第十話 辺境伯の父
――何、あいつ!?
クロイツ家から帰ったリカは、自室の椅子に座ったまま、頬杖をついていた。
頭から離れない。
三歳の男の子。
レン・クロイツ。
初めて会ったときから、少し変な子だとは思っていた。
でも、あれほどとは思わなかった。
「……無詠唱」
ぽつりと呟く。
魔法を使うとき、普通なら詠唱する。
魔法書にもそう書いてある。
実際、リカ自身も魔法を使うときには、きちんと詠唱する。
なのに――。
レンは何も言わずに魔法を使った。
しかも、あれだけの魔力。
自分とは比べものにならない。
「……なんなの、あの子」
考えれば考えるほど、気になってくる。
もっと話をしてみたい。
どうやって魔法を使っているのか聞いてみたい。
もう一度、あの魔力を感じてみたい。
そして――。
ふと、自分の手を見る。
さっきまで握っていた小さな手の感触が、まだ残っているような気がした。
「……」
リカは自分でもよく分からないまま、手を握った。
「もう一回、会いたい……」
その言葉が口から出てから、リカは少しだけ驚いた。
どうして自分は、こんなに気になっているのだろう。
答えは出ない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
――もっと知りたい。
その日の夕食。
リカは父親の向かいに座ると、しばらく黙って食事をしていた。
やがて、意を決したように口を開く。
「お父様」
「ん?」
ギルス・ミリオンは娘の顔を見る。
「お願いがあります」
「なんでも言いなさい」
即答だった。
「クロイツ家に行きたいです」
「……クロイツ家?」
「はい」
ギルスは少し考えた。
「レギオンに用事があるのか?」
「……」
リカは答えない。
「それともミレーユか?」
「違います」
「では、何の用だ?」
「……気になる子がいます」
「…………」
ギルスの動きが止まった。
「気になる……子?」
「はい」
「……男か?」
「……」
リカが少しだけ目を逸らした。
その瞬間。
ギルスの中で、何かが弾けた。
「レギオンか?」
「……え?」
「レギオンだな?」
「違います」
「いや、待て。そういうことか」
「違うって言ってるじゃないですか」
しかしギルスは聞いていなかった。
レギオン。
若くして騎士団長。
魔法の腕も一流。
剣の腕も一流。
そして――顔もいい。
娘と年齢が近いわけではない。
だが、だからこそ。
「……あいつ」
ギルスの眉間に皺が寄る。
「娘に何をしとるんだ……」
「お父様?」
「リカ。安心しなさい」
「何をですか?」
「お父様が話をつけてくる」
「だから違いますって!」
リカの抗議は、すでに父親の耳には届いていなかった。
*
翌日。
クロイツ家。
「……これはどういうことでしょうか、ギルス様」
レギオンは困惑していた。
目の前には、ミリオン辺境伯であるギルス。
その隣には娘のリカ。
突然の訪問だった。
「レギオン」
「はい」
「お前、リカに何をした?」
「……はい?」
レギオンは本気で分からなかった。
「何をした、と聞いている」
「いや、その……」
隣にいたミレーユも、困ったように二人を見ている。
「私は特に何も……」
「本当か?」
「本当です」
「では、なぜ娘が突然お前のところへ行きたいと言い出した?」
「それは……」
レギオンはリカを見る。
リカは少し気まずそうに目を逸らした。
「……リカ?」
「……」
「何かあったのか?」
「魔法を見ました」
「魔法?」
「はい」
リカは頷いた。
「レンの魔法です」
「……レン?」
レギオンが首を傾げる。
その言葉を聞いて、ギルスも眉をひそめた。
「レン?」
「はい」
リカが答える。
「レン・クロイツ」
「……」
数秒の沈黙。
ギルスの視線が、ゆっくりとレギオンからリカへ移る。
「……レン?」
「はい」
「……三歳の?」
「はい」
「……」
ギルスは黙った。
そして、ようやく理解した。
「……お前が言っていた『気になる子』というのは」
「レンです」
「…………」
ギルスの顔が固まる。
レギオンも固まった。
ミレーユだけが、少しだけ驚いた顔をしている。
「そういうことか……」
「お父様?」
「いや」
ギルスは額を押さえた。
どうやら、とんでもない勘違いをしていたらしい。
だが――。
「……レン、か」
ギルスは小さく呟いた。
三歳。
リカは五歳。
年齢差は二歳。
今の段階でどうこう言うような話ではない。
それは分かる。
分かるのだが。
「……なんとなく気に食わんな」
「え?」
レギオンが聞き返す。
「いや、なんでもない」
ギルスは娘を見る。
リカはもう、レンを探すように辺りを見回していた。
「レンはどこ?」
「庭にいると思います」
レギオンが答える。
「行ってきてもいいですか?」
「もちろんです」
リカはすぐに駆け出した。
「レン!」
その声に、庭にいたレンが振り返る。
「……リカ?」
リカはレンのところまで走っていく。
「レン、また魔法を見せて」
「いいけど」
「それと、昨日のことも聞きたい」
「昨日?」
「魔法のこと」
「ああ」
レンは頷いた。
どうやら、かなり興味を持たれているらしい。
まあ、当然と言えば当然か。
自分でも、リカの魔法はかなり気になっている。
レンは立ち上がる。
「じゃあ、庭で話そうか」
「うん!」
リカがレンの手を取る。
二人はそのまま庭へ向かっていった。
「……」
それを見送るギルス。
「……」
隣に立つレギオン。
「……レギオン」
「はい」
「本当に何もしていないんだな?」
「してません」
「そうか」
ギルスは腕を組んだ。
しばらく沈黙が続く。
「……しかし」
「はい」
「お前の息子、ずいぶん変わっているな」
「それは……まあ」
レギオンも庭を見る。
そこでは、リカとレンが何やら話している。
「私も最近、そう思います」
「だろうな」
ギルスはため息をついた。
「魔力のこともそうだが……」
「はい」
「リカがあそこまで興味を持つのも珍しい」
「確かに」
「……」
「……」
二人は再び黙った。
やがてギルスが口を開く。
「ところでレギオン」
「はい」
「お前、リカが『気になる子がいる』と言ったとき、私はてっきりお前のことだと思った」
「……」
レギオンの顔が引きつった。
「なぜですか?」
「お前、若い女には人気があるだろう」
「知りませんよ」
「それに、貴族社会では側室を持つこと自体は珍しくない」
「だからといって、私は……」
「分かっている」
ギルスは手を上げた。
「ミレーユを裏切るような男ではないことくらい、私も知っている」
「……ありがとうございます」
「だがな」
ギルスは真顔になった。
「娘を持つ父親としては、そういう話は面白くない」
「……それは、分かります」
「だろう?」
二人の間に、妙な連帯感が生まれた。
庭では、まだ二人の子供が話している。
何を話しているのかまでは、ここからでは聞こえない。
「……しかし」
ギルスがぽつりと言った。
「レンか」
「はい」
「……なんとなく気に食わんな」
「まだ言ってるんですか」
レギオンは苦笑した。
ギルスは答えなかった。
ただ、庭にいる娘の姿を眺めながら、腕を組んでいる。
――そして庭では。
「レン」
「ん?」
「どうして詠唱しないの?」
「……」
レンは少しだけ考えた。
さて。
どう説明したものか。
リカは真剣な顔でこちらを見ている。
そしてレンもまた、彼女の魔法について知りたいと思っていた。
どうやら――。
二人の魔法談義は、ここから始まるらしい。




