6.ピエール(ジェフリー)視点——不協和音の始まり
「ピエール……」
小屋に入っても、ミロを抱いたまま呆然と立っている金髪の男に、亜麻色の髪の女がそっと声を掛けた。
ピエールと呼ばれた男の視線は窓の外に向けられ、まるで頭の奥で何かを懸命に探しているようだった。
(ミロを連れてきたあの二人は、この村の人間じゃない。ピエールを見て驚いている様子だったわ……。まさか、ピエールを知っている?)
「ピエール!」
突然の強い呼びかけに、ピエールはハッと意識を戻した。
「ソフィア……驚くだろう。どうかしたのかい?」
「だって、ミロを連れて来た令嬢に見惚れていたから……」
「見惚れ……? ははっ、それは考え過ぎだ。ただ……どこかで会ったような気がして……。いや、僕に貴族の知り合いがいるわけがないか……」
「ピエール、私たち家族はずっとこの森で暮らしてきたのよ。今は、事故のせいで記憶を失くしているから……。でも、そのうち私たちのことも思い出すわ」
「……そうだね。おっと、作業の途中だ。薪割りの続きをしてくるよ」
「だめ! 今日はもういいわ。ほら、夕食の準備を手伝って」
ソフィアはピエールの腕をぐっと掴んだ。
外では、ミロを送ってきた二人が、まだ小屋を見つめている。
(もし、本当にピエールの知り合いなら……彼を連れて行ってしまうかもしれない。そんなこと、絶対にさせないんだから)
ピエールはソフィアの警戒した様子に戸惑いつつも、できるだけいつものように振る舞い、ミロの手を取って台所へ向かった。
だが、ピエールの頭の片隅では、小さく軋むような違和感が続いていた。
ミロを連れて来た令嬢と目が合った瞬間——記憶を失ってから一度も感じたことのない高揚感が、胸の奥から湧き上がったのだ。
(こんなこと、ソフィアに知れたら……また浮気だと責められるだけだ。令嬢と関わるのは面倒だが、あのリボンだけは返してもらいたい。まだ、村に留まっていてくれればいいが……。村へ行くには、ソフィアの機嫌をどうにかしないと)
ピエールは、わずかに表情を曇らせた。
記憶を失ってから村へ行ったのは、買い出しの一度きり。
その買い出しも、ソフィアの嫉妬で散々なものだった。
(すれ違う女性が色目を使っただの、商店の娘を誘惑しただの……まったく、在庫を聞いただけで疑うとは……。ソフィア、浮気しているのは君の方じゃないか。まぁ、知ったところで腹も立たなかったが……君と夫婦でいるのはミロのためだったのか? 記憶を失う前の僕はどんな男だったんだ? ……でも、この違和感は……なんだ……何も思い出せない……)
ほんの二ヶ月前——ピエールは、気づいたときには森の奥の滝つぼ近くで倒れており、ぼんやりとした意識の中で頬を叩かれていた。
朦朧としたピエールをこの粗末な小屋へ運び、真摯に看病してくれたのがソフィアだった。
(ここはどこだ……? 僕は……ああ……頭が割れるように痛む……)
意識を取り戻したピエールは、自分が何者かすらも覚えていなかった。
取り乱したピエールの背中をソフィアはさすり、彼を落ち着かせると、おもむろに『あなたの名前は、ピエールよ』と告げた。
おそらく、足を滑らせ崖下の滝つぼまで落ちたのだろう、と説明してくれた——そして、『私の夫』だから看病するのは当たり前だと笑った。
そう言われてみれば妻がいたような気もするが……。
もはや、ピエールに正解を知る術はなかった。
「かわいそうな、ピエール。妻と子どもの顔すら忘れてしまったなんて……。大丈夫よ。すぐにこの生活にも慣れるわ」
ソフィアの献身的な姿に感謝しながらも、ピエールはどこか拭えない違和感を抱えていた。
——愛しいはずの妻に触れられるたび、込み上げる不快感。
——ソフィアに叱られても、頑なに『おじさん』と呼ぶ息子のミロ。
(僕は本当に家族だったのか? それに、このリボン……)
助けられた時、なぜか手の中にあったリボンだけは奪われまいと、咄嗟にズボンのポケットへ隠していた。
時折、ひとりになるとリボンを取り出しては眺めていたのだが……今日は運悪くミロに見つかり、リボンをくしゃりと掴んだのを大きな声で咎めてしまったのだ。
(やはり、リボンを返してもらおう)
風になびく淡いピンクがかったプラチナブロンドを思い出し、頬がゆるむ。
(あの令嬢の髪に似合いそうだ……)
「わぁ、おじさんがわらってる! ぼくのこと、おこってない? リボン……おねえちゃんにあげちゃってごめんなさい」
「怒ってないさ。リボンはまた返してもらえばいい」
「でも、あのりぼんはおねえちゃんのだって……」
「なんだって?」
「えっと、あのね……」
ミロが言葉を続けようとしたのを、ソフィアがぴしゃりと遮った。
「ミロ! おじさんじゃないでしょ。ちゃんと『お父さん』と呼びなさい。それに、ピエール、あの女物のリボンは何? ……拾ったのね。持ち主に返ったのならそれでいいじゃない。分かった?」
ソフィアの勢いにミロは身をすくませ、こくりと頷いた。
ピエールは小さな溜息をつき、取り繕った笑顔をソフィアに向けた。
(とにかく、一度村へ行って……リボンを返してもらえるか、令嬢にお願いする機会を見つけないと)
そう考えながら、僕の行動を細かく監視し、自由を奪うようなソフィアの態度を思うと、刺々しい苛立ちが胸に広がった。
(いくら記憶を失ったとはいえ……妻にこんな嫌悪感を抱くものだろうか)
ピエールはいつまでも居心地の悪さを覚えながら、硬いパンを冷めたスープに浸し、流し込むように飲み込んだ。
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