第十八話 揺れる王の器【前編】
ルルシルの背中が訓練場の扉の向こうへ消えると、その場には重たい静けさだけが残った。
誰もすぐには口を開かなかった。
先ほどまで和やかだった空気はすっかり失われ、訓練場には自主練習を続ける生徒たちの魔法音だけが静かに響いている。
やがて、イザベルが小さくため息をついた。
「もう……殿下はいつもあのようなのですわ」
その言葉に、アルクスレイブンはわずかに目を瞬かせる。
「いつも、なのですか?」
「ええ」
イザベルは困ったように微笑んだ。
「以前はもう少し穏やかでいらしたように思うのですが、ここ最近は何かと苛立っておられて……」
「今日のようなことも、一度や二度ではありませんの。……それどころか、殿下はいつもルルシルに八つ当たりなさったり、ぞんざいに扱われたりして……どうしてあのようなお振る舞いをなさるのか、わたくしには理解できかねますわ」
言い切った瞬間、イザベルははっとしたように口元を押さえた。
アルクスレイブンは静かに頷いた。
表情は穏やかなままだが、その瞳には思案の色が浮かんでいる。
(王太子でありながら、あれほど感情を露わにするとは)
(しかも、その矛先が常に婚約者へ向けられている……)
(イザベルの言葉が誇張でないのなら、単なる気分の問題ではないな)
(アッシェン滞在中にも似た様子は見たが、あの時はここまで露骨ではなかった)
(建国記念式典や舞踏会では、完璧に振る舞っていたというのに……)
(公の場では抑えられる。だが、身内や近しい者の前では崩れる)
(……それほどまでに、婚約者の存在が影響しているのか)
アルクスレイブンは、ルルシルが駆けていった方角へ静かに視線を向けた。
その横ではレグロナグラもまた、何かを感じ取ったように耳をわずかに動かしている。
しかし主と同じように、何も語ることはなかった。
◇◇◇
「ここにいたのか」
落ち着いた声とともに、クレイスとライルが訓練場へ姿を現した。
クレイスは周囲を見渡し、すぐに違和感に気づく。
「何かあったのか?」
そして、もう一度辺りを見回した。
「……ルルシルは?」
イザベルは苦笑しながら事情を説明する。
「殿下が少々機嫌を損ねられまして……」
先ほどの出来事を簡潔に話すと、クレイスは静かに息をついた。
「そうか……」
それ以上は何も言わない。
妹ならきっと放ってはおかないだろう。
そう信じているようにも見えた。
イザベルはアルクスレイブンへ向き直ると、深く頭を下げた。
「ゼイン様、申し訳ありません」
「せっかくご案内していたのに、こんなことになってしまって……」
アルクスレイブンは穏やかに首を横へ振る。
「どうかお気になさらないでください」
「どの国にも、それぞれ事情というものがあります」
「今日のことも、私は気にしておりません」
その柔らかな声音に、イザベルはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
場の空気が少しだけ和らいだのを見計らい、アルクスレイブンは隣へ立つライルへ視線を向ける。
「ライル」
「学園を見て回った感想はどうだ?」
突然話を振られたライルは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに真面目な表情へ戻った。
「想像していた以上に設備が整っております」
「実技棟も広く、訓練環境として申し分ありません」
「生徒の皆様も礼儀正しく、とても良い学園だと感じました」
その答えにクレイスは静かに頷く。
「そう言ってもらえると嬉しい」
「学園長をはじめ、多くの者が誇りを持って運営している学園だからな」
イザベルも嬉しそうに微笑む。
「フィオレイン王立魔法学園は、国内でも最も歴史ある学園ですもの」
「皆、この学園に入学することを目標に努力しておりますわ」
ライルは静かに頷いた。
「その理由がよく分かりました」
その言葉に、イザベルの表情がさらに明るくなる。
「ああ、そうでしたわ」
何かを思い出したように、イザベルはそっと手を合わせた。
「もうすぐ学園では、毎年恒例の『秋の狩猟大会』が開催されますの」
「狩猟大会?」
ライルが首を傾げる。
アルクスレイブンも興味深そうにイザベルへ視線を向けた。
「どのような行事なのですか?」
「フィオレイン王立魔法学園を代表する伝統行事ですわ。春の舞踏会と並び、生徒たちが最も楽しみにしている催しの一つですの」
「男子生徒は指定された森へ入り、決められた獲物を狩ります」
「使用できる武器は弓矢のみ。魔術の使用は禁止されておりますわ」
「獲物も魔物ではなく、鹿や兎などの一般的な動物に限られておりますので、純粋な狩猟技術や判断力、精神力が試されるのです」
「なるほど」
アルクスレイブンは感心したように頷く。
「では女子生徒は?」
「わたくしたちは学園で催されるお茶会や交流会へ参加いたします」
「王族や貴族としての教養や社交性を深める、大切な時間となっておりますわ」
イザベルはそこで少し微笑み、どこか楽しげな表情を浮かべた。
「そして狩猟大会の後には、もう一つ大切な伝統がございますの」
「伝統?」
ライルが聞き返す。
「男子生徒は、その日に狩った獲物を婚約者、あるいは恋人へ贈るのですわ」
「贈られた獲物は、数や大きさ、希少性、さらには狩猟技術などを総合的に審査されます」
「最も優れた贈り物を受けた女性には、『秋のクイーン』の称号が授けられるのです」
「秋のクイーン……」
アルクスレイブンは静かにその名を繰り返した。
「ええ。その年の学園を象徴する女性として、多くの生徒の憧れとなる称号ですわ」
「そして、その日の夜には秋の舞踏会が開催されます」
「秋のクイーンと、その獲物を贈った男子生徒は、代表として最初の一曲を踊る栄誉を与えられるのです」
「学園最高の名誉の一つ、と言っても過言ではありませんわ」
ライルは素直に感嘆の声を漏らした。
「ずいぶん由緒ある行事なのですね」
「ええ。それだけではございませんの」
イザベルは少しだけ声を潜め、どこか神秘的な笑みを浮かべる。
「学園には古くから、このような言い伝えがございます」
「『秋の舞踏会で代表として踊った二人は、生涯固い絆で結ばれる』――と」
「真偽は分かりませんけれど、恋人や婚約者のいる生徒にとっては、とても特別な意味を持つ行事なのですわ」
アルクスレイブンは静かに頷いた。
「実に興味深い行事ですね」
「ええ」
イザベルは笑顔で続ける。
「ゼイン様もライル様も、きっとご活躍なさることでしょう」
「良い成績を収められるよう、お祈りしておりますわ」
ライルは少し照れたように頭を下げる。
「ありがとうございます」
アルクスレイブンも穏やかに微笑んだ。
「期待に添えられるよう努力いたします」
クレイスは小さく笑う。
アルクスレイブンが笑みを返すと、その場の空気は先ほどまでの重苦しさが嘘のように和らいだ。
秋風が廊下を吹き抜け、木々の葉を優しく揺らしていく。
四人は穏やかに談笑を続けながら、学園の案内を再開した。




