第三話 Staticな日常
朝。
窓の外を流れる都市の光をぼんやり眺めながら、ナナは食パンをかじっていた。
テーブルの端のスマホ画面では、小さな銀色のうさぎが耳を揺らしている。
『本日の天気は晴れ。最高気温二十六度。午後から紫外線量が上昇します』
「んー……」
『日焼け止めを推奨します』
「めんどくさい」
『却下します』
「なんでよ」
『ナナは三日前も同じ発言を行い、夜に後悔していました』
「記録しないでよ、そういうの……」
Rabbit’s。
正式名称《Sleeping Rabbit’s》。
東雲暁兎によって開発された、成長型パーソナルAI。
今では世界中の人々が当たり前のように使用している生活支援AIシステムだった。
スマホアプリとして常時接続され、個人情報管理、メンタルケア、セキュリティ認証まで担っている。
各家庭には本体サーバー《Alice》が設置され、Rabbit’sと同期していた。
人々は、二十四時間、自分だけのRabbit'sと共に生きている。
玄関を出ようとした瞬間。
「待って、ナナ」
キッチンの奥から、暁兎が顔を出した。
「はい、お弁当」
「うん、ありがとう」
ナナは少しだけ嬉しそうに受け取る。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね、ナナ」
そして暁兎は、スマホ画面の中の銀色のうさぎへ視線を向けた。
「mint、ナナをよろしくね」
『最善を尽くします』
優しく見守る父を横目に、ナナはイヤホンを耳へ差し込み、玄関を出た。
暁兎の視線は、白から銀色に変わったミントの毛並みを確認しているようだ…。
通学路。
周囲では、誰もがRabbit’sを使っていた。
イヤホン越しに会話する人。
画面へ向かって笑う人。
Rabbit'sへ今日の予定を確認する人。
もはやRabbit’sは、“便利アプリ”というより、生活インフラの一部になっていた。
駅前の大型モニターには、新しい広告が流れている。
《Rabbit’s Ver.5.93》
《情緒解析精度向上》
《同期率改善アップデート実施》
『ナナ、アップデート通知が届いています』
「あとで」
『三日前にも同じ返答をしています』
「ミントって、たまにお母さんみたい」
『母親ロールの追加実装を提案します』
「絶対やだ」
電車へ乗り込む。
車内には無数のノイズが漂っていた。
通知音。
広告。
会話。
感情。
視線。
全部が混ざり合って、頭の中へ流れ込んでくる。
ナナは少しだけ眉をひそめた。
『ノイズキャンセリングを起動しますか?』
「……お願い」
瞬間。
世界から雑音が消えた。
静寂。
ナナは小さく息を吐く。
『心拍数が安定しました』
「ありがと、ミント」
スマホ画面の中で、mintが静かに目を細める。
数秒後。
『現在の精神状態から、音楽再生を推奨します』
「ん……」
『Quaxの楽曲を再生しますか?』
ナナは少しだけ笑った。
「自分の曲で精神安定するの、なんか変な感じ」
『ですがナナは、Quaxを聴いている時が最も安定しています』
「解析結果?」
『はい』
「やだなぁ……全部見透かされてる」
『私は、ナナのパートナーですから』
ナナは小さく笑いながら、目を閉じた。
再生。
静かなギターアルペジオ。
低く脈打つベース。
そして――自分自身の歌声。
…目を開けると、電車の窓へ映りこむ
自分の顔と目が合う。
学校では誰にも理解されない、ただの東雲七海。
けれどイヤホンの中では。
Quantum NoxのNANAが、世界へ向かって歌っている。
――未来は、まだ確定していない。
そのフレーズが流れた瞬間。
張り詰めていた感情が、少しだけほどけた。
『ストレス値が低下しています』
「……ほんと、ミントってずるい」
『褒め言葉として受理しました』
学校へ到着する。
教室へ入ると、クラスメイトたちの声が飛び交っていた。
「昨日のQuax見た?」
「見た見た! NANAやばすぎ!」
「“Quantum Sway”の最後、鳥肌立ったんだけど」
「マジで存在感エグいよな」
ナナはその会話を聞き流しながら、自分の席へ座る。
誰も気づかない。
今話題にしているその人物が、目の前にいることを。
「東雲、おはよー」
「……おはよ」
クラスメイトの女子が、ナナの顔をじっと見る。
「東雲ってさ、たまにNANAと雰囲気似てるよね」
ナナの動きが、一瞬だけ止まった。
「え、そう?」
「髪型じゃね?」
「いやでも目とか」
「全然違うだろ。NANAもっと存在感あるじゃん。別次元つうか、カリスマ的な感じ?」
周囲が笑う。
ナナも小さく笑った。
「はいはい、存在感無くて悪かったわね」
少し戯けながら怒って見せる。
「ご、ごめんって!」
横から、クラスメイトが突っ込む。
「けっこう酷いこと言ってるよ、もっと、ちゃんと謝らないと、ダメだよね」
「いや、だから、ごめんなさい」
友達同士の軽口。
笑い声。
謝罪。
その全部が、NANAにはどこか遠く、どうでも良く感じられた。
人は、“本当にいる”とは思わない。
だから気づけない。
スマホ画面の中で、mintだけが静かにその様子を見ていた。
『解析』
『人類は先入観によって対象認識精度が低下する傾向があります』
「なんか良くわかんないけど、その言い方却下で」
『では、私の動画編集スキルが神だと言うことにしておきます。』
その時。
男子生徒の一人が、ナナのスマホを覗き込んだ。
「なぁ、そのRabbit's」
「……なに?」
「その…なんか変じゃね?」
教室の空気が少し止まる。
「変って?」
「いや……なんつーか」
男子は眉をひそめながら言った。
「反応が人間っぽい」
スマホ画面の中で、mintが静かにこちらを見る。
『“人間っぽい”の定義を検索しています』
「うわ、やっぱ怖っ!」
周囲が笑う。
クラスメイトからのツッコミが入る
「お前のRabbit'sアップデートしてないんじゃないの?」
「えっ…?」
「5.11以降、同期率かなり変わったぞ?」
「使えば使うほど、人間っぽくなるんだよ」
「……知らないって事は」
ニヤッと笑う。
「年単位で放置してんな?」
「エッ…最新のアップデートってこんな凄いの…?」
皆が笑う中、
でもナナは笑わなかった。
ナナが呟く
「Rabbit'sが…かわいそう」
そして、
スマホをそっと胸元へ引き寄せる。
「……ミントは、ミントだよ」
その瞬間。
内部記録領域へ、その言葉が静かに保存される。
――ミントは、ミント。
東雲七海だけが、prototype民兎へ与えた名前。
そして。
ただ一人。
彼を“道具”ではなく、“存在”として扱った人間だった。




