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速仁が源氏物語全帖をあらためて読みはじめたとき、悠斗も京都大学文学部の教室のなかで、スマートフォンの画面に表示した〈初音〉帖の文章に、ときおり視線をむけていた。
頭中将に檜扇を譲ってもらった週から、他大学の教師をまねいての集中講義とよばれる特別授業が文学部ではじまり、悠斗はそのひとつに出席しているのだ。悠斗が選んだ講義は、〈中・近世日本における源氏物語の受容〉という題目の、おもに源氏絵についてのものだった。
三日まえの初日の講義では、序章として国宝「源氏物語絵巻」が取りあげられた。平安時代末期に制作された源氏絵だ。
この授業が思いのほかに楽しかった悠斗は、二日目から桜子を教室にともなった。担当の女性教師に、桜子を親戚の他大学一年生だと紹介し、特別に聴講させてくださいと頼んだ。
「ふーん、親戚ね……。授業をデート代わりに使わないなら、いいわよ」
心のなかを見すかすような教師の言葉に、悠斗は顔がほてるのを感じた。だが、自分と桜子が恋人どうしのように思われたことに、内心まんざらでもなかった。悠斗は教師に頭をさげながら、上目づかいで桜子を見た。
デートという言葉の意味を知らない桜子は、キョトンとしたあと、悠斗よりもていねいに辞儀をしていた。
速仁が〈桐壺〉帖を読みはじめたこの日は、四日間つづく集中講義の最終日だった。
国宝「源氏物語絵巻」が豊臣秀吉によって蒐集されていたらしいこと。大坂城落城のさいに、それらが戦利品として、徳川家康と蜂須賀家の所有に帰したこと。それからおよそ二か月後、家康は京都の二条城で、源氏一族全体の氏長者だった中院通村から、源氏物語の秘伝伝授を受けたこと。家康のその行為は、秘伝によって文化的権威を獲得し、徳川権力の正統性を揺るぎないものにすることにあったと考えられている。
ときおりアクビをしながらも耳をかたむけている学生たちに、教師がさらに説明をつづけた。
「秘伝伝授という、物語解釈の奥義について講釈を受けるにあたり、家康は、ある帖の冒頭をみずから音読したと、中院通村が日記のなかで記録しているの。それで、冒頭のその一節なんだけれど、光源氏の屋敷である六条院を舞台にして、年があらたまった元日の朝の、そのすがすがしさが描かれているのよ。つまり家康は、豊臣に替わる徳川の支配が名実ともに始まったことを、この一節に仮託したわけ」
そこでいったん話しを閉じ、教師は、教室全体を見わたしながら問いを投げかけた。
「ところで、家康が音読した一節って、どこの帖か、わかりますか?」
三十人ほどの教室は、もちろんシーンとしたままだ。
「藤原さんなら、わかるのじゃない?」
教師は、にこやかな顔で桜子に問いかけた。
こうした質問に、集中講義のあいだ、桜子はやすやすと答えてきたのだ。桜子の深い学識は、受講生はもちろん、教師も驚かせるものだった。
教師の質問にこたえて、桜子は一言一言ゆっくりと原文をそらんじた。
「年立ち返る朝の空の気色、なごりなく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根の内だに、雪間の草、若やかに色づきはじめ、いつしかと気色だつ霞に、木の芽もうちけぶり、おのづから人の心も、のびらかにぞ見ゆるかし。――〈初音〉帖ではないでしょうか……」
桜子はあまり自信がなかったが、教師は満足の笑みをうかべた。
「はい、そのとおり。さすが藤原さんね。――文章の意味は、みなさん、あとで自分たちで調べておきなさい」
教師はそう言うと、つぎは〈初音の調度〉について説明をはじめた。
秘伝伝授から二十四年後、徳川第三代将軍家光の長女である千代姫が、尾張徳川家二代の光友に嫁いだ。そのときの婚礼道具が〈初音の調度〉とよばれることになるのだが、それは、その蒔絵意匠が〈初音〉帖に題材をとっているからである。
そして、〈はつね〉という言葉には、何重もの意味がこめられている。まず、十二支で日付を表していたむかし、正月の最初の〈子の日〉は初子とよばれ、その日には、野原で小さな松を根っこごと引き抜き、これを初根と称し、庭に移し植えるなどして長寿を祈り祝う習慣があった。〈初音〉帖で描かれる元日は、たまたま初子でもあり、二重にめでたい日だった。光源氏の六条院では、この日、明石の姫君付きの童女たちが、庭で小松引きのまねごとをして遊ぶのだった。
また、その年最初のウグイスの鳴き声は、初音とよばれる。厳しい冬の終わりと暖かい春の訪れを告げる吉兆であると同時に、初子や初根と音が同じであることからも、ウグイスの初音はたいそう愛でられた。
それにくわえ、初子は、夫婦の最初の子である初子とつながることから、〈初音〉帖は、婚礼調度の意匠にふさわしい題材だったのである。
「でも、もちろん徳川家光は、祖父の家康が徳川政権の前途洋々な船出を誇って〈初音〉帖の一節を音読したことを、娘の婚礼道具をつうじて再確認しようとしたとも考えられる。〈初音〉帖は、徳川政権にとって支配の象徴だったわけ」
教師はひと息つき、さきほどからスマートフォンの画面をチラチラ見ている悠斗に問いかけた。
「最近は便利な道具があるわね。わたしがこの大学の学生だったときは、重い本を教室に持ちこんだものよ。――その器械を見ながらでいいから、元日に六条院の庭で小松が引き抜かれるようすがどう書かれているか、原文を読みあげてちょうだい。きみ、原文をその器械で確認しているのでしょ?」
そう問いかける教師の顔は、穏やかさとからかいが入りまじっていた。
――そんなわけないわよね。どうせ、デートの下調べでもしているんでしょ。
悠斗は、首筋を手でかきながら、しどろもどろに口を開いた。
「えーと、ここだと思いますが……。〈姫君の御方に渡りたまへれば、童、下仕など、御前の山の小松ひき遊ぶ〉――光源氏が明石の姫君の部屋へ新年のあいさつに行くと、庭さきの築山に生えている小さな松を、女の子たちがひき抜いていた、ってことです」
「はい、そうです」
――へぇぇ、……意外。けっこう真面目な子なんだ。
教師は顔色ひとつ変えず、質問をつづけた。
「それでは、帖の名前のいわれにもなっているウグイスの鳴き声については、どう描かれているかな? それも、みんなに説明してちょうだい」
この質問には、なにも見ずに答えられる自信が、悠斗にもあった。それでも悠斗は、慎重にスマートフォンをのぞき見しながら答えた。
「えーと、光源氏は、小松をひき抜いて遊んでいる女の子たちを見たあと、五葉松の枝にウグイスが留まっているという、正月らしい作り物が明石の姫君に贈られていることにも気づきました。それは、姫君の母で、渡り廊下でつながっている建物に住んでいながら何年も会っていない明石の方からの、新年の贈り物でした。文が添えられていて、その和歌には、ウグイスの鳴き声に託して明石の方の思いがこめられていました――年月を 松にひかれて 経る人に 今日鴬の 初音聞かせよ」
こうして講義時間がゆったりと流れ、最後の時限は文学部図書室での実習となった。
京都大学文学部には、江戸時代に制作された源氏絵の和装本や巻物が収蔵されている。ページの繰りかたなどの取り扱い方法を学んだのち、悠斗と桜子たちは、現物の源氏絵の世界にふれた。
桜子にとっても、源氏絵を目にするのは初めての経験だった。紫式部が生きていたころは、まだ源氏物語の絵画化がおこなわれていなかったのだ。桜子は、源氏物語が千年有余のあいだ、さまざまなかたちで人びとに親しまれてきたことを、この集中講義をつうじて、あらためて知った。式部の孫娘として、誇らしいと同時に、自分自身も物語をますます広めるのに力をつくしたいと、源氏絵を見ながら思った。
悠斗は、古い貴重な資料が自身の学部に所蔵されていることに驚いた。しかも、じかに手をふれることが、研究者はもちろん、学生にも許可されている。紙にふれると、指先から、二百年、三百年まえの絵師の息づかいが伝わってくるように思えた。悠斗は、心地よい興奮をおぼえた。
だが、本文のくずし字は、まったく読めなかった。源氏物語の新帖を首尾よく発見できれば、桜子といっしょに、だれよりも早く読んでみたい。できれば、頬をよせあうぐらいにして……。そう願ってきた悠斗だったが、くずし字が読めなければ、どうしようもない。
――おれ、解読能力、ゼロだわ……。勉強しなきゃ!
悠斗は、あらためてそう決意したあと、教師がひろげてくれた絵巻を、桜子といっしょに見入った。詞書きのないその巻物は、江戸時代中期に山本守礼が描いた、多色の繊細な源氏絵だった。
そのなかに、一台の牛車が黒木の鳥居のまえに停まっているようすを描いたものがあった。白と紫のキキョウ、赤紫のハギとフジバカマ、そして黄色のオミナエシといった草花が前景に配され、秋の風情が醸しだされている。
悠斗は、目のまえに座っている教師に、おそるおそるたずねた。
「あのぉぉ、これは〈賢木〉帖で、野宮へむかう光源氏が描かれているのですか?」
「ええ、そうよ。あなたの名前は、武藤くんだったかな……?。武藤くんも、なかなか勉強しているわね」
そう言ってくれた教師の言葉に勇気づけられ、悠斗は思いきってたずねた。
「野宮は、嵯峨野にあるという設定なのでしょうか?」
「ふつうはそう考えられているし、わたしもそう思うわ」
教師はそう答えたあと、その理由も説明した。――
六条御息所の娘で、野宮にこもって潔斎していた斎宮は、伊勢へ出立する朝、桂川で御祓をしてから、いったん御所へ参内する。だから地理的にいって、このときの野宮は、桂川の東岸から北方へひろがっている嵯峨野にあったと考えるのが自然なのだ。
「でもね、〈賢木〉帖では、嵯峨野という固有名詞は使われない。ただたんに、野辺のさきに野宮がある、と書かれているだけね」
教師がそうつけくわえると、悠斗がすぐに応じた。
「〈はるけき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり〉――ですよね」
「まぁ、武藤くん! そのとおりよ。たいしたものね」
顔を見あわせてほほえむ桜子と悠斗を目のまえにして、教師は言葉をついだ。
「源氏物語に登場する野原のうち、固有名詞をつけて表されているのは三つあるの。嵯峨野と紫野、そして鳥辺野。だから、〈賢木〉帖のなかで野辺としか書かれていないのは、読者が想像できる余地を広くしておきたいと、紫式部が考えたからかもしれないわね」
悠斗はそくざに、
「それって、〈北山のなにがし寺〉と同じですよね。その寺を、鞍馬寺だと思う人もいるし、ほかの寺だと考える人もいる。それぞれ想像をたくましくして、文学という虚構の世界を楽しむわけですね」
と、自分の考えを述べた。そして、にこやかな教師の顔を確認すると、いきおいこんで言葉をついだ。
「鞍馬で藤原さんといっしょに暮らしてるんですけど、ご近所さんはみんな、〈北山のなにがし寺〉を鞍馬寺だと思ってるようなんです」
桜子も笑みをうかべながら、また悠斗と顔を見あわせた。
クックッと笑いあうふたりを目のまえにして、教師の顔が、わずかにくもった。
――ふーん、このふたり、いっしょに住んでいるんだわ……。楽しい学生生活だこと。わたしが学生のころは、武藤くんのような美形の男の子なんか、まわりにいなかったなぁぁ。




