9-3
「やはり、シロはいないですね……」
京都大学時計台広場のカフェで、桜子が悠斗に語りかけていた。
集中講義期間中、ふたりは講義がおわるといつも、スズメのシロがいないか、キャンパスの木立に目をやりながらこのカフェに入り、鞍馬へもどるまでのいっときをすごしてきたのだ。
講義最終日のこの日は、まだ九月上旬だというのに、はやくも寒波が到来していた。ふたりは、店内のテーブルに席をしめ、ときおりガラス窓越しに外をみやった。
「もうシロの絵は描けたの?」
そうたずねる悠斗に、桜子は首を左右にふった。
「目を何色にしようか、迷っているの。金色か赤か、悠斗さんはどう思って?」
「うーん、おれは赤い目が好きだな。シロは、おれの指をガシガシってかむとき、目が赤いだろ。痛いけど、かわいいよ」
エサを与えたり、指をかませたりしてシロと遊んでいる悠斗が、桜子はとくに好きだった。目を赤く描こうかと桜子が考える理由は、はたしてそこにあった。悠斗と鞍馬堂に住むという幸せが、いつまでもつづいて欲しかった。
「でもね悠斗さん。金色の目のシロも、りりしくてすてきだと思うの……」
こういうときのシロこそ、源氏の新帖がみつかる吉兆のように、桜子には思えてならなかった。
「だったら、目の色がちがうのを一枚ずつ描いたらどうかな……。それで、一枚、おれにくれる? 部屋に飾っておきたい」
「ガイアのよこに? それとも、ギエモン星獣のよこに?」
ふたりは目をあわせ、声を抑えて笑いあった。
桜子はこれまでに悠斗から、ユルトラオムファミリーはもちろんのこと、ユルトラ怪獣の名前をずいぶんと教わっていた。フィギュアを手に持って興奮気味に怪獣やガイアの話しをする悠斗を見ていると、桜子はいつも心地よかった。
「桜ちゃんは、母さんとおなじように、ギエモン星獣がお気にいりだね」
「だって、ギエちゃんは鳥でしょ。それに、ちょっと凶暴そうな目つきが、シロちゃんに似ている」
まじめな顔で桜子がそう言うと、悠斗は、氷水の入ったコップをつよく握りしめ、
「おぉぉ、そうだよな」と、
身を乗りだすようにして応じた。
と、そのとき、
「ヨッ! 武藤、ひさしぶり!」
ジーンズのパンツにジャージをはおっている、オシャレからほど遠い男が、悠斗の左肩に背後から手をかけた。
「上島か……。驚かすなよ」
その男は、悠斗のフットサル仲間だった。同じ文学部の二年生なので、サークル内でもっとも親しくしている仲だ。口は悪いが裏表のないサッパリとした性格で、悠斗にとっては気安い友人だった。
上島は、悠斗のよこに突っ立ったまま、頭をかいていた。
「スマン、スマン。源氏物語の集中講義は終わったみたいだな……」
「ああ。――おまえは別の集中に出てたのか? 日本史?」
「まぁ、そうだけど。――ほかに言うことがあるんじゃないの?」
「!?………」
上島は、桜子の顔をチラッと見たあと、また口をひらいた。
「ここに座れとか、ふつう言うだろ。武藤は、ほんと、気がきかないよな……」
悠斗は、「おまえこそ気がきかない」と言いかえそうと思った。だが、ノドまで出かけたその言葉を、グッと飲みこんだ。そんなことを言えば、桜子への自分の熱い思いを、いまここで公言するようなものだ。
桜子には特別な場所で思いを伝えようと、悠斗は決めていた。源氏物語の新帖を見つけたあかつきに、石山寺へいっしょに参詣して、そこで打ち明けようと思っているのだ。そのときには、石山の観音に、この世界でも千年昔の世界でも、どちらでもよいから、ふたりを同じ世界に置いて欲しい、と祈願するつもりでもいた。
「悪い、ここに座れよ」
と言いながら、悠斗は、となりの椅子の上に置いていた自分のカバンを床に移した。
「サンキュウー」
上島は、そう言ったものの、チャッカリと桜子のよこに座った。
悠斗は、あきれかえりながらも、きげんよく桜子の名前を紹介した。
「ああ、知ってる。おまえと同じ授業に出てたヤツから聞いた。武藤の親戚だと聞いたけど、ひょっとして、苗字のちがう妹さんでしょうか……」
からかい顔で上島からたずねられた悠斗は、
「想像にまかせるよ」と、
笑みで応じた。
「ハイハイ、妄想しときます」
上島はそう言ったあと、桜子がとびぬけて勉強ができるという評判がたっていることを語った。そして、源氏物語について知っている少ない知識をありったけ、ペラペラとまくしたてたあと、桜子に、携帯端末のアドレス交換を頼んだ。
アドレスの意味がわからない桜子は、悠斗の顔をうかがった。
悠斗は笑いながら、桜子に替わって、けんもほろろに突っぱねた。
「おまえに教えるわけないだろ。連絡を取りたかったら、おれを通せ」
「オイ、オイ、おまえがダメ出しすることないだろ。かわいい妹を守るお兄ちゃん、ってとこか……。ハイハイ、わかったよ」
悠斗はおうように笑っていたが、桜子は、上島の言っていることが、ほとんど理解できなかった。早口だったうえに、カタカナ言葉がまったくわからなかったのだ。そのことでかえって、「妹」と「兄」という言葉が、桜子の耳につよく響いた。
――わたしは、やはり妹にすぎないのかな……。
気分がふさぎだした桜子のかたわらで、悠斗と上島は、たわいなく言葉をかわしつづけていた。
「上島、おまえジャージのしたにセーターなんか着こんで、いくらなんでも厚着じゃないの?」
「おれは今からバイトで、下宿にもどるのは深夜なの。今夜は、そうとうに冷えこむらしいからな」
「ふーん、そうなのか……。地球温暖化なのにな」
「武藤は、あいかわらずニュースにうといな。この寒さは京都限定らしいぞ。前例のない気圧配置になってて、気象学者たちが首をひねってるってよ」
「へぇぇ、知らなかった。おれのニュース源は、いつも上島だな。頼りにしてます、アハハ」
「なら、もっとくわしく教えてやる。今夜の京都市内は、十一月下旬の気温になるらしい。おまえが住んでる山おくの鞍馬なんか、雪が降るんじゃないか」
「まさかぁぁ。それに鞍馬は、おまえが思ってるほど田舎じゃないぞ。たしかに、猿は出没するけどな」
「ほれ、やっぱり山おくだ」
「アハハ、そうだな。――それで、明日はどうなんだ? 今日よりも冷えこむかな?」
「さぁぁ、どうかな、そこまでは知らん。――どうしてだ?」
「集中講義で取りあげられた場所へ行ってこようと思って……」
「源氏物語だったら、嵯峨野か?」
「まぁぁな」
「サークル仲間でこの春に嵯峨野へ行ったとき、おまえ来なかっただろ。おれたち、がっかりしたんだぞ、人寄せパンダが来ないって」
「なんだ、それ?」
「おまえ、モテるの自覚ないもんな。まっ、そのほうが、おれたちには都合がいいけどな」
「おれ、ぜんぜんモテないぞ、アハハ」
「ほれ、やっぱり自覚ゼロだ。先輩が言ってたぞ、おまえがサークルに入ってから、一、二年生の女子メンバーが増えたって」
「へぇぇ、そうなのか。知らなかった」
「武藤は、年下とか同級生に関心なさそうだものな。夏休み前のコンパでの罰ゲーム、覚えてる? おまえ、好きな人の名前をみんなのまえで言わされることになって、『六条御息所でーす』って叫んだだろ」
「それがな、うっすらとしか覚えてないんだ。おれ、フルーツサイダーを飲んでたはずなのに、だれかが焼酎を混ぜたらしくて……。三次元でなく二次元キャラ好きのオタクだって、思われたかな、アハハ。ほんとは、そうじゃないよ。六条御息所っていっても、あくまでそれは仮想で、現実はちがう、アハハ」
悠斗は、そう言いながら、桜子に笑い顔をむけた。
「おまえ、変わったな……」と、
上島は悠斗にむかって肩をすくめた。
「エッ、どこが?」
「どこがって、笑うようになった。すかしたヤツだったのが、笑顔もくわわって、ますます人寄せパンダ」
「なんだよ、それ、アハハ」
悠斗は肩をすくめたが、たしかに上島が言うとおりだと思った。そして、ささいなことでも心から笑えるようになった自分が、悠斗はうれしかった。桜子のおかげで自分は変わったのだ。悠斗は、ふたたび桜子に笑みをむけた。
桜子は悠斗に笑顔をかえした。だが、こわばった笑みだった。好きな女性は「六条御息所でーす」。悠斗が口に出したというその言葉が、桜子の胸に突きささっていた。ヴァーチャルやリアリティなど、悠斗が上島とかわしたカタカナ言葉の意味がわからないせいで、桜子の落ちこみはますます大きかった。
「おれ、そろそろバイトに行くわ」
上島は、コーヒーを飲みおえると立ちあがった。そして別れぎわに、サークル旅行のことを口にした。三日後の月曜から二泊三日の台湾旅行だという。
「女子の参加率が高いのは、武藤のおかげだな。それじゃ、こんどは関空で会おう」
悠斗は呆然とした。海外旅行のことを、すっかり忘れていたのだ。
――桜ちゃんはパスポートないし、いっしょに行けないよな……。
悠斗は桜子のようすをソーッとうかがった。六条御息所のことで落ちこんでいる桜子の顔が、悠斗には、数日でも悠斗と離れることを悲しんでいるように思えた。
悠斗は内心、それがうれしかった。




