だ』


 その言葉だけが何度も繰り返される。


(どうして……)


(どうして、そのようにご自分を責めてしまうのでしょう……)


 胸の奥が、じわりと痛む。


 その時だった。


 ふわり、と淡い光がベッドの傍に現れる。


『ルルシル……』


 小さな精霊が、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。


『眠れないの?』


 ルルシルは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、そして柔らかく微笑む。


「……ええ、少しだけ」


 精霊はふわふわと彼女の頬の近くを漂いながら、優しく囁く。


『だいじょうぶ?』


 その声は、とてもやさしくて、あたたかかった。


 ルルシルはそっと手を伸ばし、小さな光を包み込むように受け止める。


「大丈夫よ」


「少し、考え事をしていただけ」


 精霊は安心したようにくるりと回る。


『そっか』


『でも、眠れないなら……』


 こんこん。


 窓を叩く音が重なる。


 ルルシルがゆっくりと目を向けると、小さな精霊たちが楽しそうに外を飛び回っていた。


『ルルシル!』


『おいで!』


『みんな待ってる!』


『森へ行こう!』


 ルルシルはふっと微笑む。


「……ええ」


 静かに窓を開ける。


 夜風が銀色の髪を優しく揺らした。


 精霊たちは嬉しそうに彼女の周りを飛び回る。


 ルルシルは右手を胸の前へ添え、小さく魔法を紡ぐ。


「──転移」


 足元へ淡い銀色の魔法陣が広がる。


 優しい光が部屋を包み込む。


 精霊たちの楽しげな笑い声と共に、 ルルシルの姿が静かな森へと溶けていった。

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