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霊魂歌姫(魂の歌姫/サイバー・シンガー)  作者: 林 若川(はやし わかがわ/Rhine Jackson)
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第2話 周波数の外側、凍てる夏

星暦六二〇二年、仲夏。


武江京の熱気と湿度が混ざり合い、あらゆる音を大気中に溶かしてゆくかのように立ち昇っている。下京区の密集した建築群の中に、錆びついた二階建ての鋼鉄建築がひっそりと佇んでいた。


ここは誠の祖父が遺した遺産――『玄音音響研究所』。一階の重いシャッターは半開きで、廃棄された義体パーツが山積みになり、外から見れば廃業寸前の旧式ガレージにしか見えない。だが、二階と地下室では、外界のネットワークと同期を断たれた数本の模擬真空管(アナログ・バルブ)が、静かに熱を帯びていた。


空気には期限切れのコンビニおにぎりの酸っぱい臭いに加え、誠がハンダ付けをした後に残る、金属質の苦い松脂の残り香が混じり合い、この都市の孤島に漂う、ある種の尊厳を纏った混濁感が漂っている。


緋は二階のボロボロのソファに沈み込み、下顎から滴り落ちた一滴の汗が、熱を帯びたアンプの外装に触れて「チッ」という微かな音を立てた。汗は一瞬で一筋の白煙となって消える。彼女は色褪せた細長い窓の先へと視線を向けた。無数の不法な配線が巨大な黒い蜘蛛の巣のように路地を横切り、窓の外の巨大なバーチャルディーヴァ『汐』を、瞬く断片へと切り裂いていた。


【登録者数:582】


モニター上で鈍く這い回る数字は、嘲笑そのものだった。『国響メディア』を去って三ヶ月。歌い終えるたびに、緋の声にはどうしても『汐』特有の完璧さ――精密な訓練によって聴衆の脳内にドーパミンを引き出す、あの甘美な震え――が不意に流露してしまう。それは、肉体に刻み込まれた呪いのような慣性だった。


「登録者数、伸び悩んでるなぁ」


絵が液タブに向かって呟く。指先を三本切り落とし、使い古した黒い作業用グローブを嵌め、画面を八〇〇パーセントまで拡大して、キャラクターの目尻にある一つのノイズをデジタルブラシで丁寧に修正していた。


「国響のレンダリングエンジンは、あらゆる不安感を抹殺してしまう」砂を噛むような声で、繪は呟いた。「でも、私は見せつけたいの。『暁』の瞳には、埃が混じっているんだってことを」


「国響に俺たちを訴える気はないらしい」


ずっとサーバーを注視していた誠が不意に口を開いた。汚れたタンクトップで顔についた煤を無造作に拭う。「奴らにとって、俺たちは脅威ですらない。ただ、貧困と沈黙の中で静かに干からびていくのを高みの見物しているだけさ」


「行こう。下で試す。上の環境信号はノイズが多すぎる」


誠がそう言って、地下室へと続く隠し扉を押し開けた。


五人は狭い間隔を詰め、急勾配の鉄梯子を降りていく。 空気は一瞬で乾燥し、微かな温かみを帯びた。分厚いコンクリートの壁が外界のあらゆる信号を遮断し、暗闇の中で数本の真空管だけが、橙色の光を静かに瞬かせていた。


「法律は『喉』なんていう生物学的な概念を認めない。認めるのはデータ資産だけだ」


律がコンクリートの柱に背を預け、冷ややかに言い放つ。「お前の魂の半分は、国響に対する売掛金に過ぎない。声紋の一致率がその一線を越えた瞬間、版権署のスニッファーがお前を現実から『差し押さえ』に来るだろう」


「緋、この新しいメロディを試してみて」


部屋の最も暗い隅で、楽が弦を弾いた。彼はコンソールを叩き、配信ネットワークに『新作のテスト配信』という偽装プロトコルを潜り込ませる。


この時代、SNSなどの公共プラットフォームにおいて、ネットワークの承認なしに生の声を届けることなど許されない。地下の歌い手たちは皆、合法的な配信の裏に自身の音声を『密輸』することでしか、歌を紡ぐ術を持たないのだ。


緋は古いマイクの前に立った。旋律が重なり、感情が高まったその瞬間――彼女の脳は無意識に過覚醒モードを起動してアルゴリズムの曲線をスキャンし始め、声帯の筋肉が『モードA:高純度共鳴』へと強制的に調整された。それは国響の特許庫において最も吸金力があり、無瑕な音色。その一瞬、彼女の身体は彼女の意志を裏切った。四年の訓練が刻み込んだ『デジタル去勢』が、まだ声帯の奥で生きていた。緋は、凡人として息を吸い、声を出すという当たり前のやり方を、とっくに忘れていた。


「パツッ!」


楽が猛然とマスターフェーダーを押し下げた。モニターに映し出された声紋一致率の深紅の曲線は、49.8%の断頭台で狂ったように震えていた。


「危なかった……今の声紋、スニッファーに検知されるところだったぞ」誠はブレーカーに指をかけたまま、声に恐怖の余韻を滲ませた。


緋は立ち尽くし、喉の奥に苦い渇きを感じていた。


絵がペンを置き、歩み寄って緋をきつく抱きしめた。その抱擁は以前よりも力強く、指先には液タブの熱い余熱が残り、恐れで冷え切った緋の肌に密着している。


「その半音、逃がさないで」絵は緋の肩に顔を寄せ、柔らかく、それでいて残酷なまでに優しい囁き。「その音を飲み込んで、喉の中で砕いて。私が見たいのは、そんなあなたよ。完璧な機械じゃないわ」


絵は手を離すと、額を緋の額に押し当てた。


「聞いて。私はあなたのことを、ずっと綺麗に描いてあげる。たとえあなたの声が亀裂だらけでも。その亀裂こそが、私たちが生きている証なんだから」


緋は手渡されたミネラルウォーターを一口含んだ。その冷たさが現実への錨のように喉を通り過ぎる。今度は、引き裂かれた周波数に身を任せ、アルゴリズムには存在し得ない、荒削りな呼吸を絞り出した。


その荒削りな呼吸が落ちた瞬間、誠のモニター上で、死んだように動かなかった『582』という数字が、微かに跳ねた。


【登録者数:583】


数字が一つだけ増えた。


その直後、画面の片隅に新しいコメントが流れる。


『下手だな』


数秒後、続きが表示された。


『でも、最後まで聴いてしまった』


緋は息を止めた。地下室は静まり返っている。誰も何も言わない。


たった一人。世界のどこかにいる誰かが、その声を聞いていた。


絵はモニターを見つめたまま、小さく笑った。「ほら」そして緋の肩を軽く叩く。「いたじゃない」


緋は画面から目を離せなかった。


『汐』ではなく。


『暁』でもなく。


そのどちらでもない、自分自身の声を聞いてくれた誰かが、初めて現れたのだから。


下京区の熱気はなおも淀み、負債を示す数字が隅で音もなく点滅していた。だが、何かが熱を帯びた真空管の拍動に共鳴するように、この隠された地下室の中で激しく鼓動を打っていた。

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