2
小さな頃、プリンセスになるのが夢だった。
シンデレラ、白雪姫、人魚姫、自分もいつしかそれに連なるのだと信じて疑わなかった。ボロボロになるまで読んだプリンセスの絵本。
いつからだろう。それが、夢で終わるのだと確信されたのは。
どうしたってこの体を抜け出せない、そうわかってからは絶望だった。
どんなに着飾ってみせても、どんなに振舞を気を付けても滑稽なだけ。プリンセスにはなれない。
でもだからといって男らしい恰好なんてできやしない。
そんなどっちつかずの沼に沈みこみながら、誰も自分のことなんてわかってはくれない、そう思っていた。
でも周りは、そうではなかった。
特にクラスの女の子たちは、朱里を女の子として受け入れていた。
ーー男の子の体なの
そう伝えても、全くお構いなし。
「ああ、そうだっけ」
「でも朱里はかわいいのが好きだよね」
「ねえ、今度クラスの女子たちでお揃のリボン買いに行こう、運動会用にさ」
朱里はそう声を掛けられるたびに驚き、でも本心では抑えられない程に歓喜が襲った。
それがいつまでも忘れ得難い思い出となったのは中学三年生の春、修学旅行のことだった。
朱里は大地たちのいる男子班に入った。さすがに女子と宿泊を共にすることは心情的にも、おそらくはルール的にもできなかった。
担任教師は、こっそりと朱里に「女子班に入りたいなら女子班の親御さんに了承を得るよ」と言ってくれたが、とてもそんな勇気は出なかった。
男子と宿泊をするなんてことになったら、親は不安を抱くだろう。一体何を考えているのだと先生が責められたら、とも思うと、とてもではないが我儘は言い出せなかった。しかし、当の女子たちは違っていた。
「ねえ、どうして朱里男子班なの?」
そう言い出したのは一人、二人ではなかった。
朱里はいつものように、メモ帳に
ーー私体男だから
と苦笑いを浮かべて見せる。
「でも……」美鈴は口ごもる。
「先生にお願いしてみるよ」
朱里は慌てて美鈴の腕を掴み、首を横に振った。
女子たちは考えた。
朱里は体は男かもしれない。きっと本人が言っているのだから、そうなのだろう。でも、見た目も心もどう見たって女の子だ。セーラー服を着ていて、ピアノと習字が上手で自分のことは「私」だし、日舞と華道を習っている。ペンケースはミッフィー、ハンカチは大抵花柄のローラアシュレイ。
女子たちはどうすれば朱里を女子班に入れられるか、放課後、夕焼けの差し込む教室で策を練った。
誰も朱里と同部屋になって嫌がる女子はいない。親だって小学校の頃ラベンダー色のランドセルを背負って、フリルのスカートを穿いていた朱里を知っているのだ。反対する人なんているわけがない。
「うちの親、多分朱里が男の子だって忘れてる」愛莉がため息交じりに言った。
「うちも」美鈴も頷いた。
「うちの親なんてさ、朱里のこと、『鈴木先生のとこのお嬢さん』って言ってる」と言い出したのは、朱里と同じピアノ教室にも通っていたあやの。
皆頷き合う。
「修学旅行だってさ、朱里が女子班に入りたいと一言言ってくれれば済む話だと思う」
女子たちはそう結論付けた。
「だよね」
「朱里って、なんか色々な場面でうちらにすごく遠慮してる気がする」
頷き合う。
「トイレ誘っても私体男だから、っていつも言う」
「先輩から女装だなんだって変なこと言われても黙ってるし」
女子たちはふと、とある記憶を蘇らせてぷっと噴き出した。
「一年の時ね。大地かっこよかったじゃん、……あの先輩らと戦ってさ」
女子たちはいっせいに笑い出した。
それは入学間もない頃だった。昼休み、朱里たちの教室にガラの悪い一つ上の学年の男子数人がどすどすとやってきて、
「なあ、ここに男なのにセーラー着てるやついんだって? どいつ?」と下卑た笑みを浮かべながら宣ったのである。
教室の一番後ろの席で一人静かに本を読んでいた朱里は、もうその言葉が言い終わらぬ間から震え上がった。
そこで教室で友達とふざけ合っていた大地が、即座に立ち上がったのだった。
「おめらには関係のねえ話だべ、帰ってくろ!」
「ああ?」
上級生の威信に泥を塗られたと思ったか、騒いでいた三年生の男子たちは大地を睨みながら一気に詰め寄った。
「友達になってやろうって思って、わざわざ下の教室から来てやったんだぞ」
「ほっだら友達いんねえ!」
「はあ? おめに関係ねえべ!」
上級生は勢いよく殴りかかった。
大地が勢いよく倒れ、悲鳴が上がる。そこに廊下で、調理実習で作ったパウンドケーキを携えて来た女の子たちに囲まれていたルアンが慌てて飛び込んできた。惑う間もなく華麗な横蹴り。今度は上級生が吹っ飛ぶ。
再び悲鳴が上がった。
そこからはほとんどくんずほぐれつの大乱闘である。
女子たちが悲鳴を上げ逃げ回る中、朱里を連れだして職員室に走ったのは愛莉であった。
扉を勢いよく開け放つや否や、「先生! 大変! 教室で喧嘩してる! 三年生が来て、大変なの!」そう叫んだ。
教員たちはいっせいに立ち上がり、一年生の教室へと走り去っていく。誰もいなくなった職員室で震える朱里の肩をぎゅっと抱きながら、愛莉は「大丈夫大丈夫」と呟き続けた。ほら、女の子じゃん、そう思いながら……。
「あれは忘れらんないよねえ……」
「あれからもう二年か」
「最後の年ぐらいさ、朱里ともっと仲良くなっておきたいよね」
女子たちは真剣な眼差しで頷き合った。
翌朝のこと。
愛莉がパンフレットを手に慌ただしく教室に入って来た。
「ねえ、みんな、見てこれ!」
真ん中の机の上に広げて見せたそれは、修学旅行の行先である京都の着物店のパンフレットだった。
「昨日さ、部室で見つけたの! これ、蘭先輩たちが言ってた着物体験のパンフ! 蘭先輩たち京都で着物体験やったって言ってた。そんで、めちゃくちゃ楽しかったって!」
そこには華やかな着物がずらりと並んでいた。
「これ読んでみたんだけど、着物、この中からどれ選んでもいいの! しかもね、この街中散策パックっていうやつにすると、写真館で写真撮ってくれて、その後三時間街を着物着て出かけられるんだって、で、蘭先輩たちこれで抹茶カフェ行ったり、プリクラ撮ったりしたって言ってたんだよね! ねえ、これうちらも行こうよ!」
「いい!」
「絶対行く!」
歓声が上がる。
「下駄も選べるんだ! ええ、和傘も?」
「この小物入れとかも付いてくるって!」
「抹茶カフェって近くにあるの?」
「三時間で帰って来れるところ、他にある?」
「陶芸体験!」
「だめだよ、三時間じゃ終わんない!」
「プリクラ撮りまくろう!」
「そうだ、これだ! 朱里!」
誰もがはっとなった。
「朱里日舞やってるし、絶対こういうの好きじゃん」
「だよね!」
「たしかにこれならさ、絶対女子班入りたいって言ってくれるよ」
女子たちは確信めいた笑みを浮かべて頷き合った。
朱里が教室に入ってくるなり、女子たちはすぐさま取り囲んだ。手には例のパンフレット。
「ねえ朱里、これ見て」
鮮やかな着物姿の写真に朱里の目が思わず大きくなる。
それを確認して、女子たちは微笑んだ。
「修学旅行の自由時間さ、うちらみんなでここ行くの。着物体験」
「好きな着物選べて、写真撮ってもらって、しかも街中散策も出来るの、着物で!」
朱里は思わずごくり、と生唾を飲み込む。
「そんで三時間もあるからさ、その間着物でプリクラ撮ったりカフェ行ったりできるの!」
「朱里、男子班よりも絶対こっち好きでしょ?」
「女子班で行動しようよ」
「プリクラいっぱい撮ろ!」
朱里は瞬きを繰り返す。慌ててメモ帳をポケットから取り出し、
ーーいいの?
と書いた。
「いいに決まってるじゃん!」
わあ! と朱里に一斉に抱きつく。
「男子たちと行ったらこんなのないよ」
「木刀買って終わりじゃん、サイアク!」
「ねえ、中学最後の思い出作りじゃん、好きなことしようよ!」
ーーありがと
埋もれながら朱里はなんとか震える手でメモにそう書いて見せる。その頬は紅潮し、うっすらと目には涙が滲んでいた。
ーー修学旅行の自由時間は女子班で回ろうと思う
朱里はそうメモに書いて大地に見せた。
「それがいいべ!」
呆気ないものである。
二人の様子を固唾をのんで見守っていた女子たちも、ほっと安堵の笑みを漏らした。
「おめはかわいいもんとかきれいなもんとか、ほっだらもんが好きなんだから、女子たちと見で来た方が楽しいべ! こっぢのことは心配しなぐでいいがんな、おれらは滝行体験に行ってくっからよ!」
「滝行?」女子たちの顔が一斉に引きつる。
「ほだ。滝に打たれて心身鍛えたら受験もうまぐいぐべって算段だ」
女子たちは瞬きを繰り返す。
「た、滝に打たれるより、勉強した方がいいんじゃないの……?」美鈴は恐る恐るそう申し出た。
「勉強はすっけどよお、滝に打たれたらもっど威力が出る感じがすっぺよ!」
それを聞いていたルアンが、「朱里んちの庭にも滝あっけどよ、京都の滝の方が威力さあって頭さっぱりしそうだかんな。一回浴びてみだぐってよ!」と満面の笑みで語る。
「へ、へえ、威力……」
満面の笑みを浮かべる大地から、じりじりと後ずさりしながら教室を出ると、女子たちは朱里を取り囲み、
「滝行だって! 朱里、行かなくて良かったね!」
さすがの朱里も真剣な顔つきで何度も激しく首肯する。
「威力って何?」
「ルアンって顔はいいのに、頭変だよね」
「木刀買うより酷いよ!」
「男子たち何考えてんだろうね!」
「ちょっと待って、木刀買わないとは言ってないよ、滝行してから木刀買うんじゃない?」
「サイアク!」
「サイアクの二乗だよ!」
そうして朱里は何の問題もなく女子班に合流することとなった。
そうして迎えた修学旅行。




