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霊魂歌姫(魂の歌姫/サイバー・シンガー)  作者: 林 若川(はやし わかがわ/Rhine Jackson)
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第3話 亀裂のミミクリー

第3話 亀裂のミミクリー


星暦六二〇二年、仲夏の終わり。


下京区の電力供給は相変わらず不安定だ。「玄音音響研究所」――廃墟と見紛うばかりのガレージに偽装されたその場所で、明かりが数度瞬き、やがてメインマシンの重低音に呼応するようにして安定した。


「このままでは、埒が明かない」


黙々とデータ分析レポートを追っていた律が、不意にタブレットを閉じた。銀色のフレームが薄暗い闇の中で冷徹な光を放つ。録音の難航に肩を落とす面々を見渡し、その視線は最後に、どこか虚ろな緋の瞳で止まった。


「気づいてるか?俺たちは最初から国響のゲームに付き合わされてる」


律は立ち上がり、誠のマシンの前まで歩み寄った。


「楽は声紋を回避しようとし、絵は色調を逸らそうとしている。緋。君は、自分の本能を殺そうとしているんだ。そんな『防御的(ディフェンシブ)』な創作は、このガレージの外までは一生届かない」


「じゃあ、どうしろってんだよ」


誠が苛立ったように髪を掻き毟る。指先には回路修理でついた煤がこびりついている。「真っ向勝負か? 国響の法務部なら、一晩で俺たちをネットワークから消し去ることなんて造作もないんだぞ」


「いや、真正面からは戦わない。僕たちは『消失』するんだ」


律の修長な指先が画面を叩き、隠蔽された非公式のストリーミング・エントランスを呼び出した。


「かつての旧式短波ラジオが残したバックドアだ。アルゴリズムは、こんな低帯域の『デジタル・ゴミ』には食指を動かさない。画質は360p程度だが、ここには自由がある。今夜、ライブ配信を行う。アーカイブなし、編集なし。せめてアルゴリズムの目が届かない場所でやろう」


「ライブ配信?」絵が驚きの声を上げる。


「今回は音声フィルターも使わないし、感情モデルも被せない。広報用の台本もなしだ」


律が緋を振り返った。その瞳は底知れぬ深淵のように静まり返っている。


「緋、今夜君がすべきことはたった一つ。その喉の中に閉じ込められた『汐』を、自らの手で殺すことだ」


緋の指先が微かに震えた。古びた拷問器具を検分するかのように、彼女はその斑らなマイクを凝視した。


深夜十一時。武江京のネオンが毒素のように拡散していく。『暁』と名付けられた空白のチャンネルに、赤い【LIVE】のサインが灯った。画面に表示された視聴者数は、7人でぴたりと固定されている。


接続が確立された瞬間、緋は無意識に背筋を伸ばした。彼女の脳は過熱したデバイスのように、国響メディアから叩き込まれた『公式対応マニュアル』を即座に展開する。舌根を押し下げ、軟口蓋を持ち上げ、あらゆる発音を絹で包んだように円やかに――


彼女は手慣れた手つきで「モードA:癒やし系少女」へと切り替えた。


「皆さん、こんばんは。お会いできて嬉しいです。ええと……今日は武江京も雨ですね。傘はお持ちですか? 風邪など召されませんよう、お気をつけくださいね」


人工的に合成された甘さを纏った声。影の中に身を潜めていながら、彼女は依然として、ラジオドラマを完璧にこなす精密な声優(ボイス・モデル)であり続けていた。それは骨の髄まで浸透した、生存のための規約だった。


隣に座いた律が眉を顰めた。彼は不意に手を伸ばし、厚手のコート越しに緋のこわばった肩を掴んだ。緋の体がビクリと跳ねる――それは長期にわたる監視と修正によって植え付けられた、反射的な畏縮だった。まるで、次の瞬間には違反切符を切られるのではないかと怯えるかのように。


「緋、演技はやめろ」律の冷ややかな声が響く。「ここには国響の広報もいなければ、言い間違い一つで給料を差し止める奴もいない。完璧な記号を演じる必要はないんだ。君は、吹き替え人形じゃない」


緋の言葉が途絶えた。喉の奥に樹脂のように詰まっていた、あの不自然なキャラクターボイスが崩壊し、代わりに乾いた苦みが広がっていく。


国響での四年間、彼女の毎日は「申し訳ありません」から始まっていた。音程が0.1ヘルツずれては謝罪し、録音中に腹の鳴る音が微かにマイクに乗っては謝罪し、風邪で声が掠れることさえ、冷徹な契約書を前に深く頭を下げて謝罪した。 「真実の自分」という存在そのものが、このシステムに対する……拭い去れない冒犯だったのだ。


「そうだよ」誠がキーボードを高速で叩きながら、茶化すように笑った。「あんたが今ここで特大のあくびをしたって、俺はその音をサンプリングして、今夜最高のエレクロトニカ・ノイズに仕立て上げてやるさ。ここでは、修正が必要なものなんて何一つないんだ」


部屋を、死の如き静寂が支配した。


脊椎から這い上がるような、四年にわたる緊張の糸が、その瞬間にぷつりと切れた。緋の表情がふっと緩み、肩の力がゆっくりと落ちていく。重苦しい仮面から解き放たれた者の仕草だった。


彼女はうつむき、マイクに向かって長く、震えるような、けれどこの上なく真実味を帯びた溜息を漏らした。


それは深く、重い吐息だった。音響工学の論理では、それは紛れもないフロアノイズであり、真っ先にフィルタリングされるべき廃棄周波数だ。だがこのガレージにおいて、それは巨大な岩石のような質量を持って、録音トラックに叩きつけられた。


誠はモニターを凝視した。本来『モードA』のために用意されたスムージング・フィルターが、その混濁した低周波の生物信号を識別できず、悲鳴を上げるように崩壊していく。


「……ふう。謝らなくていいなんて、こんな気分なんだ」


それは音声データではない。四年間積み上げられた存在という名の廃気だった。その息を吐ききったとき、彼女の喉に住み着いていた、数百万行のコードで組み上げられた女神は、ようやく完全に息絶えた。


彼女は顔を上げた。その双眸には初めて、地に足のついた重力の質感が宿っていた。


「皆さん、こんばんは。『暁』です。今日の武江京はひどい雨。私はさっき雨に打たれたけれど……今は、とても気分がいいわ」


彼女は楽を見て、頷いた。


今回、楽はあらゆるリミッターを解除した。原始的で、無骨な旋律が流れ出す。緋が口を開く。もはや、砂利の混じった不完全な周波数を避けることもしない。それは亡命者が深夜の荒野で、自分自身のために灯した最初の火種だった。


画面の隅で、リアルタイム・スペクトラムが突如として爆発した。規定のチャンネルにロックされていた青いラインに代わり、無数の混沌とした、上方へと突き刺さる赤いノイズが画面を埋め尽くす。


「これが君の魂だ」誠がモニターを見つめ、独り言のように呟いた。「この波形……めちゃくちゃじゃねえか」


「……なのに、綺麗だ」


視聴者数が緩やかに上昇し始める。15、32、108……。画面が明滅する片隅で、『深夜放送 99.7』というIDのアカウントが、静かに灯った。


その夜、武江京の滑らかな鏡面のようなアルゴリズムの海に、修復不可能な最初の亀裂が走った。

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