第十八話 揺れる王の器【後編】
ルルシルは足早に訓練場を後にした。
吹き抜ける秋風が銀色の髪を揺らし、長い廊下を静かに駆け抜けていく。
少し先を歩くカインの姿が見えた。
「カイン殿下、お待ちください」
呼びかけても返事はない。
歩みを緩めることもなく、そのまま進んでいく。
ルルシルはもう一度声を掛けた。
「殿下」
今度は足が止まった。
カインは振り返ることなく、小さく息を吐く。
「……何だ」
低く、不機嫌そうな声だった。
「説教なら聞く気はない」
「イザベルにでも言わせておけばいい」
「そのようなお話ではありません」
ルルシルは静かに首を横へ振る。
「ただ、ご気分が優れないようでしたので……心配になりました」
その言葉に、カインは自嘲するように鼻で笑った。
「心配?」
「……お前が?」
ゆっくりと振り返る。
その表情には、苛立ちと疲労が入り混じっていた。
「俺も王太子だ」
ぽつりと呟く。
「なのに、あいつはどうだ」
「アッシェンでもそうだった」
「さっきもそうだ」
「平然と精霊を連れて歩いて、精霊にまとわりつかれても顔色一つ変えない」
拳をぎゅっと握る。
「契約精霊まで従えて、精霊魔法も使える」
「まるで理想の王太子じゃないか」
吐き出すように笑う。
「……お前も、この国の王太子が精霊魔法も使えない無能だなんて嫌だろ?」
その言葉に、ルルシルは静かに目を見開いた。
「どうして、そのようなことをおっしゃるのですか」
「殿下は無能などではありません」
「王太子として、誰よりも努力なさっています」
「努力?」
カインは皮肉げに笑う。
「努力したところで、できないものはできない」
「精霊には見向きもされない」
「契約精霊もいない」
「精霊魔法も使えない」
「どうせ俺なんて使えない王太子だ」
力なく笑う。
「セシルや、あいつみたいな奴の方が国王には向いているんだろうな」
ルルシルは何も言わなかった。
ただ静かに、その言葉を受け止める。
やがて、小さく口を開いた。
「……誰かが、そのようなことを言ったのですか?」
その声音は静かだった。
だが、そこには今までにない強い感情が宿っていた。
カインは思わず目を見開く。
ルルシルが、怒っている。
幼い頃から何度も顔を合わせてきた。
それでも、これほど感情を露わにした彼女を見るのは幼少期以来だった。
◇◇◇
ふと、脳裏に王城で耳にした会話がよみがえる。
『殿下はまだ精霊魔法がお使いになれないそうだ』
『第二王子殿下はもう扱えるというのに』
『王太子としては少々不安ですな』
『ですが、ご婚約者はあのヴェリテ公爵令嬢でしょう?』
『ええ。精霊に深く愛され、精霊魔法も非常に優れておられるとか』
『妃教育も一年とかからず修了なさったと聞きます』
『まさに次代の王妃に相応しいお方ですな』
『殿下も魔法の腕は決して悪くはありません』
『ええ。いずれ良き契約精霊と巡り会えれば、精霊魔法もお使いになれるでしょう』
『その日が一日も早く訪れることを願うばかりですな』
柱の陰で足を止めた幼い日の記憶。
誰にも気づかれぬよう、その場を静かに立ち去った。
◇◇◇
カインは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
ルルシルの手に力が入り、拳が握られていた。
ふわり、と。
周囲を漂っていた小さな精霊たちが落ち着きを失い始める。
『ルルシル……?』
『どうしたの……?』
『かなしいの?』
ざわざわ、と風が揺れた。
木々の葉が音を立て、空気が少しだけ冷たくなる。
精霊たちは不安そうにルルシルの周囲を飛び回り始めた。
ルルシルは真っ直ぐカインを見つめる。
「殿下は誰よりも王族であることに誇りを持ち、その責務から逃げたことなど一度もないでしょう?」
「できないことから目を背けず、何度でも立ち上がってきたではありませんか」
「幼い頃から、私はずっと見てきました」
「誰よりも努力を重ねてきたことを知っています」
「だから、そのようにご自分を貶める言葉は聞きたくありません」
「……そんなことを言えば」
「俺の機嫌が直ると思ってるんだろ」
肩をすくめて、皮肉に笑う。その言葉に、ルルシルの瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬、息を呑むように唇がかすかに開き、驚きと痛みが入り混じった表情が浮かぶ。
「違います」
ルルシルは一歩近づく。
その距離は、幼い頃には当たり前だった距離。
「……カイン」
その呼び名に、カインの肩がぴくりと震えた。
もう何年も聞いていなかった呼び方だった。
「どうして、いつもそうやってはぐらかすんですか?」
その声は、わずかに震えていた。
「どうして、自分の努力をカイン自身が認めてあげないんですか?」
「……私は、悲しいです」
沈黙。
カインは下を向いたまま動かない。
そんな風に言ってくれる人は、もうほとんどいない。
だからこそ。
その言葉さえ、今の自分には素直に受け止められなかった。
「……俺は」
言葉が詰まる。
拳を握り締める。
「自分でも分からない」
「何でこんなにイライラするのか」
「何を見ても腹が立つ」
「……あいつに会ってから、余計にな」
アルクスレイブンの姿が脳裏に浮かぶ。
余裕のある笑み。
王太子としての振る舞い。
精霊に囲まれる姿。
そのすべてが、自分には眩しすぎた。
「……もういい」
小さく首を振る。
「俺に構うな」
そう言い残し、カインは再び歩き出した。
ルルシルは追いかけなかった。
ただ、その背中が見えなくなるまで静かに見送る。
秋風はまだ少し強い。
木々がざわめき、小さな精霊たちも落ち着かない様子で空を舞っていた。
『ルルシル……』
『だいじょうぶ?』
『かなしいの?』
ルルシルははっと我に返る。
そして、不安そうに寄り添う精霊たちへ穏やかに微笑んだ。
「驚かせてしまいましたね」
「ごめんなさい」
そっと両手を胸の前で重ねる。
「私は大丈夫ですよ」
その優しい声に、精霊たちは少しずつ落ち着きを取り戻していく。
『ほんと?』
『よかったぁ』
『えがおだ!』
風も次第に穏やかさを取り戻し、木々のざわめきは静かな葉擦れへと変わっていった。
ルルシルは澄み渡る秋空を見上げ、小さく息をつく。
(どうして……)
(どうして、いつもうまく伝えられないのでしょう)
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




