第十二話 精霊と生きる国【前編】
建国記念式典と舞踏会を終えた翌朝。
アッシェン王城の上には、雲ひとつない澄み切った青空が広がっていた。
窓を開けると、ひんやりとした朝の風が部屋へ吹き込み、庭の木々の葉をさらさらと揺らす。遠くからは小鳥のさえずりが聞こえ、静かな朝の気配が広がっていた。
夏だというのに暑さはほとんど感じられず、涼やかな空気が城全体を包んでいる。
朝食を終えたルルシルは、サラとともに王城の玄関ホールへ向かう。
高い天井の下、磨き上げられた大理石の床が静かに足音を返していた。
そこにはすでにカイン、セシル、クレイス、執事のレオンが集まっていた。
「おはようございます、ルルシルお姉様!」
セシルが嬉しそうに駆け寄り、一礼する。
「おはようございます、セシル殿下」
ルルシルも穏やかに微笑み返した。
「昨夜はよくお休みになれましたか?」
「はい! 昨日はとても楽しかったので、ぐっすり眠れました」
その無邪気な笑顔に、ルルシルの表情も自然と和らぐ。
その横で、カインは軽く欠伸を噛み殺しながら壁にもたれていた。
腕を組み、どこか気だるげに視線を泳がせている。
「……朝から元気だな」
ぼそりと呟く声には、まだ残る眠気が滲んでいた。
やがてフィオレイン国王エドワード、王妃マクベリア、ヴェリテ公爵オルフェウスが姿を現した。
その後ろには、アッシェン国王と王妃、そしてアルクスレイブンの姿もある。
整えられた衣装が場に静かな威厳を与えていた。
「皆様、おはようございます」
アッシェン国王が穏やかに口を開いた。
「本日は城下町をご覧いただく予定です」
「私どもは外交会談がございますので、子どもたちの案内は息子へ任せることにいたしました」
そう言って隣へ立つアルクスレイブンを見る。
アルクスレイブンは一歩前へ出て、美しく一礼した。
「本日は私がご案内いたします」
「短い時間ではございますが、アッシェン王国を楽しんでいただければ幸いです」
ルルシルたちも丁寧に一礼を返した。
「よろしくお願いいたします」
そのやり取りの間、カインは軽く首を傾けながらアルクスレイブンを眺めていた。
話を聞いてはいるものの、どこか上の空で、時折視線が天井や窓の外へと逸れている。
長い説明になりそうだと察したのか、小さく息を吐いた。
◇◇◇
最初に案内されたのは、王城の奥庭だった。
石畳の道には朝露がわずかに残り、踏みしめるたびにかすかな湿り気を感じる。
その道を進むと、やがて視界いっぱいに一本の巨大な楓が現れる。
幹は何人もの大人が手を繋いでも囲みきれないほど太く、その枝は大きく広がり、青々とした葉が風に揺れていた。
葉擦れの音が静かに響き、木陰にはひんやりとした空気が満ちている。
「わぁ……」
セシルが思わず声を漏らす。
「昨日も見えましたが、近くで見るともっと大きいですね」
アルクスレイブンは神木を見上げ、静かに頷いた。
「こちらは建国以前からこの地に根を張る神木です」
「アッシェン王国で最も神聖な場所とされています」
ルルシルも静かに神木を見上げる。
揺れる葉の隙間から差し込む風が頬を撫で、どこか懐かしい気配を感じさせた。
「文献で拝見したことがございます」
「建国の楓、と呼ばれているのですよね」
アルクスレイブンは少し驚いたようにルルシルを見た。
「ご存じでしたか」
「はい」
「アッシェン王家の歴史と共に歩んできた神木だと学びました」
「さすがですね」
アルクスレイブンは穏やかに微笑む。
「その通りです」
「この神木は、私たち王家にとって特別な存在です」
セシルは神木を見上げながら尋ねた。
葉が揺れるたびに、さらさらとした音が耳に心地よく届く。
「昨日、国王陛下が祈りの舞を奉納されていましたが、あれもこの神木に関係しているのですか?」
「ええ」
アルクスレイブンは静かに頷いた。
「王は即位の日、この神木の前で民と国を守ることを誓います」
「そして、その日から崩御するまで一度も髪を切りません」
セシルは目を丸くした。
「髪を切らない理由は、そこにあったのですね」
「はい」
アルクスレイブンは神木へ視線を向ける。
「崩御した国王は、その長く伸ばした髪を神木へ奉納します」
「髪には、その者が王として歩んだ年月と想いが宿ると考えられているからです」
クレイスも感心したように呟く。
「とても美しい風習だな」
アルクスレイブンは穏やかに続けた。
「奉納には二つの意味があります」
「一つは、長きにわたり王を見守ってくれた神木へ、『ここまで国を治めることができました』と感謝と報告を捧げること」
「そしてもう一つは、『どうか次代の王も、民を想い、良き政治を行えますように』と未来へ願いを託すことです」
その説明が続く間、カインは少し後ろで立ったまま、ぼんやりと神木を見上げていた。
腕を組んだまま、時折視線を外し、足先で小石を軽く蹴る。
話の内容は耳に入っているはずなのに、どこか興味が薄い様子だった。
「……長いな」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、軽く肩を回す。
それでも完全に無視するわけでもなく、要点だけは拾っているようで、時折アルクスレイブンへ視線を戻していた。
ルルシルは静かに耳を傾けていた。
葉擦れの音に包まれながら、木漏れ日が揺らめく光となって足元や頬を優しく照らし、その言葉を一つひとつ受け止める。
「歴代の国王陛下の想いが、この神木へ受け継がれているのですね」
「ええ」
アルクスレイブンはゆっくりと頷く。
「この神木は、王家の歴史そのものです」
「だからこそ、私たちは代々この場所を大切に守り続けています」
その時、小さな気配が神木の枝へ集まり始めた。
ふわりとした存在が葉の間を舞い、楽しげな声が響く。
『おはよう!』
『今日も元気だね!』
『また遊びに来たよ!』
神木の周りを飛び回る精霊たちは、とても楽しそうだった。
ルルシルは思わず微笑む。
「皆さん、神木へ朝のご挨拶をしているそうです」
セシルが目を輝かせる。
「そうなのですか?」
「はい」
「『今日もよろしくね』『また会いに来たよ』とお話しされています」
アルクスレイブンは神木と精霊たちを見つめ、小さく笑みを浮かべた。
「……やはり、あなたには精霊たちの声が聞こえるのですね」
「はい」
ルルシルは頷く。
「とても楽しそうです」
すると、神木の枝に座っていた一匹の精霊が大きな幹を抱きしめながら笑った。
『神木さん、おじいちゃんみたい!』
『いつも見守ってくれてありがとう!』
ルルシルはその言葉を聞いて、思わず笑みをこぼした。
「神木は、皆さんにとって『おじいちゃん』のような存在だそうです」
一瞬、静寂が流れる。
風が葉を揺らし、さらさらとした音が広がる。
アルクスレイブンは驚いたように目を瞬かせたあと、小さく笑った。
「……言い得て妙ですね」
その隣でレグロナグラが鼻を鳴らす。
『間違ってはいない』
『あやつは、この国が生まれるより前から我らを見守っている』
その一言に、セシルは感嘆の声を漏らした。
「精霊たちにとっても、大切な存在なのですね」
「はい」
アルクスレイブンは静かに頷く。
「アッシェン王国は、人も精霊も、この神木に見守られながら生きています」
神木を吹き抜ける涼しい風が、青々とした葉を優しく揺らした。
その音は、どこか穏やかな呼吸のようにも感じられる。
やがてアルクスレイブンは一行を振り返る。
「それでは、城下町をご案内いたします」
「アッシェンの人々が精霊とどのように暮らしているのか、ぜひご覧ください」
ルルシルたちは頷き、神木へもう一度静かに一礼すると、庭を後にし、城門の外へ向かって歩き始めた。




