第1話 断裂した声帯
星暦六二〇二年。
果之島国(エンドリスランド/Endlisland)――武江京に降る雨には、決して体温というものが宿らない。
細い雨糸が五色のホログラム広告を突き抜け、飽和した色彩を粉々の光斑へと切り裂いていく。この島国の心臓は、深夜になってもなお、巨大なサーバーが稼働するような重苦しい唸りを上げ続けていた。
緋は『国響メディア』本社ビルの、全面ガラス張りの窓の前に立っていた。窓の外、巨大な3D投影の中で、少女の幻影『汐』が宙に浮いている。深夜の電力負荷による微細な変動のせいで、投影の縁には時折青い電磁ノイズが走り、その完璧な微笑みは、まるで眠りの中で引きつる幽霊のように見えた。
武江京のアルゴリズムにおいて、『汐』の歌声は『完璧』と定義されている。あらゆるビブラートには精密な補正がかけられ、聴衆の脳内にドーパミンを強制的に誘発する。緋は窓の前に立ち、自分自身の手で創り上げた神像に踏みつけられているような感覚に陥っていた。
背後のオフィスは、恐ろしいほど静まり返っていた。数時間に及ぶ、オゾンの匂いが漂う清潔で窒息しそうな対話が終わったばかりだった。
「緋、契約案の微調整はブランドの安定のためだ。君は録音だけに集中すればいい。後のことは、事務所がすべて計らってやる」
マネージャーの声は、当然のような支配欲を孕んでいた。
緋は何も言わず、ただカバンから少し傷跡の残る銀色のマイクを取り出した。精密機器に囲まれたこのオフィスの中で、その旧式はあまりに寒々しく、国響のミキシングコンソールに接続する資格すら持ち合わせていない。この四年間、その唯一の用途は、深夜の練習室でネットワークに繋がらない古いプレイヤーに接続し、決して金にはならない「独り言」を受け止めることだけだった。
「この消耗品、持っていってもいいわよね?」緋が尋ねた。
マネージャーは使い古されたそのマイクを、電子ゴミを見るような目で一瞥した。
トップスターの身分を象徴するカードキーを置き、ビルの回転ドアを押し開けた瞬間、潮の香りと機械油が混じった湿った冷風が正面から叩きつけてきた。その刺すような寒さは、かえって身震いするほどの自由を彼女に感じさせた。
彼女は下京区へと向かった。天橋の境界線を越えたとき、視覚的な「世界」が崩壊し始める。背後の高級住宅街は厚い偽りの桜のホログラムに覆われているが、前方の下京区は、錆びついた骨格を剥き出しにしていた。
ここでは、ゴミはゴミであり、もはや幻影によってギフトに包装されることはない。
錆びついた扉を押し開けると、『玄音音響研究所』の古い基板が熱を持った時の、あの甘い匂いが鼻を突いた。
「この匂い……オゾンよりずっといいわ」。緋は荷物を下ろしながら、そう呟いた。
「予定より七分遅い」
影の中から現れた律は、険しい表情で告げた。
「国響のシステムが更新された。君の声がネットワークに流れ、それが『汐』の特徵値と類似していると判定された瞬間、AIは即座に著作権侵害と判定し、信号を遮断してくる」
誠は古いパーツを組み合わせて作ったサーバーの前にしゃがみ込み、傍らの真空管アンプが暖かくオレンジ色の光を放っていた。「律がローレベル・プロトコルに『データ・ブラックホール』を仕込んでくれてなきゃ、一言発した瞬間に追跡されてたよ」
「もう、あの『正確すぎる』歌は歌わない」と、緋は仲間たちの顔を一人ずつ見渡し、静かにそう言った。
楽は、錆びついたギターの弦を爪弾いた。音楽アカデミーから『制御不能なノイズ』と烙印を押され、排除されてからというもの、誠がこのアンティークな楽器を修理してくれたのだ。彼がコードを一つ鳴らすと、温かみのある、わずかに歪んだアナログの響きが部屋に溶けていく。
絵が歩み寄り、緋を優しく抱きしめた。かつては優秀な商業絵師だった彼女だが、描く線に『人間としての呼吸』を追い求めるあまり、システムから画素の誤判定を下され続けていた。二年前、街中でグラフィティを描いているところを警官に追われ、その時この扉を開けてくれたのが誠だった。
「もう、話し合う必要なんてないでしょ?」絵は小さく笑った。「この二年、国響に返却され、『無価値』と切り捨てられた旋律をここで練習し続けてきた。すべてはこの瞬間のためじゃない。このオンボロ研究所は、私たちのような『システムエラー』を拾い上げてくれた場所。そして緋、あなたの歌声は、私たち全員の出口なの」
「新しいシンボルが必要だ」律が問う。「名前は決まったか?」
「『暁』にしましょう。この街の夜明けがどんなものか、見てみたいの」
誠がエンターキーを叩くと、画面に空っぽのチャンネルページが浮かび上がった。中央には、絵が描いたノイズまみれの「魂の自画像」が収まっている。「『暁』、正式にオンライン。さあ……これは君のものだ。アルゴリズムの目には『死んだアカウント』と映るだろうが、それこそが我々の求める隠れ蓑だ」
絵は画面上の丸いアイコンを見つめ、口角を上げた。彼女の指先には、液晶タブレットが熱を持った時のあの微温がまだ残っている。
「絵、すごく上手に描けてる。あの『汐』なんかより、こっちの方がずっと私の魂に近いわ」
そう言うと、緋は不意に両腕を広げて絵をきつく抱きしめた。
絵の大脳は、その一瞬でショートを起こした。
下京区のざらついた亜麻布越しに、緋の身体が細かく震えているのが伝わってきた。
過去数年間、絵は国響メディアの、武江京の雲を突き抜けるような摩天楼の本社ビルにいた。数百もの階層の下、その薄暗いキュービクルに閉じこもり、高精度デジタルペンを握っては、十時間連続で『汐』の網膜の湾曲率を修正し続ける日々を送っていたのだ。そこを去る時、何一つ持ち出さなかったとしても、『汐』の輪郭線に対する直感は、今なお彼女の右手の筋肉記憶に深く刻み込まれている。しかし、それこそが彼女の真に描きたいものではなかった。
彼女はあのビルの最上階で明滅する黄金の光を見たことがあり、そこが立ち入り禁止の聖域であることを知っていた。三年前、国響の『視覚特徴補償部第三十六班』に配属された時、彼女は夢にも思わなかった。まさか、あの手の届かない、高高度の核心的レコーディングスタジオの中で、その瞳に魂を吹き込んでいた歌声の『本体』が――これほど寒さに凍え、震え、涙を流しながら微笑む、生身の少女であったなどとは。
数百階建ての現代のバベルの塔。その絶対的な高さと、幾重にも張り巡らされた権限のファイアウォールが、彼女たちのあらゆる繋がりを遮断していた。同じビルにいた。それでも二人は、まるで別の銀河に属しているかのようだった。
だが今、高塔の遥か外側、最も深い底層のガレージの中で、部品同士が激しく衝突した。
「これからは、私があなたをずっと綺麗に描いてあげる」絵は力を込めて抱き返した。目頭が熱くなるのを感じながら。「あなたの今の姿を……そのノイズ混じりの、ありのままの姿を、私がこの筆で刻みつけるから」
緋は古いマイクの前へと歩んだ。誠が暗赤色の録音ボタンを押し込んだ瞬間、恐るべき『職業的な慣性』が荒波のように押し寄せた。
緋の脳は無意識にアルゴリズムの曲線をスキャンし始め、声帯の筋肉が勝手に『モードA:高純度共鳴』へと調整されていく。それは国響に飼い慣らされた四年の歳月が刻んだ、生理的な刻印だった。録音を前にすると、彼女の身体は自動的に、完璧で温度のない鏡面へと切り替わってしまう。
「……っ、違う」
彼女は掠れた吐息を漏らし、こぼれそうになる甘美なメロディを強引に断ち切った。
喉の奥で『汐』という亡霊が抗っている。緋はマイクを強く握りしめ、爪を掌に深く食い込ませた。鋭い痛覚で、偽りの甘さを切り裂く。
「……あと一分、ちょうだい」
誠に向かって言った声は震えていたが、自傷的なまでの決意に満ちていた。
緋は再び口を開いた。今度は、声帯を削るような荒々しい質感をそのままに、重苦しい呼吸をマイクに叩きつけた。
誠がモニターを注視する。本来なら『完璧な正弦波』として描かれるはずの緑色のラインが、狂ったように激しく震動していた。波形はもはや円を描かず、エネルギーがシステムの限界を超え、鋭い鋼の刺のように切り取られた『クリッピング』を引き起こしている。
「波形がクリップしている……」誠は刺すような赤いエラー表示を見つめ、震える声で言った。「これはシステムが想定していないデータだ。修復不能な歪み(ディストーション)……そして、魂の溢出だ」
その声は完璧とは程遠く、生命を削り取ったような残破感に満ちていた。だがそれこそが、生身の人間だけが宿せる証だった。
録音室の小さなランプが塵の中で点滅する。一方、遥か遠くの地平線では、ネオンではない微かな最初の光が、ゆっくりと震え始めていた。




