25.忘却の終わり
ジェフリーはソフィアに頼まれ、今日は珍しくミロと村へ買い出しに来ていた。
(今までソフィアは、村へは行くなと言っていたのに。どういう風の吹き回しだ?)
ミロの手を繋ぎながら歩くうちに、ジェフリーは村の活気のなさに驚いていた。
(商店にも品物が少ない。前よりも寂れているな……。領主は、小さな村のことなど気にもとめない……か。昨晩のこともあるし、そろそろ親子の元を離れるのがいいだろう。ミロは泣くだろうな……)
「ピエール!」
いつまでも馴染めない名を呼ばれ、ジェフリーは振り向いた。
息を切らせたソフィアの手には、大きな鞄があった。
「ソフィア、その荷物……どこかへ行くのかい?」
「そうよ! 私とあなたで、この村を出るの!」
「出る……?」
突然のことにジェフリーが戸惑っていると、ソフィアは躊躇うことなくミロの手をジェフリーから振り解いた。
そして、そのままジェフリーの手を掴むと、引っ張るようにして歩き出した。
「いや、ちょっと待ってくれ」
ミロは母親の仕打ちが理解できず、道の真ん中で大声を上げて泣き出している。
「待て! 僕は一緒に行かない」
ジェフリーは立ち止まった。
「どうして、そんなことを言うの? あなたは私の夫なの! あなたを助けたのは私なの! 他の誰でもない……私が……、私があなたを見つけたのに……」
ソフィアは泣きながら力いっぱいジェフリーの手を引いたが、びくともしない。
「何度も伝えたはずだ。君たちが僕を助けてくれたことには感謝している。でも、僕は——」
「感謝なんていらない! 私はあなたが欲しいの!」
はらわたが煮えくり返るような怒りと羞恥——ソフィアはジェフリーを睨みつけた。
「僕が欲しい? 馬鹿げている。ミロはどうするんだ? あんなにも泣いているんだぞ」
ソフィアの前に立つ男の瞳は、冷ややかに自分を見下ろしていた。
「……ピエール。あなた……私を捨てるの?」
「手を離してくれ」
「い、嫌よ!」
みるみるうちに、ピエールの顔は業火のような怒りに染まり、こめかみには細い筋がくっきりと浮かんでいる。
もう、ソフィアの知る『優しいピエール』ではなかった。
ジェフリーはミロの元へと行き、優しく抱き寄せた。
その時だった——ピィーッ、ピィーッ。
空の高みから大きな鷲が、激しく鳴き声を上げて旋回している。
(あれは……もしかして、マレか? なんだろう? えらく切迫しているような……僕に何かを伝えようとしている……まさか、令嬢に何かあったのか!)
鳴き声が激しさを増すにつれ、ジェフリーの体の奥の本能が何かを喚き始めた。
「ううっ——」
頭の中で思い出したくない記憶と、忘れてはいけない大切な人の影が混ざり合い、大鷲の咆哮がジェフリーの逃げ道を塞いだ。
「僕は……ああ、あの鳥の鳴き声が、頭の中をガンガン叩いてくる——」
頭の奥が焼けるように痛み、ジェフリーは耐え切れずその場に膝をついたのだが——確かに聞こえた。
懐かしい澄んだ声。
『ジェフリー……私の愛しい人……』
それが——やがて悲痛な叫びに変わった。
『ジェフリー!』
「タ……タチ……ア……——タチアナ!」
ジェフリーは、喉が張り裂けんばかりの声で力の限り叫んだ。
ジェフリーは顔を伝う汗も拭わず、自然と指笛を吹いた。
「マレ、来い! タチアナの元へ案内するんだ!」
そこへ、土埃を立てて騎士たちを乗せた馬群が疾走してきた。
その中に、見慣れた栗毛に緑の瞳の男がいるのを、ジェフリーは見逃さなかった。
「アラン!」
驚いたアランが馬の手綱を力いっぱい引いたせいで、馬は前脚を大きく上げ嘶いた。
「お、お前……ジェフリー……俺が分かるのか?」
「ああ……アラン。それより、馬と剣を貸せ! タチアナが危ない!」
アランの顔から血の気が引いていく。
ジェフリーは、ボナパルト家の騎士の馬を奪うと、マレの後を追うように馬を走らせた。
「おい、待て! 俺も行くぞ!」
マレは森を目がけて、さらにスピードを上げていく。
(僕は馬鹿だ! こんなにも近くに大切な人がいたというのに……。君のことを忘れてしまっていた僕は……どれほど、君を傷つけてしまっただろうか……。タチアナ、無事でいてくれ!)
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