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集中講義が終わった翌日は、桜子と悠斗、速仁の三人が、野宮を見つけて六条御息所に会おうと約束していた当日だった。そして、悠斗が店の手伝いをする週末でもあった。
この日、悠斗はだれよりも早くベッドから起きだし、店のまえの道路をひとりで掃除した。前夜に雪こそ降らなかったが、とても寒い朝だった。だが、透きとおるような空の青さと、身を切るような空気の清冽さ、そして、掃除を終え、木の葉もゴミも、ひとつとして落ちていない道路のすがすがしさが、悠斗の心をはずませた。祖父に仕込んでもらって餅屋になることも、大学でしっかりと勉強してひとかどの学識を身につけることも、どちらでも実現できる力が、体の奥底からフツフツとわき出てくるようだった。どちらかひとつでなく、両立させることだってできるにちがいない。悠斗はそう確信した。
悠斗が家のなかにもどると、春恵が朝食の準備にとりかかろうとしていた。
悠斗が家一番の早起きだったことを知った春恵は目をまるくし、悠斗は、照れくささを隠そうとして、うつむきながら作業場へむかった。
「おれ、祖父ちゃんを手伝ってくるよ」
だが悠斗は、すぐに立ち止まった。朝食の準備をいつも春恵といっしょにしているはずの桜子の姿が見えないのだ。
「桜ちゃんは?」
「きっと、疲れたはるんよ。朝ご飯ができたら、わてが起こしにいくさかい、もうすこし、寝させといてあげまひょ」
「うん、そうだな」
桜子は、昨夜、なかなか寝つけなかった。きのう、京都大学のカフェを出てからというもの、ずっと気がめいっていた。悠斗や春恵たちのまえでは明るい顔をつくるよう努めたせいで、よけいに疲れもした。
目覚めたのは、朝食時間の直前だった。きまりが悪いままに台所に顔を出したが、春恵は笑顔で迎えてくれた。
「悠斗さんに、起きるよう声をかけてきましょうか……」
桜子がそう言うと、春恵は声に出して笑った。
「それがね、さっちゃん、どう思うて? あの子ね、家でいちばん早う起きて、えらく張りきってるんよ。お天気がおかしいのも、あたりまえやわ、ホホホ」
「………」
桜子は作り笑いで応じた。今日、野宮の場所がわかれば、そこで六条御息所と会うことになるはずだ。悠斗はそれで張りきっているのだと、桜子は思った。
こうして、暖簾が春恵の手で店の入口に掲げられ、鞍馬堂の一日がはじまった。
いつもと変わらない、ゆったりと時間が流れる一日だった。
ふだんとちがっていたのは、悠斗が、祖父の一治に頼みこみ、餅づくりの特訓をしてもらったこと。そして、店番の桜子が、両頬杖をついて、店内の六条御息所人形を見すえることがなんどもあったことだ。
――きれいで、頭が良くて、趣味も上品な女君だもなぁぁ。悠斗さんが好きになるのも、あたりまえだよね。わたしは妹……、しかたない。
桜子は、悠斗の亡くなった母、大宮純花の手作りの人形をみつめながら、同じことを繰りかえし思ったのだった。
だが桜子にとって、この日の店番は、気分が晴れないままに終わったわけではなかった。
あいかわらず客は少なかったが、そのなかに、桜子が描いた絵をほめてくれた一団がいた。マンガ家を目ざして、近くの大学で学んでいる女子学生のグループだった。鞍馬寺を舞台にする歴史ファンタジーを、夏休みの課題で共同制作しようと、下調べに来たという。
それは、閉店まぎわのことだった。店内のあちこちに飾られている色紙絵を見た彼女たちは、桜子の才能に感心した。
「この絵なんか、最高におもしろいやんか」
彼女たちが口をそろえてほめたのは、光源氏と若紫が人形遊びをしている源氏絵だった。しかも、光源氏が手に持っているのは、よく見ると、ユルトラオムなのだ。光源氏と若紫とのあいだには、これもユルトラ怪獣が何体もある。
そして、大机で若紫餅を頬ばりながら女子学生たちが話しかけてくれる言葉に、桜子は、ハッと目を開かせられたのだった。
「私たちの大学で、絵やマンガをいっしょに勉強できたらいいね」
「きっと、一人前の芸術家になって、いい仕事ができるよ」
「いい仕事ができたら、男に頼って生きていく必要もない」
「男ってね、女から頼られるのが好きらしいけれど、頼られっぱなしというのは、男にとってもつらいんじゃない」
そういう言葉が、桜子には、思いがけないことだったのだ。
この世界では、千年まえとちがい、女性も大学で勉強できる。そのことに桜子は、悠斗につれられて京都大学の授業を受けたときに気がついていた。受講生のおよそ半分が、女子学生だったのだ。だが、自分が大学で、悠斗の傘から離れて勉強するなどとは、そのときは考えもしなかった。
学生たちを店の外まで見送った桜子には、遠ざかっていく彼女たちの、はつらつとした背中がまぶしかった。
――大学へ行って、絵の勉強をしたいなぁぁ。あのお姉さんたちのようなすてきな女君になったら、悠斗さんも、ふりむいてくれるかも、……。
そのうえ、いつまでも悠斗に頼っていてはいけないとも思った。「頼られっぱなしというのは、男にとってもつらいんじゃない」という、学生のひとりが口にした言葉が、桜子の胸にズシンと響いていた。
――わたしの面倒ばかり見ていたら、悠斗さんも疲れてしまうよね。お友だちとの旅行にわたしがついて行けなくても、しかたない。悠斗さんのためだもの……。
女子学生たちが鞍馬駅のほうへと道を折れ、桜子の視界から消えると、もう鞍馬堂の閉店時間が迫っていた。
桜子は、悠斗にうながされ、てばやく外出の準備をはじめた。ふたりは、日没どきにこの世界にやってくることになっている速仁を、出町デルタの河川敷で待つつもりなのだ。
暖簾の片づけは、春恵の仕事だ。今日は、一治もいっしょだった。ふたりは、暖簾を降ろしながら桜子と悠斗を見送り、そのあと、夕食まえのひとときを、店内の大机で、お茶を飲みながらすごした。
「おじいさん、ごくろうさんどした。悠くんは、どうでした? あの子、朝からえらく張りきったはったけど……」
「週末だけでなく、来週もずっと特訓して欲しいそうや。台湾やったかな、……サークルの友だちと、どこぞに月曜から旅行する予定やったらしいけど、悠くんはとりやめるそうや」
「そりゃ、そのほうがええわ。さっちゃんの記憶喪失がまだ治ってないんやし……」
「さっちゃんにはええことやけど、わしはたいへんや。悠くんを一人前の餅職人にするのは、おおごとやで」
「ほほほ、わても、そう思うてました」
一治は、お茶を一口すすったあと、また口をひらいた。
「悠くんには学者の道に進んで欲しいと、思うてるんやろ……」
「ええ、そうどす。この家に住んで、京都のどこぞの大学の先生になってくれたらええんやけど……」
「ほな、やっぱりわしらの代で、この店をたたまなあかんな」
一治がポツリとそう言うと、春恵は、店の壁に飾られている源氏絵の色紙に目をやった。さきほどの女子学生たちが、こぞっておもしろがった絵だ。光源氏と若紫が人形遊びをしている。桜子が描いた色紙絵のなかで、春恵もいちばん気にいっているものだった。
「さっちゃんと悠くんが、このまま仲良うなって結婚してくれたらね、と思うとります。そうなったら、職人さんを外から雇い入れ、さっちゃんが店を切り盛りしてくれはりまっしゃろ」
「それが、いちばんええけどな……。でも、潤一郎くんは、悠くんに会社を継いでもらいたいんやろ?」
一治のその言葉に、穏やかだった春恵の表情が、とつぜん険しくなった。
「純花が死んでしもうた、ほんまの理由を知ったら、悠くんは、潤一郎さんと、それこそ口もきかんようになってしまいますえ。悠くんは、潤一郎さんと離れて暮らしたほうが、ええと思います。おたがいのためやわ」
「ほんまの理由ってゆうてもな、あれは、だれのせいでもないで。そうゆうめぐりあわせやったんや」
「わても、ようわかっとります。そやから、潤一郎さんのことにしたって、もうなにも恨んだりしてまへん。そやけど、さっちゃんがこの家にきてくれて、ようやく悠くんがもとの明るい子になったのに、純花が亡くなった当時のいろんなイヤなことが悠くんの耳に入ったりしたら、……」
「そうやな……。まぁぁ、なるようにしかならんやろ。だいいち、悠くんはさっちゃんのこと好きそうやけど、さっちゃんの気持ちもあるよって……」
「ほほほ、ほんまやわ。悠くんは、ちょっと男はんとしては頼りないところがあるさかい」
「そうなんよ、ちょっとな。わしの孫やのになぁぁ」
「おじいさん、なにゆうたはりますの。あんさんの孫やからでっしゃろ、ほほほ」
「へぇへぇ、そういうことにしときまひょ」
そう言って一治は椅子から立ちあがり、そして言葉をついだ。
「悠くんが丸めた餅を、仏壇にお供えしてくるわ。餅はシワシワやけど、いい息子に育ってるよと、純花に言うてくる」




