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通話を切ると、俺は思わず安堵の息を漏らした。
一度電話を切られた時には、正直ダメかと思った。綿貫は慎重で頭も回る。奴の疑い深さを考えたら、これは相当以上に危ない橋を渡っていたのかもしれない。
『どうだったの』
不安そうに訊くノアに、俺は安心させようと作り笑いを浮かべた。
「何とか上手く行った。明日の15時に、俺の家に来るよう伝えておいた」
『あなたの家に?』
「ああ。君にも会ってもらう。あの分なら、イルシアの存在も信じてもらえると思う」
綿貫は「納得はしていない」と言っていたが、かなり前のめりになっているのは察した。奴からすれば、自身の存在感を党内で高める絶好機が来たと思っているに違いない。
利に敏い綿貫なら、そう動いてくれると思っていた。危うかったが、ここまでは何とか読み筋通りだ。
問題はここからだ。むしろ、ここからが本番とも言える。
YouTubeやTVへの出演、そして「幻の総理」綿貫信平の息子という点で、綿貫の知名度は他の新人議員よりは大分高い。それでも所詮一年生議員だ。動かせる政治力も金も、どうしても限定的にならざるを得ない。
ここから次のステップ——イルシアを秘匿しながら保護するという難関を越えるには、相当な権力を動かせる誰かの力を借りる必要がある。
そのカギとなるのが、綿貫が所属する党内第二の派閥「浅尾派」だ。領袖である元総理・浅尾肇を動かせれば、かなりの時間は稼げるかもしれない。だが、そんな大物をどうやって動かすか?
少なくとも、俺単独では無理だ。綿貫に任せるしかないが、どこまでできるのだろう。そこは奴の政治家としての力量次第だが、そればかりは俺に知る由もない。
そして、やはり喫緊の課題は水と食料だ。それぞれ別の問題がある。
食料は、差し当たって1000人の胃を満たすだけのパンと野菜、肉が必要だ。さっきざっとXのGrokで調べたが、5日分だとパンで1.5トン、野菜で2トン、肉0.75トンが必要になるらしい。
そんな莫大な量の食料を調達するには、スーパーを丸々一つ買い占めてもなお足りない。卸売業者に直接話を付けないといけないだろう。ただ、それでも調達には時間と政治力が要る。
金も相当かかる。ざっくりだが200万円超は必要だろう。いかに金を持っている綿貫とはいえ、簡単にポンと出せる金額ではない。
まだ厄介な点がある。例えば輸送方法だ。1000人分の食料を運ぶには3トントラックが最低2台は要る。ドライバーにイルシアに入ってもらうわけにもいかないから手前で荷下ろしすることになるが、どうやってあそこまで持って行くか。ドライバーへの口止め料も多分必要だ。
何より、この小さな集落に3トントラックは酷く目立つ。町内会長の大熊に知られたら、相当面倒なことになるのは必定だ。根回しをすべきだろうか?
水の確保にはまた別の問題があった。帰りにイルシア城の外部に出た時、俺は西部開発が残したと思われる廃事務所を見つけた。つまり、水道は通っているはずだ。
ただ、使われなくなってもう何年も経っているように見えた。当然、水道は止められているだろう。行政にアプローチして開通してもらう必要があるが、イルシアの存在を明かさないでそれができるのだろうか。
行政への圧力は綿貫もかけられない。つまり、秩父市役所内部の誰かを協力者としないことには、水の確保もままならないのだ。
俺は天を仰いだ。タイムリミットはイルシア城の備蓄が切れる3日後。時間的猶予はほとんどない。しかもやるべきことは山積している。俺一人では、到底その全てを片付けることは不可能だ。綿貫の力を借りても、なおできるかどうか。
ノアが『本当に大丈夫なの』と心配そうに訊いてきた。俺は笑いながら、自分に言い聞かせるように「やるしかないな」と返す。
「とりあえず協力者は1人得られそうだ。ただ、まだ足りない。そこは走りながら考えるさ。ひとまず、綿貫にもイルシアを見てもらうことになると思う。そこで奴がどう動いてくれるか次第、だな」
時計は10時近くになっていた。そろそろ寝る準備をしなければいけない。
今日一日は色々なことがあり過ぎて流石に疲れた。一度ゆっくり寝て、頭をリセットしなければ。
俺がノアに風呂に入るよう促すと、彼女は『うん』と生返事をする。
「どうかしたか?」
『いえ……つくづく不思議な世界だなって思って。こんなに魔素が薄いのに、炎熱魔法も使わずにお風呂に入れるって……。お昼の時もそうだったわ。蛇口をひねったらお湯が出たんで、びっくりしちゃった』
「イルシアにシャワーはないのか?」
『水道はあるにはあったけど、イルシア城とか限られたところにしかないわ。シャワーも多分、イルシア城内にしかない』
「随分不便な世界に聞こえるな」
ノアが『そうね』と苦笑した。
『イルシアの人の多くは炎熱魔法や氷結魔法といった初歩魔法は使えるけど、それでできることは限られてるわ。まして、部屋を勝手に冷やしたりお湯を作ったりする魔道具なんて、多分モリファスの王族でも持ってない。
こっちに来てまだ1日も経ってないけど、ここがあたしたちの世界に比べたらずっと豊かで便利なのは分かった。働いていないあなたでも、不自由なく暮らしているほどだもの』
「俺の場合は親父が残した遺産のおかげだよ。それももう残り少ない。
それに、さっきも少し話したが、俺たちがいるこの日本は世界的にも例外的に豊かな国なんだ。イルシアの人たちよりずっと貧しい生活をしている人も、数億人、いや数十億人いる。
君たちのいた世界がどんなに大変な所か知らないけど……この世界にはこの世界の難しさがある。どこであろうと、完璧に皆が幸せな世界なんてないと俺は思ってるよ」
『……そんなものなのかしら』
何か考え込んでいる様子のノアを横目に、俺はさっき取り込んでおいた彼女の服と下着を取りに行った。着慣れたものの方が、ひとまずはよく眠れるだろう。明日朝は、上だけ着替えてもらうことになるだろうが。
ノアはまだ風呂に入らず、洗面所で何かまだ考え込んでいる様子だった。着替えを手渡されたその表情は暗い。
「どうかしたか?下着を洗われるのが不快だったなら謝る」
『違うの。あなた、本当に見ていないの?』
「見ていないって、何を」
『『魔紋』。あたしの下腹部に刻まれた紋章のこと』
……そう言えば、刺青のようなものが少し見えたかもしれない。はっきりとは見ていなかったが、あれがそれなのだろうか。
そのことを告げると、ノアが大きな溜め息をついた。
『やっぱり、一部とはいえ見てしまったのね。……困ったことになった』
「そんなマズいのか?」
『……真面目な話、あなたに迷惑をかけるかもしれない。それも、一生ものの』
「一生ものとは穏やかじゃないな。迷惑ってどういうことだ?」
小さく頷くと、ノアが話し始めた。
『あの『魔紋』は、あたしが本当に小さな頃に先代の『御柱様』が刻んだものなの。あたしがこの若さでメジアでも最上位の魔導師になれたのは、それのおかげ。
大気中の魔素を取り込み、魔力として増幅させるための魔術的器官が『魔紋』なんだけど……制約もあるわ。それを最初に見た者は、魔紋の保持者の魂を一部共有してしまう』
「魂とか……言ってることがよく分からないんだが」
少し黙った後、ノアが躊躇いがちに口を開く。
『……要は、命と魔力を共有してしまうの。つまり、もしあたしが死んだら、あなたも死んでしまう。その逆もそう』
俺は思わず唾を飲み込んだ。そうか、最初に『裸を見た?』と訊いた時に随分怒っている様子に見えたが……あれは怒っているのではなく、焦っていたんだ。俺の人生を狂わせてしまうかもしれなかったから。
「解除方法は」
『……基本的にはないわ。あたしがあなたを殺さない限り。魂を他人と共有してしまった場合は、その魔術師が自らそれを断ち切るしかないの。
だから、あなたが『魔紋を見なかった』と言った時は本当に安心したの。あなたを必要以上に巻き込むことはないと思ったから』
「……すまない。『魔紋』が何か分からなかったから、昼はあんな返事をしてしまった」
ノアは苦笑しながら『いいの』と返した。
『あなたを責めるつもりはないから。それに、見られたのが一部だけなら効果は限定的かもしれない。ただ、それでもあなたの人生はあたしに縛られてしまうことになる。……あなたは、それでもいいわけ?』
「構わないさ」
俺は即答した。ノアが驚いたように目を見開く。
『……どうして』
「俺が自分自身の生き方に納得したいからさ。俺は少なくともこの3年、ただ生きているだけの存在でしかなかった。そんな人生に飽いていた。
そこに君が現れた。やっと、全力で生きるに値する『意味』ができたんだ。君を、イルシアを守るという意味が」
『あ……あなたに、何も得なんて……』
「ないと思う。だが、自分がそうしたいからそうする。それじゃダメか?」
ノアの目に涙が溜まった。そして、そのまま俺の胸の中に倒れ込む。
『本当に……どこまでお人好しなのよ、あなたはっ……!!!』
泣きじゃくるノアの頭を、俺は撫でる。やはり、今の彼女は2年前の俺とよく似ている。将来に対する不安と、誰かに縋らねば生きていけないうしろめたさ。それはかつての俺も持っていたものだった。
俺は、親父に受けた恩を返すことが遂にできなかった。だから、その分を彼女に与えてやろう。たとえ、それで俺の人生が狂ってしまったとしても。
俺は、ノアが泣き止むまで静かに彼女を撫で続けていた。
*
翌朝。トーストとサラダ、それにスクランブルエッグという簡単な朝食を済ませた俺たちは買い物に出ることにした。
今日は日曜日だ。役所が開いていない以上、水道の開通を求めることはできない。イルシアのゴイルに綿貫のことなどを伝えに行っても良かったのだが、その前に当面の食料やノアの身の回りのものを買っておく必要があった。
秩父市中心地近くにある「ドン・ジョヴァンニ」に着く。ほぼ24時間やっていて、衣料品から食料品まで幅広く買えるのがここの良い所だ。休日は地元住民だけでなく、三峰山や奥秩父に向かう観光客でもにぎわう。
ノアに「ここで待っていてくれないか」と告げるとノアが不満そうに『何で?』と口を尖らせた。まあ、そういうリアクションになるよな。
「まだ時期尚早だからな。ノアにとって、この世界の全てが珍しいだろ?そうなるとどうやったって挙動不審になる。そんな子——人間を連れて回ったら、俺まで怪しく見られてしまう。警察に通報されたら、全てがぱぁだ」
『どうして怪しく見られるのよ』
俺は言葉に窮した。未成年者略取とか言っても、この世界の法律を知らないノアに理解してもらえるはずもない。ノアの見た目は少女だ。それも、目を引くほどの美少女ときている。そんな子を連れて歩くアラサーがいたら、警察に通報される可能性は少なくない。
しかも、その少女が落ち着かない様子で辺りをきょろきょろ見ていたらなおさらのことだ。ここに来るまでの道中、彼女は見るもの全てが珍しいと言わんばかりに車窓から顔を出していた。店内に入ったらどんな挙動をするかは、簡単に想像ができる。
ノアが俺と同年齢であることを証明する身分証明書は何一つない。騒ぎにならないようにするのは、彼女を車に残すのが正解なのだ。
ただ、ノアは子供扱いされることをかなり嫌うらしかった。出会ってたった1日だが、その程度は俺にでも分かる。機嫌を損ねずにノアをここに留め置くには……
俺の視界に、かき氷のキッチンカーが入った。とりあえず、甘味で釣るか。
「ちょっとここで待っててくれ。すぐに戻る」
『え?どこに行くのよ』
「多分、ノアが今まで食べたことがないものを食べさせてやる。美味いぞ」
ノアは『本当ね?』と頬を膨らませる。やはり食い意地は張っているらしい。
秩父はかき氷が名物だ。食べるのに2時間待ちの大行列店もある。質の高い天然氷を極薄に削り出す、独特の手法が売りだ。
流石にそんな店ほどではないが、こういうキッチンカーが出すものであってもかき氷のレベルは高い。観光シーズンだからか、朝9時ぐらいにもかかわらず既に観光客の列ができ始めていた。
その最後尾に並ぶ。数分は待つことになりそうだなと何気なく辺りを見渡すと、どこかで見たことのある女性が目に入った。一杯になったビニールバッグを両手に持っている。
彼女はこちらに向かって歩いてくる。……視線が合った。お互いの表情が凍る。
……間違いない。彼女だ。
しかし、まさかここで再会するとは。しかも、このタイミングで。
「……睦月、か?」
ポニーテールの眼鏡の女性は、俺の3mほど手前で立ち止まった。
「……久しぶりね、智弘」
俺は自分の目が信じられなかった。彼女は東京にいるはずだ。どうしてここに。
こうやって会うのは、実に6年ぶりだ。最後に顔を見たのは、就職する直前だっただろうか。あの時は些細なことで喧嘩して、それっきりだった。
彼女は山下睦月。高校から5年間付き合っていた、俺の元彼女だ。




