7.ソフィア視点——初めての恋
その日の夕食は、誰もが口数も少なく、静かだった。
ミロは母の顔を窺いながらも、空腹に負けたように黙々とパンを頬張っている。
ピエールはミロにミルクを飲ませたりして、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
(ほら、いつもの光景じゃない。何も不安がることなんてないのよ)
けれど、誰ひとり先ほどやって来た二人のことを口にすることはなかった。
——「お休み、ソフィア、ミロ」
「……ピエール、今日は隣で眠ってくれない?」
ピエールは記憶が戻らないことを理由に、頑なに同じベッドで眠るのを拒んでいるのだ。
「すまない。君が夫として僕を尊重してくれているのは分かるが……」
廊下の薄暗い明かりでは、背の高いピエールの表情はよく見えない。
しかし、ピエールの声音は言葉とは裏腹に、はっきりとした拒絶が感じられた。
「そ、そう……そうよね。気にしないで。それじゃ、おやすみなさい」
仕方なくソフィアはミロを連れ、いつものようにピエールとは別の部屋で眠りについた。
ソフィアはすでに腕の中で眠っていたミロをベッドに寝かせると、自分もその隣に横たわった。
目を閉じ、何度か寝返りを打ってはみたが、ミロを家まで送ってくれた令嬢が頭から離れない。
ピエールにも拒まれ、目は冴える一方だった。
(あんなに綺麗な女の人は初めて見た……。髪も、肌も、手入れが行き届いていたわ。きっと……貴族のお嬢様なのよ)
控えめにしていても感じられる品位——ソフィアには持ち合わせていないものだった。
淡いピンクがかったプラチナブロンドの髪は、目が覚めるほど美しく、こちらを見つめる潤んだ菫色の瞳は、同性のソフィアですら心臓がどきりとした。
(それに比べて、私は……)
ソフィアはベッドから立ち上がり、鏡の前に立った。
鏡に映る自分の姿に、これほど落胆したことはなかった。
あの令嬢の前では、自慢の亜麻色の髪は色褪せ、可愛げがあると男たちが褒める薄茶色の瞳も何の変哲も感じられない。
——平凡な容姿。
(夕食の時もピエールは上の空だった……まるで、私なんか初めからいないみたいに。……本当にあのお嬢様に一目惚れしたの?)
ソフィアは不安を振り払うように、首を強く振った。
(大丈夫、しっかりするのよ。ピエールは記憶を失くしているし、彼を知る人物もいない。私の夫だとピエールに信じ込ませさえすれば、それが真実になるのよ)
これまで、ソフィアの人生はみすぼらしいものだった。
貧しい農家に生まれ、年頃になると、わずかな金と引き換えにトラン男爵家の下級侍女に出された。
男受けする容姿だったせいか、妬んだ他の侍女たちの嫌がらせに耐える日々を送っていたが——ある日、転機が訪れた。
幸か不幸か、トラン男爵の目に留まったのだ。
ソフィアはその機会を逃さなかった。
自分の月のものを偽り、男爵との間に子どもを宿した——それがミロだった。
婿養子である男爵は、男爵夫人の手前、ソフィアとミロを屋敷から追い出した。
とはいえ、好色の男爵は若い妾を手放したくなかったらしく、男爵が猟場としている森の奥深くで囲うことにしたのだった。
貴族、ましてや封土の管理者の猟場に村人が足を踏み入れるはずもなく、ソフィアとミロは村の腫れもののように生きてきた。
(私も良い暮らしができると思ったのに、結局はこんな飼い犬のような生活をさせられて……あんな醜い男にいたぶられる日々)
そう、諦めて生きていたのに——。
二ヶ月ほど前、いつものようにミロとくるみを拾いに森の奥へと向かった。
すると、ミロが崖下の滝つぼ辺りに天使が倒れていると言うのだ。
ソフィアは半信半疑で崖下を覗いてみると、確かに人が倒れている。
ミロを抱きかかえ、急いで崖下へ下りると、金髪のそれは美しい男が気を失っていた。
滝つぼへと流れ落ちる水しぶきが男の周りで跳ね、陽の光に反射してきらきらと輝いている。
「ほ、本当に天使……じゃなくて、ちょ、ちょっと。こんな所でどうしたんですか?」
ソフィアは、呼びかけにも反応しない男を力強く揺さぶった。
ミロも母親を真似て、小さな手で男の頭を掴んで揺さぶろうとしている。
「ん……ん……っ、ごほっ、ごほっ」
「ああ、そんなに急に起き上がらない方がいいですよ。大丈夫です……か……」
男がむせながら、ゆっくりと身を起こす。
濡れた髪の間から、宝石のように澄んだブルーの瞳がソフィアを捉えた。
ソフィアは、なぜか自分の粗末な格好が恥ずかしく思われ、体の芯が熱くなるのを感じた。
「ここは……どこ……ですか? 僕はいったい……」
よく見れば、男の衣服は破れ、あちこちから血が出ている。
「ゾ、ゾラ村の近くの森です。怪我をしているわ。私の家で手当てしましょう」
「僕は……僕の名前は……。お、思い出せない……分からないんだ……何も」
どうやらこの男は事故か何かに遭い、記憶を失くしているようだった。
ソフィアの中に、小さな欲望が芽生えた。
介抱している間も男の記憶が戻らないのをいいことに、大きな嘘をついたのだ。
「あなたはピエール。私の夫よ」
夫、息子、家族……偽りの言葉で、美しく優しい男をこの森に縛り付けた。
そして、いつしかソフィアは、ピエールと本当の家族になることを夢見るようになった。
(トラン男爵とどうにか縁を切って、遠い、遠い所へ行くの。そこで親子3人幸せに暮らすのよ)
ただ、ひとつ気がかりだったのは……ピエールがこれまで一度も、ソフィアの誘惑に靡くことはなかった……。
まだ夜も明けきらない仄暗い部屋で——ソフィアは、ミロのすうすうという寝息に口元がゆるんだが、またすぐに鋭い目つきに変わった。
「ピエールは、誰にも渡さない」
粗末な化粧台の小さな引き出しを開け、大切に仕舞っていた紅を取り出し、ゆっくり唇に引いた。
「あの令嬢……なんとかして、早くこの村から追い出さないと」
その時、ソフィアはどんな企みを思いついたのか……。
紅のついた唇を醜く歪め、笑みを浮かべた。
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