26.消えなかった愛
——妙な重みと不快な香りで、だんだんと意識が戻ってきた。
まだ頭はぼんやりとしている。
はっきりしない視界で周りを確認しようと顔を逸らした途端、がしりと男の手で顎先を掴まれた。
「ようやくお目覚めですか? タチアナ様。ハハハッ、貴婦人が乱れる姿ほど、男を昂らせるものはありませんよ……」
トラン男爵が私に馬乗りになり、いやらしく舌なめずりをしている。
「な……なんのつもり! こんな事をして、ただで済むと思うの!」
「タチアナ様、騒いでも無駄ですよ。私は何も手を下していない。あなたは、ソフィアが出した薬入りの飲み物を飲んで乱れ、私を誘惑したのです」
「何を訳の分からないことを……」
その時になって、私はようやく男爵とソフィアさんの罠にかかったことを理解した。
「どうして、ソフィアさんが! 私に何の恨みがあるというの? あなたがソフィアさんを脅して……」
「アハハハッ! タチアナ様、誤解されては困りますな。あの女から私に持ち掛けてきたのですよ。自分を妾から解放する代わりに、タチアナ様を私のものにする手助けをするとね。今頃は、新しい男とでも逃げているでしょうな」
「や、やめて……」
「いいではありませんか。あなたはソフィアという頭のおかしな平民に嵌められ、たまたま居合わせた私を誘惑してしまった……可哀想な未亡人だ。私がソフィアを牢に入れ、あなたの醜聞もなかったことにして差し上げますから」
「なにを……あなたこそ頭がおかしいわ!」
男爵の狂気に満ちた目は恐ろしかったが、私の二人への怒りはそれをはるかに上回っていた。
(ソフィアさん、こんなこと間違っているわ! ジェフリーだけでなく、私の尊厳さえも奪おうというの? なぜなの……ああ……そうなのね……。あの時の悲痛な声は……あなたもジェフリーの愛を失くしそうなのね)
私は心底、ソフィアさんがそれほどまでに私を憎んでいる理由が分からなかった。
けれど——女の勘が、彼女のジェフリーへの執着と独占欲のせいだと教えている。
(でも、それは……きっと、愛じゃないわ)
トラン男爵のいやらしい手つきが、私のドレスの中に入ってきた。
髪が乱れ、ドレスがはだけるのも構わず必死に身をよじるが、両手が男爵の力強い手に掴まれ、どうにもできない。
「ジェフリー! ジェフリー! ジェフリー!」
私は狂ったように愛する男の名を呼び続ける。
バチンッ——。
バチンッ——。
叫ぶたび、トラン男爵はいたぶるように、私の頬を打った。
「ジェフリー……」
心を支えていたものが根こそぎ折られてしまい、私が諦めかけた時……。
ガシャァンッ——。
窓を突き破るすさまじい音と砕け散る破片とともに、ジェフリーが部屋に飛び込んできた。
そして、素早く身を起こすと、トラン男爵を思いっきり振りかぶった拳で殴りつけた。
骨が折れる鈍い音ともにトラン男爵は、私の上から吹き飛ばされた。
男爵は、思いっきり壁に頭を打ちつけ、血だらけで呻き声を上げている。
「タチアナ!」
ジェフリーは急いで私の身を起こすと、力いっぱい抱き締めた。
「ジェフリー……あなたなの? 私の……」
「そうだ……君のジェフリーだ。遅くなって、本当にごめん」
私は嗚咽を上げながら、顔を涙でぐちゃぐちゃに濡らし、ジェフリーの胸を何度も、何度も叩いた。
ジェフリーは止めることもせず、ただ、ずっと私の耳元に頬を寄せ、強く抱き締めたままだった。
「タチアナ!」
息を切らせたアランが、血相を変えて部屋に駆けこんできた。
私とジェフリーの姿を見て、アランは安堵からか『ふーっ』と深く息を吐いたが、唇の端を震わせどこか寂しさの籠った瞳で私たちを見つめていた。
「俺は……いつも、ジェフリーより遅いんだ」
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