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23/30

23.向けられた悪意

 私が驚いた表情を見せると、トラン男爵はソフィアさんを「森の家を任せている管理人だ」と紹介した。


 「こちらはボナパルト侯爵夫人、タチアナ様だ。さぁ、ご挨拶なさい」


 夫人という言葉に、頭を下げるソフィアさんの肩がピクリと反応した。


 「ようこそお出で下さいました、タチアナ様」


 (ソフィアさんとこうして顔を合わせるだなんて……。騎士たちの姿も途中で見えなくなってしまったし、このままついて行って大丈夫なのかしら……。男爵夫人は彼女を危険だと言っていたけれど……私に危害を加えるほどの人ではないわよね……)


 森の中の道がすべて整備されているわけでもなく、騎士たちは舟を追うにも所どころ迂回せねばならなかった。


 男爵夫人の忠告も決して無視できないのに——この状況の危うさを頭では分かっているのだけれど、心は別のことが占めていた。


 (でも、もしかしたら……ジェフリーの姿を見ることのできる、最後の機会になるかもしれない)

 

 

 舟を着けたところから少し歩くと、予想に反して見たことのない家が見えてきた。


 大きくはないが、明らかにあの小屋よりは立派な造りだ。


 勝手に、あのジェフリーのいる小屋に着くものとばかり思っていた私は、急に心に不安が広がった。


 そろっとクラッチバッグを開け、忍ばせていた小剣に目を落とした。


 その隣にはあのピンクのリボンも入っている。


 (ふぅ……ここまで来たら、覚悟を決めるのよ。恐れてばかりではいられないわ)

 

 「タチアナ様、お入りください」


 ソフィアさんのにこやかな笑みには似合わない、平坦な声に促され家の中に入った。


 部屋は小綺麗に片付けられており、もちろんミロやジェフリーの姿は見えない。


 むしろ、幼い子どもや男が生活している痕跡すら感じられなかった。


 「タチアナ様、どうかされましたか?」


 「い、いえ……あなたはここにお一人でお住まいなの?」


 ソフィアさんの瞳の奥が黒く光った。


 「ここではなく、別の所で息子と二人で暮らしています」


 「息子さんと二人……」


 「タチアナ様、さぁ、さぁ」


 男爵に急かされるようにして、奥の部屋へ連れて行かれた。


 それほど広くはないが上質な絨毯やソファ、いくつかの調度品が並べられている。


 「狩猟小屋とはいえ、粗末でお恥ずかしい限りです。どうぞ、お掛けください」


 胃の底から込み上げてくる胸のむかつきはまだ治まらない。


 むしろ、部屋の独特な香りと男爵の体臭が入り混じり、気分が良くなるどころか冷や汗が背筋を伝い始めた。


 小さなあくびが出るたび、口元をハンカチで覆った。


 そこへ、飲み物の入ったグラスを2つ、ソフィアさんが運んで来た。


 大きなグラスの中で氷が()()()と涼しげな音を立てている。


 中には、透きとおった鮮やかな赤色の飲み物が入っていた。


 「これは何かしら?」


 手に取ると、ふわりと甘酸っぱい香りが鼻をかすめる。


 「ああ、ラズベリーね」


 「はい、この森では沢山採れるので。ジャムにしたり、こうしてジュースにしたりします。タチアナ様、お顔色が……先ほどよりさらに優れないようですね。今日はいつになく暑かったですし、小さな舟は思ったより揺れますから……」


 先ほどとは違い、ソフィアさんの声音には私を慮る優しさが感じられた。


「ありがとう、ソフィアさん。これは、あなたの手作りかしら?」


「はい。息子に手伝ってもらいながら作りました。お口に合うといいのですが……」

 

 

 ミロが小さな手で手伝っている姿や、ジェフリーが慣れない手つきで木べらを混ぜている光景が脳裏に浮かび、思わず微笑んでしまった。


 (そうやって余裕ぶって、私に油断するといいわ……。ほんと世間知らずなんだから。何を期待しているか知らないけど——ピエールは私のものよ。あんたになんて渡さない)


 まさか、そんな些細な私の表情ですら、ソフィアさんを苛立たせているとは思いもしなかった。

 


 「美味しそうだわ」


 私はこのジュースを手に、一瞬、飲むのを躊躇った——彼女を疑いたくなんてないのに、胸の奥の警戒心がわずかに残っている。


 すると、トラン男爵がそれを見透かしたように、自分のグラスを口に運び、ごくりと飲み込んだ。


 「ああっ、旨い! タチアナ様も、さぁ。船酔いの悪心が和らぎますよ」


 (ソフィアさんは、今まで気丈にミロを育ててきた方よ。心から悪い人だなんて思えない……。それに、正体の分からないジェフリーを助けてくれたのも事実だわ)


 船酔いでぼんやりした頭と、込み上げる喉の不快感が、目の前の一杯をひどく魅力的に感じさせた。


  深く考える余裕もなく、私はソフィアさんが差し出したジュースに口をつける。


 (少しだけ……)

 

 みずみずしいラズベリージュースをひとくち口に含んだ。


 (美味しいわ!)


 口当たりの良さに、そのままゴクゴクと喉に流し込んだ——甘酸っぱさの奥に微かに感じる苦み。


 (これは——)


 巧みに隠された不自然な味に気づいた時には、もう遅かった。


 視界がぐらりと歪み、全身の力が抜けていく。


 グラスの割れる音が響き、私は床に崩れ落ちるように倒れた。

感想やリアクションをいただけましたら、とても励みになります。

感想へのお返事は控えさせて頂きますが、大切に読ませていただきます。

よろしくお願いします。

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