第9話 脱出の阻害(トラブル発生)
地底の静寂は、死の冷気を含んでいた。
足元を満たす不気味な暗緑色の水は、一歩踏みしめるたびに「バシャリ……」と湿った重い音を立て、荒廃した地下基地の壁面に虚しく響き渡る。天井の無数の配線は剥き出しになり、途切れたケーブルの先からは「バチバチッ!」と鋭い青白い火花が散っていた。その瞬間ごとに、薄暗い通路の壁に描かれた警戒標識と、浸水した鉄の床が不気味に浮かび上がる。
「……くそっ、動かない」
ヴァイスがその太い腕に脈打つ筋を浮かべ、脱出路を阻む巨大な鋼鉄製の耐圧ゲートに手をついた。男性体へと変化したその腕力は以前の比ではないはずだったが、重さ数十トンに及ぶ巨大な防壁は、まるで岩盤そのもののように一ミリたりとも微動だにしない。
「無駄よ、ヴァイス」
背後から静かだが澄んだ声が響いた。ヴェノムだ。彼女は濡れた青黒い髪をかき上げながら、ゲートの横に備え付けられた制御パネルのカバーを力任せに引き剥がしていた。露出した基板は焦げ付き、無数の警告インジケーターが明滅すら拒絶している。
「基地の主電源が完全に切れているわ。中央ジェネレーターからの電力供給が途絶している以上、この耐圧ゲートの油圧ロックは永久に解除されない。手動で開けるためのバイパス回路も、この水没で短絡している可能性が高いわ」
「じゃあ、俺たちはこの閉ざされた墓場に閉じ込められたってわけか?」
ヴァイスは無骨なアサルトライフルのレシーバーを握り締め、苦々しく吐き捨てた。かつて女性であった頃の記憶と、今現在手に入れた逞しく背の高い男性の肉体。そのギャップに対する違和感は未だ胸の奥にくすぶっていたが、生き残るための焦燥がそれを無理やり押し殺させていた。
「絶望するのはまだ早いわ」
ヴェノムの指先が、焦げついた端末のインターフェースへ躊躇なく触れた。彼女の皮膚の表面がかすかに脈動し、指先から微弱な電流を流し端末のコネクタへと直接接続される。
「幸いなことに、このゲート専用の独立予備電源ラインが生きてる。ただし、システム内部のセキュリティプロトコルが異常事態を検知して全ブロックを『完全凍結』状態に隔離しているの。私が直接ダイレクト・ハックを仕掛けて、プロトコルを偽装・書き換えれば、予備電源を強制起動させてロックを解除できるわ」
「できるのか?」
のえるが、自分の手を見つめながら尋ねた。
迷彩服に身を包んだその肉体は、完全に「美少女」のそれだった。華奢な肩幅、細く引き締まったウエスト、そして滑らかな肌。しかし、その身体の深層に眠るポテンシャルが、圧倒的な「強化体」であることを、のえる自身の神経系が過敏なほどに感知していた。
「時間をくれればね。……でも、問題はあっちよ」
ヴェノムの視線が、浸水した通路の深遠——暗闇の奥へと向けられた。
ゴゴゴゴゴ……!
不気味な重低音が、壁や床の浸水した水面を細かく震わせた。
主電源の喪失と浸水によるショートは、単にドアを閉ざしただけではなかった。基地の中央管理AIがクラッシュしたことで、かつてこの研究施設を外部の侵入者や事故から守るために配備されていた「自動防衛システム」が狂い死にし、凶暴な誤作動を起こし始めていたのだ。
キィィィィン……!
暗闇の奥から、甲高いモーターの回転音が重なり合って迫ってくる。
水面を照らす赤い光学センサーの光が、ひとつ、ふたつ、十、二十と増えていく。
「侵入者排除プロトコル起動……エラー……対象を『無差別の脅威』と認識……駆逐を開始します……」
合成音声の途切れた警告アナウンスが、スピーカーからノイズ混じりに響く。
水上を滑るように飛行する警備用攻撃ドローンの群れ。そして、その背後から水煙を上げて迫るのは、四本脚で低く構えた蜘蛛型の自動砲台と、重装甲で覆われた人型の防衛兵器ロボットたちだった。どれも数年間メンテナンスを受けていないにもかかわらず、その殺戮機能だけは狂気の狂暴さをもって牙を剥いていた。
「……チッ、出迎えにしては賑やかすぎるな!」
ヴァイスがアサルトライフルを構え、安全装置を解除する。
ヴェノムは制御端末の前に膝をつき、端末のホログラム画面をバイオ接続で強制発光させた。緑色の文字列が彼女の瞳に高速でスクロールしていく。
「私は予備電源の立ち上げとセキュリティ解除をするわ。ここは任せても?」
「わかった。やってみる」
のえるは肩に下げていた重厚なアサルトライフルを両手で持ち直し、コッキングレバーを勢いよく引き絞った。金属と金属が噛み合う重厚な音が、浸水した空間にシャープに響く。
「この体での初めての戦闘か!」
のえるの口元に、無意識のうちに不敵な笑みが浮かんだ。
己の意思とは裏腹に、心臓が高鳴る。恐怖ではない。胸の奥底から湧き上がり、脳の神経細胞を焼き尽くさんばかりの、圧倒的な「興奮」と「全能感」だった。




