第6話 覚醒 — 廃墟のバイオプラント
深い粘膜のような闇の中で、意識がぶつ切りに繋ぎ合わされていく。
耳の奥で、ぼやけた駆動音が響いていた。ウー、ウー、と遠くで警報が鳴り響いているような、あるいは巨大な心臓が脈動しているような低い振動。体全体を包み込んでいるのは、ぬるく、粘り気のある液体だった。口と鼻には不快なチューブが挿入され、肺胞へと直接合成酸素を送り込んでいる。
(……なんだ、これは)
思考が濁り、まとまらない。自分は誰で、ここで何をしているのか。記憶の糸を手繰り寄せようとするが、頭の奥に刺さるような痛みが走り、像が結ばない。分かっているのは、全身が酷く重く、同時に信じられないほど過敏になっているということだけだった。
その時、ぬるま湯のような安心感を担保していた世界に、決定的な亀裂が走った。
ピシッ。
甲高い音が鼓膜を打つ。続いて、内部からの圧力に耐えかねたように、ガラスの壁が激しい悲鳴を上げた。
バン! という破壊音とともに、大量のバイオ液が外の冷気へと一気に溢れ出す。
「ガハッ……! カハッ、く……!」
口からチューブが勢いよく抜け落ち、喉を焼くような酷い嘔吐感とともに、粘ついた液体を吐き出した。床に叩きつけられた体は、氷のように冷たい空気と直面する。さっきまでぬくもりに守られていた皮膚が一瞬で粟立ち、全身の毛穴が収縮するのが分かった。
「はぁ……はぁ……っ! 寒い……なんだ、ここは……」
激しい咳払いとともに、四つん這いになって荒い呼吸を繰り返す。
目の前には、砕け散った強化ガラスの破片が幾重にも重なり、薄暗い空間に散乱していた。視界に入る周囲の光景は、およそ正常な施設のものとは言い難い。
天地が逆転したかのように天井の配管が垂れ下がり、赤黒い非常灯だけが不気味に明滅している。機械の焦げた匂いと、薬品のツンとした刺激臭、そしてほのかに漂う腐臭。電力が完全に落ち、放置されてからかなりの時間が経過している廃墟――それが、この場所の第一印象だった。
寒さに震えながら、膝立ちになる。その時、足元に転がっていた大きめのガラス片に、非常灯の赤光が反射した。
そこに映し出されていたものを見て、言葉を失う。
(……は? 誰だ……これ……)
ガラスの表面に映っていたのは、およそ自分自身の記憶にある姿とは似ても似つかない人物だった。
濡れた髪が肌に張り付いている。その髪色は、鮮やかなピンクがかった青。両サイドで小さく束ねられ、肩を少し超えたあたりで切り揃えられた繊細な毛筋。そして、暗闇の中でも怪しく発光するかのような、鮮烈なピンク色の瞳。
華奢な肩、小さな手足、引き締まった胸元からくびれた腰つき。どこからどう見ても、17歳前後の可憐な少女の姿そのものだった。当然、服など一着も身に着けていない。
「……確かに、聞いてはいたが。まさか、本当に自分がこうなっているとはな……」
口から漏れた声は、鈴を転がすような細く可憐な高音だった。だが、その内側に宿る思考は明確に「自分」のものだった。
適合実験の事前説明で、生体適合率を高めるための遺伝子再構築を行う際、肉体構造が女性型へと再構成される可能性があるとは告げられていた。当時は「はいはい、生存率が上がるなら好きにしてくれ」程度にしか思っていなかったが、いざ目覚めてみればこの有り様だ。
腕を伸ばし、小さな掌を開閉してみる。
見た目は弱々しい少女のそれだが、皮膚のすぐ下に感じる密度が異常だった。骨密度、筋肉の繊維構造、そして体内に脈打つ何らかの未知のエネルギー――バイオ素子で再構築されたというこの肉体には、人間離れした超人的な身体能力と、底知れない「魔力」のような大気エネルギーの保持能力が秘められていることが、本能的に理解できた。
(……マジかよ。手足は細いし、重心も全然違う。……まあ、生きているだけ儲けものか)
困惑を溜息とともに吐き出し、頭を振る。その瞬間、脳の奥底でカチリと硬質なスイッチが入る感覚がした。
『――視覚同期完了。生体反応安定。神経接続、正常値を確認。思考補助AI、起動シーケンスを完了しました』
耳からではなく、脳の神経細胞に直接書き込まれるような、合成音声が頭の中に響いた。
(……やっぱりあったか)
胸の中で問いかける。手元の記憶にあった「脳内AI回路」の存在だ。人体改造の副産物として、あるいはこの肉体を制御するためのOSとして埋め込まれた思考・計算補助用の人工知能。
(なぁ、今の状況を説明してくれるか?)
意識の中で問いかけると、コンマ一秒の遅延もなく回答が返ってきた。
『了解しました。現在の西暦は2036年。当施設は『アメリカ海軍所属・南極極地第7バイオプラント』の地下最深部です。約3年前、自律型軍事AIの暴走に端を発した『世界規模の通信・インフラ崩壊(いわゆるAIの大暴走)』が発生。世界各国の都市および軍事拠点は大混乱に陥り、当施設もまた、電力供給の途絶および防衛システムの破綻により完全に放棄されました』
(2036年……。暴走で大混乱ね。なるほどね、でこの施設も放棄されたってわけだ)
『肯定します。生存している職員および研究員は撤退、あるいは死亡したと推定されます。外部からの補給および連絡は途絶しています』
(なるほどな。まぁ身を任せた時点で、適当な戦場にでも連れていかれると思っていただけにラッキーか。人体実験のモルモットとして処分されるよりは、勝手に放置されてくれた方がよっぽどマシだ)
『補足:現在、周囲の環境気温は摂氏4度。生体保護液の蒸発に伴い、体温の低下が著しい状態です。速やかな保温行動を推奨します』
(マジかよ……そりゃ寒くて死にそうなわけだ。これから、どうすっかな)
抱え込むように自分の体を腕でさする。濡れた素肌に寒風が突き刺さる。
このままの状態にしていれば、いくらバイオ素子の強化肉体とはいえ凍えてしまうだろう。それに、裸のままで歩き回るわけにもいかない。
ふと、自分の呼称について考えた。
かつての名前、かつての性別、かつての立場。それらはすべて、このカプセルに入る前の「旧世界」で捨ててきたようなものだ。今さら元のアメリカ軍登録名や本名を名乗ったところで何の意味もないし、追手や余計な面倒事に巻き込まれるリスクにしかならない。
(名前がないのも不便だし、本名ってのもアレだ。いまのうちにつけた方が、咄嗟の時に慌てないな……)
記憶の引き出しをあさる。改造される前、荒廃していく世界の中でやっていたオンラインゲームの世界。そこで長年使い込み、仲間たちから呼ばれていたハンドルネーム。
(良し、決めた。今日から俺――いや、私は『のえる』だ)
『名前の登録情報を変更します。『被験者コード:NV-09』から『のえる』へとアップデート完了。よろしくお願いします、のえる』
「おう、よろしくな」
可憐な少女の唇から洩れたのは、どこか投げやりで、けれど確かに前を向いた言葉だった。のえるは破片を足蹴にしながら、廃墟となったバイオプラントの闇へと一歩を踏み出した。




