30.未来へ
私は愛する人を取り戻すことができた——安堵、喜び、溢れるほどの愛。
再び、ジェフリーと共にボナパルト家の門をくぐった時のことは、一生忘れないだろう。
もう愛する人の幻影を追わなくてもいいのだと、ようやく実感できたのだから。
◇
ボナパルト家に戻ったジェフリーは、今回のトラン男爵の私への醜態と、アランが不眠不休で持ち帰った陛下からの書状をもって、男爵とソフィアさん、そして裏で糸を引いていたヴィクトール・ボナパルト伯爵に、相応の裁きを受けさせた。
ボナパルト伯爵《叔父様》にまで追求が及んだのは、ジェフリーとアランのトラン男爵への容赦ない取り調べと、積み重ねた証拠の成果だという——ジェフリーは、あまりそのことを話したがらなかったのだけれど。
「アラン、私はジェフリーが心配なの。政敵とはいっても、血の繋がった叔父様ですもの。辛くないはずがないわ」
心配になった私が、あまりにもしつこくアランに尋ねたものだから、重い口を開いて教えてくれた。
「俺が言えることは……タチアナに危害を加えた男爵はもちろんだが、伯爵への取り調べも血縁の情を感じさせないほど厳しいものだったよ。そうだな……とにかく、尋問室にいた騎士団全員の身が引き締まったよ」
(ジェフリーの取り調べは常軌を逸していた。あんな拷問に耐えられる者などいない……とは言えないからな)
「騎士団の身が引き締まったの? なんだかよく分からないけれど……ジェフリーは気丈に責務を果たしたということね」
背後から、私の心を躍らせる足音がする。
「探したぞ、タチアナ。アランと何を話しているんだい?」
「ジェフリー! ちっとも取り調べのことを教えてくれないから……アランから聞き出していたところなの。でも、あなたが辛くなければ……それでいいわ」
すると、ジェフリーが突然胸に手を遣り、『うーん』と唸り声を上げて苦しそうに私の肩に顔を埋めた。
「どこか痛むの!?」
「僕が傷ついていないか、心配してくれたんだろう? だから……ちょっと、甘えてみたくなったんだ」
「もう! ジェフリーったら。いつからそんなに弱虫になったの?」
私は頬をぷくっと膨らませ、ジェフリーの口元を軽くつねった。
(弱虫? タチアナ……そいつは獰猛な獣そのものだぞ。お前に手を出すやつには容赦なく襲いかかるさ。今だって、俺に見せつけて……)
「はい、はい。邪魔者は消えますよ、主君」
そう言って、アランは後ろ手に軽く手を振り、どこか名残惜しそうにしてゆっくりと立ち去った。
「タチアナ……」
声を少し潜めたジェフリーの顔からは、先ほどまでのお道化た様子は消えていた。
「トラン男爵とヴィクトール叔父上の処刑が決まったよ。陛下が大そうご立腹でね。側近を陥れた罪だけではなく、莫大な資産をも隠そうとしていた——それで、一連の行為は“謀反を企んでいた”と断罪されたんだ」
政争の疎い私にも分る。
(きっと、ジェフリーが陛下と何らかの取引をしたのだわ。私への男爵の醜態は、社交界の格好の餌食になってしまう。それに、ジェフリーは記憶を失っていたとはいえ、二ヶ月も平民の女性と暮らしていたと知れたら……。だから、罪状をすり替えたのね)
ソフィアさん親子とジェフリーが暮らした二ヶ月を思うと、今さらながらに胸の奥がチクリと痛んだ。
ぎゅうっと、ジェフリーの腕にいつもより強く腕を絡める。
「タチアナ……愛してるよ」
私の心を見透かしたように、ジェフリーは私の額に熱いキスを落とした。
◇
それから、さらに数週間後——帝都新聞の一面に、二人の貴族の処刑が執行されたと大きく見出しが出ていた。
あまりいい気分はしなかったけれど、侍女のメラニーが持ってきた新聞の記事に目を通す。
記事には——謀反を計画したヴィクトール・ボナパルト伯爵とトラン男爵が、身分を剥奪された上で処刑台へと送り込まれ、昨日執行された。そしてトラン男爵家はセシル男爵令嬢に家督を戻し、ヴィクトールを当主とするボナパルト伯爵家は取り潰しとなった、と記されていた。
トラン男爵夫人にお咎めなしで家督が戻ったのは、私がジェフリーに懇願したから……かどうかは分からない。
(トラン男爵夫人——いいえ、もう、セシル嬢ね。無事に家督を取り戻せたのだわ。良かった……)
「そんなに嬉しそうな顔をして……何か良いことでもあったのかな? 朝寝坊さん」
一仕事済ませ寝室に戻ってきたジェフリーが、まだベッドの上でぐずぐずしている私の横にごろんと寝そべった。
「ええ、セシル嬢に家督が戻ったと知って、嬉しくって。これからが大変でしょうけれど、彼女なら封土を良くしてくれると思うわ」
「彼女もまだ30歳だ。これからの人生の方が長いからね。ああ、そうだ……セシル嬢は、どうやら村になかった孤児院を開くらしい。その許可が欲しいと書状が届いたんだ」
「まぁ! それは素敵ね。私たちも、これから行く領地視察で立ち寄るでしょうし、楽しみだわ」
私たちはゾラ村でのことを教訓に、二人でこまめに領地を回ることにしたのだった。
そして、ソフィアさんは——同じ女性として同情するところはあるけれど、どうしても許すことはできない。
でも、確かに、記憶を失ったジェフリーを助けてくれたのは彼女だった。
私はジェフリーに親子の温情を乞うか迷ったが、ミロのことを思うと……結局、温情をジェフリーに頼んでしまった。
(ゾラ村を出ることはできないけれど、これまで通り親子が静かに森で暮らせばいいわ。ジェフリーも、親子への情が少なからず芽生えたはずよ。だから、これでいいのだわ……)
しかし、ジェフリーの下した処罰は、私が願った以上の重いものだった。
ソフィアさんには鞭打ち100回の刑が処され、ボナパルト家のどこの領地にも留まることは許されず、その後の行方はわからない。
侍女のメラニーが言うには、あの傷ではもうどこかの領地で野垂れ死んでいる——だろうと。
ミロは、セシル嬢の申し出もあり、ゾラ村の孤児院で養育されることになった。
そしてジェフリーは、ミロの男爵家の継承権を剥奪した。
「幼いミロに罪はないが——その方が本人のためにもいい。慣れない貴族のしがらみに生きるよりも、自分の人生を生きた方がいいからね」
そう呟いたジェフリーの瞳には、ミロへの優しさが滲んでいた。
しばらく経ってから、地下牢に繋がれていた時のソフィアさんの様子を、アランがそれとなく教えてくれた。
彼女は鞭に打たれてもなお、「ジェフリーに会いたい」だの「自分がボナパルト侯爵の恋人」だのと喚いていたという。
一緒に聞いていたメラニーが、そのことにとても憤っていた。
「メラニー、あなたがそんなに怒るから、私はもうどうでもよくなってしまったわ」
「また、そんなことを仰って……。奥様はお優し過ぎます!」
でも、本当に私はどうでもよくなっていた。
結局ソフィアさんは、何も手にすることはできなかったのだから。
メラニーの怒りはまだ収まらないらしく、ぶつぶつと文句を言っている。
「いい気味ですわ。もちろんですが、旦那様は一度も会いにも行きませんでしたし、そのお姿を一目見ることさえも許さなかったとか。そのうち、抜け殻のようにしおらしくなったようですが、追放されてせいせいしましたわ。あの女の馬鹿げた夢は、初めから見るべきではなかったのですよ」
◇
すべての処罰を終えた私たちは、目が回るほどの忙しさだった。
家臣たちだけではなく、帝国中にボナパルト侯爵が生きていたことを知らせる宴を開かねばならず、また、皇帝陛下との盟約を果たすための計画も立てなければならなかった。
そんな中、突然、ジェフリーの右腕とも言える補佐官アランが、ゾラ村を含むトラン男爵の封土を引き継ぐことになった。
「アラン、寂しくなるわ……。どうして、優秀な補佐官を遠い封土に向かわせるのかしら。私からジェフリーに言って……」
「そりゃ、俺が優秀だからだ。タチアナ、トラン男爵がゾラ村に何を隠していたか、もう忘れたのか?」
「ああ、そうだったわ……ダイヤモンド鉱山! 陛下に収益を献上しなければいけないものね。セシル嬢には荷が重いわ」
「そうさ、こんな大事なことを任せられるのは、俺だけだろ。……タチアナ、今よりもっと幸せになれよ」
「なによ、今生の別れみたいに言って」
「ハハッ、タチアナ……心配するな。きっと、すぐに良い報せがあるさ」
「……そうだといいのだけれど、アラン、ありがとう。落ち着いたら手紙を書いてね」
「もちろんだ」
アランをティータイムに誘ったが、支度があるからと珍しく断られた。
「あら、そんなに急いで行かなくちゃいけないの? ジェフリーったら、人使いが荒いわね。……そんな清々しい顔をして、やっぱり当主は私よりジェフリーが良かったのね」
私がいつものように悪戯っぽく絡むと、アランの瞳が少し震え、黙ってしまった。
「……アラン?」
「あ……ああ、そうだな! それじゃ……タチアナ、元気でな」
(タチアナ……お前を……愛して……い……た)
アランの口元が微かに動いたが、風にかき消され、私の耳に届くことはなかった。
そして、アランはそれっきり姿を現さず、あっさりとゾラ村へ行ってしまった。
◇
あれから、3年経った今もアランはゾラ村に行ったきりだ。
手紙だけは寄越してくれているだけれど——。
そう、今も、マレが届けてくれたアランからの手紙を、ジェフリーと一緒に読んでいる。
「ねぇ、ジェフリー、アランからの手紙にはなんて書いてあるの? 帝都の社交界までアランの恋愛事情が聞こえてくるぐらいなのよ」
「ははっ、タチアナはせっかちだなぁ。どれどれ……ふむ、社交界での噂は嘘だそうだよ。アランを取り合っている令嬢たちが、あらぬ噂を次々に立てているらしい」
「まぁ、美青年は苦労するわね」
大きく放たれた窓からは、カーテンを優しく揺らす、心地良い風が吹いてきた。
その風に鼻をくすぐられたのか、傍らで眠っていた私たちの宝物がもぞもぞと動き出した。
「う……うっ……うぇーん」
「あらあら、アリア、起きちゃったのね」
「可愛いお姫様のお目覚めだね」
私とジェフリーは、アリアの頭を優しく撫でた。
「タチアナ、僕を諦めないで……取り戻してくれて、ありがとう。愛している……」
ジェフリーが、この世の愛をすべてかき集めたような熱い眼差しで、私を見つめている。
(この瞳に蕩けない女性なんているのかしら?)
「あなたが、また私を忘れても——諦めないわ。だって、心から愛しているもの」
——そして、私たちはこの幸せを噛みしめるように、静かに深い口づけを交わした。
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