第十五話 胸の奥の苛立ち
城下町の市場は、多くの人々で賑わっていた。
露店からは焼き菓子の甘い香りが漂い、あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
カインは人混みを見回し、小さく息を吐いた。
「俺は少し別の店を見てくる」
そう言うと、後ろに控えていたクレイスが一歩前へ出る。
「承知いたしました、殿下」
それだけだった。
止めることも、理由を尋ねることもない。
ただ当然のようについて来る。
(……護衛だからな)
分かっている。
王族である以上、一人で行動できないことくらい。
それでも今は、誰とも話したくなかった。
◇◇◇
装飾品店へ足を踏み入れる。
棚には髪飾りや首飾り、小さなガラス細工が所狭しと並べられていた。
「贈り物をお探しですか?」
店主が笑顔で声を掛けてくる。
「ああ」
「女性への贈り物でしたら──」
「適当に見せてくれ」
店主は慣れた様子でいくつかの商品を並べ始める。
花を模した髪飾り。
小さな耳飾り。
色鮮やかなブローチ。
どれも綺麗だった。
だが、どれを見ても決め手がない。
(エミリーなら喜ぶか)
一つ手に取る。
可愛らしい小花の髪飾り。
素朴で、華美すぎない。
「こちらにいたしますか?」
「ああ」
短く答える。
包装されていく様子を眺めながらも、不思議と胸は晴れなかった。
◇◇◇
店を出る。
市場は相変わらず賑やかだった。
親子連れ。
恋人同士。
笑い合う夫婦。
皆、楽しそうに歩いている。
その中を無言で歩く自分とクレイス。
「……」
ふと横を見る。
クレイスはいつものように穏やかな表情で周囲へ目を配っていた。
(何だ、その顔)
別に笑っているわけでもない。
怒っているわけでもない。
それでも、何か言いたそうに見える。
「何だ」
「いえ」
短い返事。
「何でもありません」
(その顔が気に入らない)
何も言わないくせに。
全部分かっているような顔をする。
昔からそうだ。
子どもの頃から、クレイスは何も言わなくても俺の考えていることを見透かしているようだった。
(……腹が立つ)
自分でも理由は分からない。
それでも、今日は妙に苛立って仕方がなかった。
◇◇◇
王城へ戻ると、ほどなくして夕食会が始まった。
各国の王族や貴族たちが和やかに談笑する中、カインは黙って食事を口へ運ぶ。
「あっ!」
突然、セシルが声を上げた。
「そうでした!」
席を立ち、小さな箱を抱えてルルシルのもとへ駆け寄る。
「ルルシルお姉様!」
「今日、市場で選んだ髪飾りです!」
「アルクスレイブン殿下にも一緒に選んでいただいたんですよ!」
その言葉に、自然と視線が向く。
ルルシルは箱を開き、小さく微笑んだ。
「……とても素敵です」
「ありがとうございます」
「大切にいたします」
その笑顔は、穏やかで、嬉しそうだった。
アルクスレイブンも静かに微笑み、
「私は少し助言をしただけです」
と謙遜する。
周囲は微笑ましい空気に包まれていた。
なのに。
(……何なんだ)
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
分からないまま、食事の味さえしなくなっていた。
◇◇◇
夕食会が終わり、それぞれが自室へ戻る。
静かな廊下を歩いていたカインは、不意に足を止めた。
「……訓練場へ行く」
隣を歩いていたクレイスがわずかに目を瞬かせる。
「今からですか」
驚いたような、それでいて静かな問い掛けだった。
「ああ」
短く返す。
クレイスは一瞬だけカインを見つめる。
その表情は、心配しているようにも、困っているようにも見えた。
(……また、その顔か)
胸の奥が、さらに苛立つ。
「何だ」
「……いえ」
クレイスは小さく首を横へ振った。
「お供いたします」
二人は並んで夜の訓練場へ向かう。
夜風だけが静かに吹き抜けていた。
◇◇◇
夜風が頬を撫でる。
人気のなくなった訓練場で、カインは木剣を構えた。
「始めるぞ」
「承知いたしました」
クレイスも静かに構える。
間合いを詰めたのはカインだった。
鋭く踏み込み、一気に木剣を振り抜く。
乾いた音が夜の空気を震わせた。
だが、その一撃は受け止められる。
クレイスは表情一つ変えず、木剣を受け流した。
すぐに二撃目。
三撃目。
いつも以上に力が入る。
速さも、重さも。
それでもクレイスは慌てない。
無駄なく受け、無駄なく返す。
(……気に入らない)
その落ち着きが。
何も言わないところが。
まるで自分だけが感情的になっているようで。
「もっと来い!」
カインは叫びながら踏み込む。
しかし、その瞬間。
わずかに重心が前へ流れた。
その隙を、クレイスは見逃さなかった。
木剣が肩へ軽く触れる。
「……一本」
クレイスは静かに木剣を下ろした。
カインは舌打ちをする。
「もう一度だ」
「承知いたしました」
また、それだけ。
また、何も言わない。
「……お前」
木剣を構えたまま、カインが低く呟く。
「何だ、その顔は」
クレイスは少しだけ首を傾げた。
「顔、でございますか」
「分からないとは言わせない」
「さっきからそうだ」
「何か言いたそうな顔をしている」
しばらく沈黙が流れる。
やがてクレイスは静かに息をついた。
「……殿下」
「私は、何も申し上げるつもりはございません」
「ですが」
一度言葉を切る。
「お疲れなのではないかと、少し気になりました」
その一言だけだった。
責めるでもない。
諭すでもない。
ただ心配している。
それだけなのに。
「……っ」
胸の奥がざわつく。
カインは乱暴に木剣を振るった。
「余計なことを考えるな!」
「俺は疲れてなんかいない!」
何度も打ち込む。
木剣がぶつかる音だけが夜に響く。
だが、力任せの剣では届かない。
また一本。
また一本。
結局、一度もクレイスへ有効打を与えられなかった。
◇◇◇
「……終わりだ」
木剣を地面へ突き立て、カインは大きく息を吐く。
汗が額を伝い、呼吸も乱れていた。
クレイスは木剣を戻すと、静かに一礼した。
「ありがとうございました」
「……ああ」
二人は訓練場を後にする。
夜空には満天の星が広がっていた。
しばらく無言で歩く。
やがて、クレイスが口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「明日はご帰国です」
「今日は早めにお休みください」
「……」
カインは返事をしない。
それでもクレイスは、それ以上何も言わなかった。
その沈黙が、かえって胸に刺さる。
(まただ)
(何も言わない)
(昔からそうだ)
幼い頃。
剣の稽古で負けた時も。
父王に叱られた時も。
婚約が決まった日も。
クレイスは余計なことを言わず、ただ隣に立っていた。
その姿が、今日は妙に腹立たしい。
◇◇◇
自室へ戻る。
机の上には、小さな包みが置かれていた。
エミリーへの土産。
「……」
手に取る。
これを渡せば、きっと喜んでくれる。
そう思って選んだはずだ。
なのに、頭へ浮かぶのは別の光景だった。
夕食会。
セシルが嬉しそうに髪飾りを差し出した。
ルルシルが微笑んだ。
『ありがとうございます』
『大切にいたします』
その笑顔が、何度も頭の中で繰り返される。
そして、
『アルクスレイブン殿下にも一緒に選んでいただいたんですよ!』
というセシルの声。
カインは眉をひそめた。
「……何なんだ」
思わず呟く。
胸の奥が、またざわつく。
気に入らない。
何が気に入らないのかも分からない。
エミリーのことを考えようとしても、気付けばルルシルの笑顔ばかり思い出してしまう。
「……くだらない」
そう言って包みを机へ戻した。
窓を開ける。
アッシェンの涼しい夜風が部屋へ流れ込み、火照った体をゆっくりと冷ましていく。
それでも胸の奥だけは、少しも静まらなかった。
カインはまだ、自分の感情の名前を知らない。
その小さな違和感が、これから少しずつ彼自身を変えていくことになるとは、まだ誰も知らなかった。




