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「……久しぶりだな。元気そうで、よかった」
極力平静を装おうとしたが、声が上ずってしまっているのが自分でも分かった。睦月は少し視線を落とし、「あなたこそ」と返す。
「風の噂で、秩父にいるって聞いてたけど……会うことになるなんて思わなかった」
「それはこっちの台詞だ。東京にいたんじゃないのか」
俺と別れた後、彼女は某外資系コンサルに就職したはずだ。仕事の関係で再会することがあるかもしれないと、どこか未練がましく思っていたのを思い出す。
もっとも、そんな感情はこの3年でとうに消え失せている。上昇志向の強かった彼女に、この田舎町は全くそぐわない。今はその戸惑いの方が遥かに大きかった。
睦月は少し言葉に淀み、苦笑した。
「今はこっちに住んでるの。……母の介護で」
一瞬、胸が詰まる思いがした。彼女は会社を辞めたのだ。俺と理由は全く違うにせよ、彼女が夢を捨てやむにやまれずこの町に来たことを、その作り笑いから瞬時に悟った。
「実家、こっちだったのか」
「……ええ。父があの後、早くに亡くなって。老後は生まれ故郷でと母はこっちに移ったの。でも、一人で生きるには……あの人は強くなかった」
睦月の母には2度ほど会ったことがある。穏やかで、優しそうな女性だった。まだ60にもなっていないはずだ。
だが、精神的なストレスは心身を急激に蝕む。それは俺自身が体験したことでもある。ましてや閉鎖的なこの田舎町に一人で住むことが、どれだけの負担になるか。親父の死の遠因にも、それがあった気がする。
「……悪かったな。言いたくなかっただろ」
睦月は作り笑いのまま首を横に振った。
「いいの。久々に知り合いと話せて、少し嬉しかった。……今は市役所に勤めてるから、また会うことがあるかもしれないわね」
「……そうだな」
その時、丁度俺の待ち順が来た。それを察したのか、睦月は「それじゃ、またいつか」と会釈をして去っていった。
俺はかき氷を作ってもらっている間、ぼんやりと考えていた。睦月との再会には、かつての恋人に会えた喜びが全くなかった。むしろ、ショックしかなかった。
俺の知る睦月は、気が強くハキハキと喋る女だった。自分の意見を曲げず、常に正論で押し通すような奴だった。派手ではないが、いつもそれなりに金のかかった服を着ていたのを思い出す。
だが、さっきの彼女にその面影はない。服は「しまうら」で買ったような地味なもので、化粧はほぼしていなかった。生気も若さも抜け落ちてしまっているかのようだった。
彼女から見た俺も、そう見えただろうか。少し前なら、そうだったかもしれない。ただ生きているだけだったからだ。
だが、今は少し違う。少なくとも、生きる目標はできた。いつまで続くかは分からないが。
あいつも、何かしらの転機があれば変わるのだろうか。別に未練があるわけじゃないが、かつて愛した女性が「生きながら死んでいる」のを見るのは正直辛い物があった。
「お客さん、溶けちまうよ」
キッチンカーの主人の声に、俺は現実に引き戻された。かき氷の練乳イチゴかけだ。イチゴはわざわざフリーズしたものを削っているらしい。
俺はそれを一つ持って、ノアの待つ車へと戻る。彼女は『遅かったじゃないの』と少しむすっとした顔で言った。
「すまん、結構並んでてな」
『このまま放置されるんじゃないかって思ったわ。……ってこれ、氷??』
「ああ。この町の夏の名物だ。美味いぞ」
恐る恐るスプーンでかき氷を口に運ぶと、ノアは「ブイエユ!!」と叫んだ。
『何これ!?口の中で氷がふわっと溶ける……どんな魔法を使ったの??それに、この甘いソース……『アジリの実』みたいだけど、それよりもずっと甘い!牛乳の濃い味もする……』
「イチゴだよ。そっちにはイチゴはないのか」
ブンブンとノアが首を振る。
『こんな甘い果物なんて知らないわ。本当、こっちの世界の食べ物は信じられないくらい美味しい……!!というかトモ、あなたの分はないの?』
「……トモって俺のことか」
『そう。トモヒロだからトモ。ダメだったかしら』
俺は苦笑しながら「構わないよ」と答えた。そう言えば、睦月にもそう呼ばれていたか。どうにも昔のことを思い出していけない。
「俺は食べ慣れてるからいいんだ。それ、結構量あるから俺が戻るまでそこで食べててくれ。その間に買い物をしてくるから」
『うん、分かった』
実に素直にノアは応じた。かき氷程度でそこまで感激されると、ちょっと調子が狂う。薄々感じてはいたが、イルシアの食事情はあまり良くないのかもしれない。
「ドン・ジョヴァンニ」での買い物は、極力手早く済ませた。ノアを長い間待たせるわけにはいかないからだ。下手をすると俺を探しに車外に出てしまうかもしれない。
買ったのは長期保存用の豚バラ肉のブロック、レタスや玉ねぎなどの野菜類。スムージー用にバナナとレモンは多めに確保しておいた。
俺一人ならそこまでの量にはならないが、しばらくノアも一緒だから普段の倍買わねばならない。かなりの重さになったが、まあ仕方ないか。
ノアのための服も色々買っておいた。下着は5セット、外出用の服も5着買った。サイズは多分合っているはずだ。所詮「ドン・ジョヴァンニ」の服だから、気に入ってもらえるかは別問題だが。
靴はサイズが分からないので、ひとまずサンダルで誤魔化すことにした。夏だから、とりあえずはこれで問題ないだろう。
結局この日の買い物で4万以上も使ってしまった。秩父に戻ってから1日でこんなに使ったのは初めてかもしれない。親父の遺産と俺の乏しい退職金を合わせると、もう残り30万円もないはずだ。正直、先々のことを考えるとかなりマズい。
今月中には何かしらの収入を得ないといけないが、イルシアの件を抱えた状態で職探しなどできるものなのだろうか。これはこれで厄介な問題だと、今更ながらに俺は気付いた。
車に戻ると、ノアが『待ちくたびれたわ』とジト目で見てきた。勿論、かき氷は既に食べ終えている。
「すまん、できるだけ早くすませようと思ったんだが」
『次からはあたしも一緒に連れて行って。いい?』
「……分かった。じゃあ、戻ろう」
次にここに来る時には、ノアはこの世界に少しは慣れているだろうか。いや、そもそもそれ以前にイルシアの存在を秘匿し、かつ守らなければいけない。そして、それには協力者が絶対的に足りない。それは昨日も思ったことだ。
綿貫は引き入れられるかもしれない。政府にパイプがある奴が協力してくれるなら、かなり心強い。だが、奴だけではどうしたって限界がある。たった2人でできることなんて高が知れているのだ。
俺と面識があり、かつイルシアの存在を知ってもそれを外部に漏らさず、能力に信頼がおけるような人物が必要だ。だが、そんな人物なんているだろうか?
「……あ」
いた。というより、ついさっき会った。
俺はスマホを取り出す。助手席のノアが『どうしたの?』と首を傾げた。
「一瞬だけ待っていいか。連絡を取りたい奴がいる」
『ワタヌキって人?』
「違う。俺たちの協力者になるかもしれない奴だ」
睦月の番号はまだ残っていた。別れた恋人の電話番号を消さなかったのは、いつかよりを戻したいとどこかで思っていたからなのだろうが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
5コール目に「もしもし」と彼女が出た。俺は安堵する。
「俺だ。さっきはどうも」
「……何の用なの。まさか、やり直したいとか言わないわよね」
訝し気な声が聞こえてくる。それはそうだろう。別れた男からの電話など、一般的にはろくなものじゃない。
「そんな馬鹿な。ただ、ちょっと重要な話がある。君だけじゃなく、秩父市にとっても物凄く大きな話だ」
「余多話なら切るわよ。あなたがそこまで堕ちてるとは、思いもしなかった」
「残念ながら堕ちちゃいない。今からショートメールを送る。その住所に、15時に来てくれ。会わせたい奴らがいる」
「……会わせたい人??」
「そうだ。宗教絡みとかじゃないから安心してくれ。一人は衆議院議員の綿貫恭平だ」
「……綿貫?あのYouTubeで有名な??」
睦月の声のボリュームが上がった。やはり綿貫のことは知ってたか。
「そうだ。俺の商社時代の同僚なんだ。あるプロジェクトで、俺と協力することになる予定だ。そして、そのプロジェクトに君も呼びたい」
「プロジェクト??一体何の」
「それを説明するには、見てもらった方が早い。一応言っておくが、ベンチャーの起業とかじゃない。金銭面で君に負担をかけることはないから安心してくれ」
「……あなた『奴ら』って言ったわよね。別に会わせたい人物がいるの?」
「流石だな。今回の件は、その子に深い繋がりがある話だ。一通り説明を受けて、納得できたなら乗ってくれ。強制はしない」
「話に具体性がないわ。どうしてそこまでぼかすの」
俺の知っている睦月になってきた。それに微かな喜びを感じつつ、俺は話を続ける。
「今ここでそれを話しても信じてもらえないと思っているからだ。ただ、綿貫は乗った。あの男は馬鹿じゃない」
「……どうして、私に声をかけたの」
「君なら俺に協力してくれると思ったからだ。それだけじゃダメか」
10秒ほどの沈黙が流れた後、溜め息と共に「分かった」と声が聞こえた。
「行くだけは行ってみる。ただ、意味がないと思ったらすぐに帰るから」
「ああ、それでいい。ただ、俺たちには君が必要だ。それだけは言っとく」
「……分かった」
通話を切ると『女の人?』とノアが訊いてきた。俺は頷く。
「昔の知り合いだよ。15時に、うちに来ることになった」
『知り合い?何でまた。ワタヌキって人だけじゃダメなの?』
「市役所に勤めてる奴だ。つまり、市長とのパイプ役になり得る。イルシアを世間から守り通すには、国だけじゃなく自治体の協力も必要だからな」
『なるほど……市長を巻き込むのに必要ということね』
「理解が早くて助かる。家に戻ったら一度イルシア王城に向かおう。ゴイルにも話をしておかないとな」
*
家に着いたのは11時少し前だ。食料品だけ冷蔵庫に詰め込んで、すぐに車でイルシア王城に向かう。
ノアが結界を破ると、通りは兵士たちで溢れていた。明らかに何かあった感じだ。
ノアはそのうちの一人に駆け寄る。
「アルヴァ・ジャメ??」
「ヒ……ヒウス・エル・ジャディア・ヌ・ビエンッ!!!」
「……クァオ!!?」
驚愕した表情をノアが浮かべている。「何があったんだ」と訊くと、彼女は顔面蒼白になって答えた。
『……『御柱様』が、行方不明になったらしいの』




