第九話 夢見る少女
女子寮へ続く石畳を、エミリーは一人歩いていた。
夕暮れの風が頬を撫でる。
けれど、その心は少しも落ち着かなかった。
「怒ったカイン様……初めて見たわ」
バラ園で見せた、あの表情。
穏やかで優しいカインが、あれほど感情をあらわにする姿など見たことがない。
「どうして、あんなに怒っていたんだろう……」
思い返す。
ルルシル。
精霊。
そして、カインの言葉。
「なんでお前ばかりなんだ!」
エミリーには精霊は見えない。
けれど、ルルシルの周りには、いつも淡くきらめく光が漂っているように見えていた。
「あれが……精霊なのかな」
今まで深く考えたことはなかった。
精霊が見えない者にとって、それは当たり前のことだったからだ。
けれど今日は、その光が少しだけ気になった。
「明日、ルルシル様に会ったら、どんな顔をしたらいいんだろう……」
小さくため息をつきながら、女子寮の扉を開けた。
◇◇◇
「……ただいま」
部屋へ入ると、窓際で本を読んでいたルームメイトが顔を上げる。
「おかえり」
短いやり取りだけで、会話は終わった。
二人部屋ではあるものの、特別仲が良いわけではない。
相手は伯爵家の令嬢。
平民出身のエミリーとは、どこか距離があった。
エミリーも無理に話しかけることはしない。
荷物を置き、制服のままベッドへ腰を下ろす。
柔らかな寝具へ身を預けると、大きく息を吐いた。
「……ここは、静か」
天井を見上げながら、小さく呟く。
「孤児院にいた頃より、ずっと静かだな」
その言葉とともに、遠い記憶がゆっくりと蘇っていく。
◇◇◇
幼い頃。
エミリーは母と二人で暮らしていた。
父はいなかった。
物心ついた頃には、すでにいなかったのだ。
母は酒屋で働く平民の女性だった。
忙しく働きながらも、いつも優しく、エミリーを大切にしてくれた。
父のことを尋ねたことがある。
そのとき母は、少しだけ困ったように笑って言った。
「素敵な人だったわよ」
それ以上は語らなかった。
けれど、後になって知ることになる。
父は、没落した貴族の出だった。
すでに家は潰れ、家紋も失われ、身分としては平民と変わらない存在。
それでも、かつて貴族だったという意識だけは残っていた。
そんな父と、平民の母。
身分違いの恋だった。
そして、エミリーが生まれた。
けれど父は、二人を置いて去った。
理由は分からない。
ただ、残されたのは母とエミリーだけだった。
それでも母は、何も恨むことなく、ただ静かに生きていた。
小さな木造の家。
雨が降ると屋根からぽたぽたと水が落ちるような、決して立派とは言えない家だった。
それでも、そこには温もりがあった。
「エミリー、今日はパンが少し安かったのよ」
母は嬉しそうに笑いながら、少しだけ焦げたパンを差し出す。
「ほんと? やった!」
二人で分け合って食べるそのパンは、どんなご馳走よりも美味しかった。
夜になると、母はエミリーを膝に乗せて、昔話を聞かせてくれた。
「いつかね、エミリーも素敵な場所に行けるわ」
「素敵な場所?」
「ええ。優しい人たちに囲まれて、笑っていられる場所」
その言葉の意味はよく分からなかったけれど、母の声はとても優しくて、安心できた。
だから、エミリーは母が大好きだった。
けれど、その幸せは突然終わった。
母は病に倒れ、あっという間にこの世を去った。
最後に握った手の温もりだけが、今でも忘れられない。
◇◇◇
母を失ったエミリーは、父方の祖母の家へ引き取られた。
そこは広く、立派な家だった。
かつては貴族だった名残なのだろう。
けれど、そこに温もりはなかった。
「なんであんたを養わなきゃいけないんだい」
祖母は顔をしかめながら言った。
「あの女の子どもなんて、ろくなものじゃない」
叔母も冷たい目で見下ろす。
母を嫌っていたのだ。
平民の女が息子をたぶらかしたことを、ずっと許していなかった。
その血を引くエミリーもまた、疎ましい存在だった。
叔母の子どもたちも、エミリーをからかった。
「平民のくせに」
「汚い子」
笑いながら押したり、物を隠したりする。
エミリーは何も言い返せなかった。
エミリーに与えられたのは、小さな物置のような部屋だった。
窓は小さく、日もほとんど差し込まない。
朝は誰よりも早く起きて、水汲みや掃除、洗濯をこなす。
食事は残り物。
時には何も与えられない日もあった。
「まだ終わってないの?」
「手が遅いね」
少しでも手を止めれば、すぐに叱責が飛ぶ。
皿を割ってしまった日には、頬を叩かれた。
痛みよりも、どうして怒られるのか分からないことの方が辛かった。
夜、冷たい床に横になりながら、エミリーは何度も思った。
どうして自分はここにいるのだろう、と。
ある日。
「もう育てられない」
祖母はそう言い放った。
その言葉に、エミリーは何も感じなかった。
ただ、少しだけほっとした。
◇◇◇
孤児院。
最初は怖かった。
知らない人ばかり。
知らない場所。
けれど。
「大丈夫よ」
「ここではみんな家族だからね」
施設長の女性は、優しく微笑んでくれた。
その笑顔は、母のものに少しだけ似ていた。
同じ年頃の子どもたちと遊び、笑い合う日々。
騒がしくて、賑やかで、時には喧嘩もしたけれど。
それでも、そこには確かな温もりがあった。
ある日のことだった。
庭で遊んでいたとき、年下の子が転び、泣き出した。
「だ、大丈夫?」
慌てて駆け寄る。
膝から血が滲んでいた。
どうにかしてあげたい、と強く願ったそのときだった。
ふと、手にしていた古い鍋をぎゅっと握りしめる。
さっきまで遊び道具代わりに持っていたものだ。
どうすればいいのか分からないまま、ただ必死に願った。
――痛いの、なくなって。
その瞬間。
鍋の底から、ふわりと温かな光が溢れ出した。
その光が、泣いている子の膝を包み込んだ。
血が止まり、痛みも和らいでいく。
「……え?」
自分でも何が起きたのか分からなかった。
周囲にいた子どもたちも、驚いたように目を見開いている。
そこへ、施設長が駆け寄ってきた。
「今の……あなたがやったの?」
「わ、わからない……でも、光って……」
震える声で答えるエミリーを、施設長はじっと見つめた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「魔道具を通して魔力を流したのね。すごいわ」
「その鍋、底に小さな魔法石が埋め込まれているでしょう?」
「本来は簡単な加熱や保温に使うものだけれど、あなたはそこに自分の魔力を流し込んで、治癒の力として発現させたのよ」
「まほう……?」
「ええ。あなたには、魔力の素質があるのよ」
その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
自分にも、何かできることがあるのかもしれない。
そう思えたのは、初めてだった。
◇◇◇
十六歳になり、魔力測定で高い適性が認められた。
その結果、特待生としてフィオレイン王立魔法学園へ入学することになった。
入学式の日。
大勢の新入生が見守る中、壇上へ二人の生徒が上がる。
一人は、第一王子カイン・フィオレイン。
王族代表として、学園長に入学の決意の言葉を贈る。
堂々とした立ち姿は、まさに王子様そのものだった。
「素敵……」
思わず見惚れてしまった。
そしてもう一人。
新入生主席として答辞を述べたのが、ルルシル・ヴァン・ヴェリテだった。
銀色の髪を揺らし、落ち着いた声で言葉を紡ぐ姿は、とても美しかった。
式が終わると、周囲から小さな声が聞こえてくる。
「さすがヴェリテ公爵令嬢ですわ」
「やはり素晴らしい答辞でしたね」
エミリーはその様子を見ながら思った。
「本当に綺麗な人」
それが、ルルシルへの最初の印象だった。
周囲が口にするほど特別な存在には見えなかった。
綺麗で、優秀で、おしとやかな公爵令嬢。
そのくらいの認識だった。
だからこそ、今でも不思議だった。
どうして、みんなあんなにもルルシルを特別視するのだろう。
今日だって。
カインは精霊のことを口にしていた。
自分には見えない世界があるのだろうか。
「……分からないな」
小さく笑う。
けれど、一つだけ分かることがあった。
あの日、壇上で見た王子様に恋をしたこと。
それだけは、今でも変わらない。
窓の外には、夕焼けに染まる王城が見えていた。
「私も、いつか……」
言葉は途中で止まる。
少し照れくさそうに笑って首を振った。
「ううん」
「今日はもう寝よう」
ベッドへ横になる。
胸の奥には、小さな憧れが残ったまま。
エミリーは静かに瞳を閉じた。




