23.向けられた悪意
私が驚いた表情を見せると、トラン男爵はソフィアさんを「森の家を任せている管理人だ」と紹介した。
「こちらはボナパルト侯爵夫人、タチアナ様だ。さぁ、ご挨拶なさい」
夫人という言葉に、頭を下げるソフィアさんの肩がピクリと反応した。
「ようこそお出で下さいました、タチアナ様」
(ソフィアさんとこうして顔を合わせるだなんて……。騎士たちの姿も途中で見えなくなってしまったし、このままついて行って大丈夫なのかしら……。男爵夫人は彼女を危険だと言っていたけれど……私に危害を加えるほどの人ではないわよね……)
森の中の道がすべて整備されているわけでもなく、騎士たちは舟を追うにも所どころ迂回せねばならなかった。
男爵夫人の忠告も決して無視できないのに——この状況の危うさを頭では分かっているのだけれど、心は別のことが占めていた。
(でも、もしかしたら……ジェフリーの姿を見ることのできる、最後の機会になるかもしれない)
舟を着けたところから少し歩くと、予想に反して見たことのない家が見えてきた。
大きくはないが、明らかにあの小屋よりは立派な造りだ。
勝手に、あのジェフリーのいる小屋に着くものとばかり思っていた私は、急に心に不安が広がった。
そろっとクラッチバッグを開け、忍ばせていた小剣に目を落とした。
その隣にはあのピンクのリボンも入っている。
(ふぅ……ここまで来たら、覚悟を決めるのよ。恐れてばかりではいられないわ)
「タチアナ様、お入りください」
ソフィアさんのにこやかな笑みには似合わない、平坦な声に促され家の中に入った。
部屋は小綺麗に片付けられており、もちろんミロやジェフリーの姿は見えない。
むしろ、幼い子どもや男が生活している痕跡すら感じられなかった。
「タチアナ様、どうかされましたか?」
「い、いえ……あなたはここにお一人でお住まいなの?」
ソフィアさんの瞳の奥が黒く光った。
「ここではなく、別の所で息子と二人で暮らしています」
「息子さんと二人……」
「タチアナ様、さぁ、さぁ」
男爵に急かされるようにして、奥の部屋へ連れて行かれた。
それほど広くはないが上質な絨毯やソファ、いくつかの調度品が並べられている。
「狩猟小屋とはいえ、粗末でお恥ずかしい限りです。どうぞ、お掛けください」
胃の底から込み上げてくる胸のむかつきはまだ治まらない。
むしろ、部屋の独特な香りと男爵の体臭が入り混じり、気分が良くなるどころか冷や汗が背筋を伝い始めた。
小さなあくびが出るたび、口元をハンカチで覆った。
そこへ、飲み物の入ったグラスを2つ、ソフィアさんが運んで来た。
大きなグラスの中で氷がからんと涼しげな音を立てている。
中には、透きとおった鮮やかな赤色の飲み物が入っていた。
「これは何かしら?」
手に取ると、ふわりと甘酸っぱい香りが鼻をかすめる。
「ああ、ラズベリーね」
「はい、この森では沢山採れるので。ジャムにしたり、こうしてジュースにしたりします。タチアナ様、お顔色が……先ほどよりさらに優れないようですね。今日はいつになく暑かったですし、小さな舟は思ったより揺れますから……」
先ほどとは違い、ソフィアさんの声音には私を慮る優しさが感じられた。
「ありがとう、ソフィアさん。これは、あなたの手作りかしら?」
「はい。息子に手伝ってもらいながら作りました。お口に合うといいのですが……」
ミロが小さな手で手伝っている姿や、ジェフリーが慣れない手つきで木べらを混ぜている光景が脳裏に浮かび、思わず微笑んでしまった。
(そうやって余裕ぶって、私に油断するといいわ……。ほんと世間知らずなんだから。何を期待しているか知らないけど——ピエールは私のものよ。あんたになんて渡さない)
まさか、そんな些細な私の表情ですら、ソフィアさんを苛立たせているとは思いもしなかった。
「美味しそうだわ」
私はこのジュースを手に、一瞬、飲むのを躊躇った——彼女を疑いたくなんてないのに、胸の奥の警戒心がわずかに残っている。
すると、トラン男爵がそれを見透かしたように、自分のグラスを口に運び、ごくりと飲み込んだ。
「ああっ、旨い! タチアナ様も、さぁ。船酔いの悪心が和らぎますよ」
(ソフィアさんは、今まで気丈にミロを育ててきた方よ。心から悪い人だなんて思えない……。それに、正体の分からないジェフリーを助けてくれたのも事実だわ)
船酔いでぼんやりした頭と、込み上げる喉の不快感が、目の前の一杯をひどく魅力的に感じさせた。
深く考える余裕もなく、私はソフィアさんが差し出したジュースに口をつける。
(少しだけ……)
みずみずしいラズベリージュースをひとくち口に含んだ。
(美味しいわ!)
口当たりの良さに、そのままゴクゴクと喉に流し込んだ——甘酸っぱさの奥に微かに感じる苦み。
(これは——)
巧みに隠された不自然な味に気づいた時には、もう遅かった。
視界がぐらりと歪み、全身の力が抜けていく。
グラスの割れる音が響き、私は床に崩れ落ちるように倒れた。
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