第十話 アッシェン王国へ【前編】
休日の朝。
ヴェリテ公爵家の屋敷では、朝早くから侍女たちが慌ただしく動いていた。
「お嬢様、本日はアッシェン王国の建国記念式典でございます」
サラは恭しく頭を下げながら、丁寧に仕立てられたドレスを手に取る。
「ええ」
ルルシルは静かに頷いた。
今日はフィオレイン王国の外交使節団の一員として、初めてアッシェン王国を訪れる日だった。
王太子カインの婚約者という立場での出席であり、王族に準ずる礼節が求められる。
鏡の前へ立つルルシルを見ながら、サラが優しく微笑む。
「とてもお似合いでございます」
ルルシルが身に纏うのは、フィオレイン王国の正装であるドレス。
首元は詰まったデザインで、小さなリボンが控えめに結ばれている。
肩にはふんわりとしたパフスリーブが施され、長袖の布地が腕を優雅に包み込む。
裾は足元を完全に隠すほど長く、緩やかに広がるAライン。
その色は、淡い灰色にも見える銀色で、光を受けるたびに静かに輝いた。
刺繍と宝石が施された繊細なレースが幾重にも重なり、動くたびに柔らかな光を反射する。
髪は上半分をまとめたハーフアップに整えられ、金色の楓を模した髪飾りが添えられていた。
今日訪れる国への敬意を表した装いだった。
「ありがとう」
ルルシルは微笑み、小さく頷いた。
◇◇◇
王城へ到着すると、外交使節団はすでに出発の準備を整えていた。
国王エドワード。
王妃マクベリア。
第一王子カイン。
ヴェリテ公爵オルフェウス。
クレイス。
そして。
「ルルシルお姉様!」
弾むような声が響き、小柄な少年が駆け寄ってくる。
柔らかな金髪と澄んだ青い瞳。
第二王子セシル・フィオレインだった。
「お久しぶりでございます、セシル殿下」
ルルシルが一礼すると、セシルも嬉しそうに笑う。
「お会いできて嬉しいです」
「私もです、セシル殿下」
その様子を少し離れた場所から見ていたカインは、腕を組んだまま視線を逸らした。
どこか機嫌が悪そうな表情だった。
ルルシルは一瞬だけ気になったものの、何も口にはしなかった。
「皆、揃ったようだな」
エドワード国王の声に、一同は姿勢を正す。
「本日はアッシェン王国の建国記念式典へ参列する」
「両国の友好を深める大切な場だ」
そしてルルシルへ穏やかな視線を向ける。
「ルルシル、同行してくれることに感謝する」
「ありがとうございます、陛下」
「微力ながら、お役に立てるよう努めます」
エドワードは満足そうに頷くと、今度はカインへ目を向けた。
「カイン」
「……はい」
「外交の場では、フィオレイン王国の王太子として見られる」
「感情を顔へ出し過ぎぬよう心掛けなさい」
カインは僅かに眉を動かした。
「……承知しました」
◇◇◇
エドワードは懐から一通の招待状を取り出した。
深紅の封蝋には、狼と楓が一体となった円形の紋章が刻まれている。
セシルは目を輝かせた。
「お姉様、この紋章はアッシェン王国の国旗にも描かれているものですよね?」
ルルシルは優しく頷く。
「はい」
「アッシェン王家の家紋であり、国章でもあります」
「国旗にも同じ紋章が用いられているのですよ」
「狼が王家を表しているのですか?」
「ええ」
「狼は王家の守護と勇気の象徴」
「そして楓は、この国の豊かな自然を表しています」
セシルは感心したように声を漏らした。
「楓が国の象徴なのは、どうしてですか?」
「アッシェン王国は、フィオレインとは気候が少し違うのです」
ルルシルはゆっくりと説明を続ける。
「フィオレインも四季はございますが、春と夏が長く、秋と冬は短めです」
「一方でアッシェンは、春は穏やかで、夏も比較的涼しく過ごしやすい国です」
「そして秋と冬が長く続きます」
「秋には国中が紅葉で染まり、とても美しい景色になるそうですよ」
セシルは目を輝かせた。
「だから楓なのですね!」
「はい」
ルルシルは微笑む。
「燃えるような紅葉が国中を包むことから、この国は『暁に燃える炎』にも例えられるそうです」
「とても素敵な国ですね」
その会話を聞いていたクレイスが穏やかに笑う。
「さすがルルシルだ」
「本で読んだ知識だけでは、そこまで自然には説明できない」
ルルシルは少し照れたように微笑んだ。
「幼い頃から興味がありましたので」
◇◇◇
「さて」
エドワードが招待状を掲げる。
「今回はアッシェン王国からの粋な計らいがある」
「この招待状には、高位転移魔法が施されている」
セシルが驚いて目を丸くした。
「招待状に魔法が?」
「国家間の正式な外交だからこそ使われる特別な魔法だ」
オルフェウスが説明する。
エドワードは右手にはめた王家の指輪へ魔力を流し込んだ。
中央へ埋め込まれた高純度の魔石が淡く輝き始める。
「皆、近くへ」
一同は互いに腕を組み、魔法陣の中心へ集まった。
ルルシルの隣にはセシル。
反対側にはクレイスが立つ。
「失礼いたします、お姉様」
「ええ」
次の瞬間。
足元へ巨大な魔法陣が展開した。
幾重にも重なる紋様が黄金色の光を放ち、周囲の空気が静かに震え始める。
眩い光が一行を包み込み、視界が真っ白に染まった。
◇◇◇
ゆっくりと光が消える。
目の前に広がっていたのは、巨大な石造りの国境門だった。
その中央には、狼と楓が一体となった美しい紋章が掲げられている。
澄みきった風が頬を撫で、どこかひんやりとした空気が肌を包んだ。
「ここが……アッシェン王国」
ルルシルは静かに呟く。
門の前には、赤を基調とした制服を身に纏った使節団と豪華な馬車が待機していた。
一人の使者が恭しく一礼する。
「フィオレイン王国の皆様、お待ちしておりました」
「ようこそ、アッシェン王国へ」
こうして、ルルシルにとって初めてのアッシェン王国への訪問が始まった。




